第1.9量子パルス:転入前夜の小さな波紋
≡ Quantum Pulse 1.9 /Inserted Recollection / The Night Before Transfer
その夜、母は珍しく台所で長く立ち尽くしていた。味噌汁の火はとうに止めたはずなのに、なぜかコンロの鍋にもう一度手をかけては、黙って蓋をしていた。翔太は居間の隅で、ソファに身を沈めたまま、視線を宙に投げた。
「――この子、誰?」
最初のひと言は、それだけだった。母は怒っても、取り乱してもいなかった。ただ、湯気の立たない鍋を見つめたまま、時間だけが流れていった。
翔太は、口の中で何度か言葉を転がしたが、どう言えばいいのか分からなかった。「博士の知り合いで……ちょっと、行き場がなくて……」
「行き場がないなら、保護施設に相談するのが筋でしょ」
返ってきた言葉は正論だった。だが、冷たさよりも、どこか母自身の困惑がにじんでいた。ライラは黙って立っていた。
少し首をかしげるようにして、キッチンの窓から夜の空を見ていた。翔太が目を向けると、彼女はふっと微笑んだ。それは、言葉では説明できない、妙な安心感を誘う笑顔だった。
母は少しだけ溜息をついた。
「……まあいいわ。今夜は客用の布団を出すけど、明日にはちゃんと話をつけてね。お父さんなら、こういうとき、どうしたかしらね」
それは、責めるでも、許すでもない、ただ過ぎていく時間の一部のような声だった。




