背後の人
朝の配置は、もう、変わらない。
水の位置。
籠の置かれ方。
人が立つ間隔。
声が、生まれて、消える速さ。
俺は、また、同じ場所に立っている。
同じ高さで、同じ距離に向けて、同じ言葉を置く。
言い方も、調子も、もう、身体が覚えている。
反応は、早い。
返事というほどのものでもない。
笑いと、短い相槌と、作業の音が、言葉の上を、そのまま流れていく。
それで、終わる。
今日も、いつも通りだ。
――だが。
その流れの中に、ひとつだけ、動かないものがある。
作業は、止まっていない。
手は、動いている。
籠は、持ち上げられ、下ろされ、少しずつ、位置を変えていく。
誰かが、その一連を、何度も、繰り返している。
ただ、視線だけが、外れない。
こちらを追っているわけじゃない。
睨んでいるわけでもない。
確認するようでも、
疑うようでもない。
向けている、というより、そこに置いたまま、という感じだ。
笑わない。
眉も、動かさない。
言葉に反応する癖も、ない。
それでも――
聞いている。
作業の音に紛れながら、言葉が出て、言葉が終わる、その最後まで、毎回、そこにいる。
俺は、そちらを見ない。
見れば、
“誰か”になってしまう気がする。
名前が生まれ、位置が決まり、意味が与えられてしまう。
今は、そうなる必要は、ない。
ただ、聞いている“気配”だけで、十分だ。
群衆は、流れていく。
今日の分を、今日の速さで、滞りなく、こなしていく。
笑い、肩をすくめ、そのまま、次の作業に移る。
誰も、立ち止まらない。
その中で、
一人だけが、作業を続けながら、
一度も、こちらから外れない。
気のせい、ではない。
見間違いでも、ない。
今も、そこにいる。
俺は、言葉を置く。
置いて、戻る。
もう一度、
同じ調子で。
同じ高さで。
同じ問いを。
刃を持つ。
角度を決める。
手は、迷わない。
身体は、いつもの動きを拾う。
水の音が、戻る。
籠が、動く。
声が、重なっていく。
世界は、何事もなかったように、また、前に進む。
――だが。
聞かれていない、という感覚だけが、消えない。
誰かが、今も、そこにいる。
こちらを見ている、というより、そこから、外れていない。
俺が話している間も。
言葉を置き、沈黙に戻ってからも。
まだ、そこだ。
誰なのか。
いつからなのか。
何を思っているのか。
分からない。
だが、「いなかった」ことには、もう、できない。
それを、初めて、はっきりと、知る。
それ以上のことは、まだ、何も、分からない。
分からないままで、いい。
今日は、それだけで、十分だ。
世界は、答えを待たない。
知ったことも、知らないことも、同じ重さで、次の時間へ押し流していく。
音は、少しずつ、低くなる。
動きは、ほどける方向へ向かう。
朝から続いていた流れが、形を変えながら、終わりに近づいていく。
そして――
作業が、ほどけていく時間になる。
道具は、端に寄せられ、籠は、数を減らし、声は、要件だけを残して、低くなる。
夕方の光は、強くない。
影は、伸びているが、
誰かを急がせるほどじゃない。
俺は、刃を拭く。
布は、もう乾いている。
いつもと同じ順番で、同じところまで、終わらせる。
その横に――
誰かが、立つ。
呼ばれたわけじゃない。
呼び止められたわけでもない。
気づけば、距離だけが、縮まっていた。
同じ方向を見る距離。
肩が触れない程度。
声を落とせば、群衆には、届かない位置だ。
背は、俺と大きく変わらない。
姿勢は、崩れていない。
疲れているはずなのに、その重さを、外に出していない。
顔は、動かない。
笑わない。
眉も、上がらない。
ただ、目だけが、最初から、ここに置かれている。
しばらく、音だけが、続く。
水の名残り。
布が、刃を擦る音。
遠くで、名を呼ぶ声。
「……本気なのか?」
低い声だ。
探るでも、試すでもない。
確認に近い。
俺は、刃から手を離す。
すぐには、顔を上げない。
答えを選んでいるわけじゃない。
選ぶ必要が、ない。
「……本気だ」
「冗談じゃない」
それだけを、置く。
間が、落ちる。
短すぎず、長すぎもしない。
「そうか」
返事は、軽くない。
だが、重さを乗せる気も、ない。
「このことをやる、得はなさそうだな」
視線は、前のままだ。
俺を見ているかどうかも、分からない。
――そうだ。
ここで、はっきりする。
この人は、聞きに来たんじゃない。
量っている。
俺は、何も、足さない。
説明もしない。
正当化もしない。
この距離は、まだ、私的だ。
だが――
群衆では、もう、ない。
――今日は、ここまでだと思っていた。
「なあ」
声は、背中の横から来る。
近すぎない。
だが、離れてもいない。
俺は、刃を布に包む。
手は止めずに、応える。
「……なんだ」
「皆に、この話をするには、何の得もないな」
唐突だ。
だが、突き放す調子じゃない。
「立場が、良くなるわけでもない」
彼は、地面を見ている。
足元の影を、踏み直す。
「むしろ、面倒だ」
一拍。
言い切ったあと、何も足さない。
――その通りだ。
「……そうだな」
包み終えた刃を、端に置く。
音は、立てない。
「楽には、ならない」
彼は、短く息を吐く。
笑いではない。
「だろ」
確認だ。
説得でも、批判でもない。
「皆が流すのも、分かる」
今度は、こちらを見る。
初めて、視線が合う。
「面倒な話は、聞かない方が早い」
「……ああ」
否定しない。
訂正もしない。
「なのに」
彼は、少し間を置く。
「やめない」
疑問形じゃない。
結論でもない。
事実を、置いただけだ。
「やめないな」
「……やめない」
同じ言葉が、重なる。
だが、意味は、同じじゃない。
「何か、あるんだろ」
探る調子じゃない。
見抜いた、という感じでもない。
ただ、残っている理由を、数えている。
「ある、ってほどじゃない」
俺は、そう言う。
「引く理由が、ないだけだ」
彼の眉が、わずかに動く。
今日、初めての変化だ。
「それが、
一番、面倒だ」
そう言って、肩をすくめる。
「得にもならない」
「評価も、つかない」
「文句だけ、増える」
一つずつ。
順番を、間違えない。
「……そうだな」
俺は、繰り返す。
「それでも、続ける」
理由は、言わない。
言えないわけじゃない。
今は、言う必要が、ない。
彼は、しばらく黙る。
町の音が、遠くで、また動き出す。
「……信じろ、とは言わないんだな」
「言わない」
即答だ。
「説得もしない」
「しない」
「正しいとも、言わない」
「言わない」
三つ並んで、ようやく、彼は小さく笑う。
今日、初めての、はっきりした反応だ。
「厄介だな」
悪口じゃない。
評価に、近い。
――ここで、分かる。
俺は、話している側じゃない。
見られている側だ。
言葉じゃなく、引かない姿勢そのものを。
だが、誇りは、湧かない。
恐れも、ない。
ただ、立つ位置が、変わった。
「今日は、ここまでだ」
彼は、そう言って、荷を持つ。
「明日も、いるか」
「……ああ」
それ以上、約束はしない。
彼は、歩き出す。
振り返らない。
俺は、道具をまとめる。
順番は、変えない。
夕方の音が、完全に、町に戻る。
――利益のない話は、ときどき、
一人だけの足を、止めさせる。
それだけで、今日は、十分だった。
★
夜が挟まる。
何も起きない。
何も、決まらない。
そして――
同じ時間帯だ。
だが、昨日とは違う日だ。
水場の音は、変わらない。
籠の数、声の高さ、人の立ち位置。
変わっていないからこそ、分かる。
――今日も、同じだ。
俺は、同じ場所に立ち、同じ調子で、同じ言葉を置いた。
誰も、止まらない。
誰も、怒らない。
昨日よりも、さらに早く、空気が元に戻る。
その様子を見て、胸の奥で、何かが静かに固まる。
変わらないこと自体が、もう、前提になっている。
作業が、ほどけていく。
夕方に近づく速さも、昨日と変わらない。
道具をまとめていると、少し離れた位置に、あの男がいる。
今日も、笑わない。
今日も、眉は動かない。
今日も、手は止まっていない。
ただ、いる。
それだけで、「見ていた」という事実が、はっきりする。
昨日と同じ距離。
声を落とせば、届く位置。
しばらく、何も言わない。
「なあ」
呼び止めるほどでもなく、問いかけというほど、強くもない。
俺は、手を止めない。
「……なんだ」
「やめればいい」
彼の声だ。
一直線で、感情も、飾りも含まれていない。
「誰も、足を止めてない」
補足も、強調もない。
評価じゃない。
責めでもない。
起きていることを、そのまま並べただけだ。
俺は、刃を布に包む。
手の動きは、崩さない。
――来たな。
反論したいわけじゃない。
言い返したいとも、思っていない。
ただ、その指摘を、否定できなかった。
「……誰も、聞いてないわけじゃない」
俺の声は、低い。
弁解する調子じゃない。
「ただ、俺が、止まらないだけだ」
言いながら、言葉を選んでいる自分に、気づく。
「皆が、聞いた上で、流してるのは、もう分かってる」
少し、間を置く。
「次の作業に戻るには、考えない方が、都合がいい」
口にした瞬間、自分でも、わずかに驚く。
「だから、人には、ちゃんと受け取られてる」
一拍。
「でも――」
刃を包み終え、布を折る。
「そこで、終わってる」
説明を、足すつもりは、ない。
「処理されて、片づけられて、なかったことにされてる」
言葉にすると、輪郭が、はっきりする。
彼は、何も言わない。
視線も、動かさない。
「それでも」
俺は、続ける。
続けようとして、言っているわけじゃない。
止まらない言葉が、そこにあるだけだ。
「やめる理由も、まだ、ない」
彼は、そこで、初めてこちらを見る。
疑う目でもない。
納得した目でもない。
計算している目だ。
「理由がないから、続けてる?」
「……違う」
考える前に、否定が出る。
「続ける理由を、探してるわけじゃない」
少し、間を置く。
「引く理由が、見当たらないだけだ」
言いながら、気づく。
俺は、いつから「続ける理由」を、見なくなっていた?
昨日でも、今日でもない。
ずっと前から、俺は、
“引く条件”だけを、見ていた。
「成果が、出なくても?」
「……ああ」
「反応が、なくても?」
「……ああ」
「立場が、悪くなっても?」
一拍。
「……それは、分からない」
正直な答えだ。
覚悟でも、強がりでもない。
彼は、小さく息を吐く。
「なるほどな」
初めて、
“掴んだ”という音が、そこに混じる。
「お前は、成功のために話してない」
「反応のためでもない」
「結果で、続けるかどうかを、決めてない」
俺は、答えない。
否定もしない。
それで、十分だった。
「だから、嘘をつく必要がない」
その言葉が、静かに、胸に落ちる。
――ああ。
そういうことか。
俺は、正しいから話しているんじゃない。
信じさせたいからでもない。
ただ、引く理由が、まだ、見当たらないだけだ。
「厄介だな」
彼は、そう言って、目を伏せる。
悪口じゃない。
感心でもない。
評価だ。
「それは」
俺は、刃を置き、布を畳む。
「俺の問題だ」
彼は、わずかに口角を動かす。
「だろうな」
それ以上、言葉はない。
夕方の音が、町に戻る。
昨日より、少しだけ、早い気がした。
俺は、道具をまとめる。
順番は、変えない。
――続けている理由は、まだ、言葉にならない。
だが、
一貫しているという事実だけは、誰かに、見えてしまった。
それで、十分だった。
夜は、余計なことを運ばない。
考えは、結論に届かないまま、ほどける。
眠りは、深くも浅くもなく、ただ、過ぎる。
そして――
朝の空気は、軽い。
湿りも、乾きも、ちょうどいい。
水の量。
籠の数。
人の声の重なり方。
昨日と、何ひとつ、変わらない。
子どもが走り、誰かが笑い、誰かが、短く声を荒げる。
町は、今日も、問題なく動いている。
――だからこそ。
俺は、今日も、同じ場所に立つ。
理由を、増やさない。
減らしもしない。
同じ言葉を、
同じ調子で、
同じ隙間に、置く。
反応は、もう分かっている。
「はいはい」
「またそれか」
「後にしてくれ」
誰も、止まらない。
それで、いい。
音が重なり、作業が進み、昼が、ゆっくりと夕方に近づく。
その流れの中で――
ひとつだけ、配置が違う。
あの男だ。
今日は、少しだけ近い。
声が届く距離。
だが、並ばない。
立つ位置が、違う。
俺が言い終えるまで、彼は、口を開かない。
人の流れが薄くなってから。
作業の音が、間を埋めてから。
「なあ」
呼び止めるでもない。
試すでもない。
俺は、手を止めない。
「……なんだ」
「無視できない」
短い。
だが、軽くはない。
「聞かなかったことには、できない」
彼は、こちらを見ない。
人の背中。
道具。
地面。
視線が、順に移る。
――選んでいる。
「信じる、とかじゃない」
先に、線を引く。
「正しいとも、思ってない」
俺は、何も言わない。
「ただ――」
一拍。
「そっちに、立ちたい」
指は、差さない。
歩み寄りもしない。
だが、位置が、確かに変わる。
群衆の側ではない。
俺は、そこで、初めて顔を上げる。
驚きは、ない。
喜びも、ない。
「……そうか」
それだけだ。
彼は、少し首を傾ける。
「それだけだ」
「それ以上、言うことは、ない」
俺は、刃を布に包む。
「無理は、するな」
命令でも、励ましでもない。
ただ、事実として、置く。
彼は、小さく笑う。
昨日の笑いとは、違う。
「分かってる」
一拍。
「だから、選ぶ」
従う、じゃない。
選ぶ。
「立場は、悪くなるぞ」
「だろうな」
即答だ。
「得は、ない」
「ないな」
「笑われるかもしれない」
「……ああ」
短い言葉が、重なる。
だが、ずれない。
確かに、噛み合っている。
彼は、
一歩、位置を変える。
隣ではない。
背中を向ける位置でもない。
同じ方向を見る距離。
「今日は、それだけでいい」
彼が言う。
俺は、頷く。
町の音が、戻る。
昨日と、同じ速さで。
誰も、気づかない。
誰も、立ち止まらない。
――だが、配置は、変わった。
低い者が、従ったわけじゃない。
地位に、賭けていない人間が、賭けない選択をしただけだ。
それで、何かが変わったわけじゃない。
夜は、いつも通りに来て、音は、静かに引き、町は、何事もなかったように眠った。
言葉は、残ったままだ。
増えも、減りもしない。
ただ、置かれた位置だけが、少し違う。
俺は、道具を持つ。
順番は、変えない。
だが――
次からは、同じ言葉が、背後に立つ一人分だけ、違う重さで、残る。
朝の光は、昨日と同じだ。
強くもなく、弱くもない。
影の長さも、作業を急がせるほどじゃない。
俺は、いつもの場所に立つ。
刃を置き、縄を整え、指先で、感触を確かめる。
その少し後ろ。
半歩ほど、ずれた位置で、足音が止まる。
並ばない。
だが、離れてもいない。
誰かが声をかける。
「それ、先に使う?」
俺が答える前に、横から、短く返事が入る。
「今、空いてる」
低い声だ。
だが、通る。
説明も、補足も、ない。
俺は、刃を渡す。
受け取る手は、慣れている。
特別な緊張も、ためらいもない。
――二人で、立っている。
それだけだ。
周りは、変わらない。
籠は運ばれ、水は汲まれ、声は、短く、行き来する。
誰も、こちらを見ない。
視線が止まることも、ない。
「ノア」
後ろから、呼ばれる。
振り向かずに、返す。
「……なに」
「それ、今日も言うのか」
確認だ。
期待も、警戒も、含まれていない。
俺は、
一拍置く。
考えているわけじゃない。
自分の足元を、確かめているだけだ。
「言う」
それで、終わる。
「そうか」
それ以上、続かない。
理由も、求められない。
胸の奥で、静かに分かる。
人数は、まだ、意味を持たない。
一人増えたからといって、言葉が届く距離が、伸びたわけでもない。
声量も、説得力も、世界の反応も、何ひとつ、変わっていない。
それでも――
独りでは、なくなった。
誰かが、同じ言葉を、同じ空気の中で、同じ速さで、受け取っている。
理解しているかどうかじゃない。
信じているかどうかでもない。
ただ、立っている。
引かずに。
それだけのことが、思ったよりも、静かに、胸に残る。
しばらく、言葉はない。
足音と、水の音と、木が擦れる音だけが、続く。
「……邪魔か?」
低い声だ。
気を遣う調子でも、距離を測る調子でもない。
「邪魔じゃない」
即答だ。
考える余地は、ない。
彼は、それ以上、詰めない。
半歩、位置をずらす。
俺の動きが、視界に入るところ。
――近すぎない。
だが、逃げてもいない。
しばらく、同じ動作が続く。
刃が、入る。
繊維が、割れる。
縄が、整えられる。
同じ速さだ。
合わせているわけじゃない。
だが、ずれもしない。
「……名前、言ってなかったな」
唐突だ。
だが、流れを壊さない。
「サジークだ」
俺は、頷くだけだ。
「……ノアだ」
それで、終わる。
確認も、反応も、重ねない。
「それ、次どこに置く?」
別の声が、飛ぶ。
「端でいい」
俺が言う。
「了解」
会話は、それで終わる。
二人で立っているが、世界は、二人用にはならない。
子どもが走り、誰かが笑い、誰かが、短く怒鳴る。
町は、今日も、昨日と同じ調子で、動いている。
――増えたのは、力じゃない。
俺は、刃を持つ。
角度を決める。
いつも通りに、動かす。
ただ、背中に、もう一つ分の沈黙がある。
話しかけてこない。
押してもこない。
離れもしない。
それは、支えでも、救いでもない。
だが、引けなくなる重さとして、確かに、そこにあった。




