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聞き慣れた警告

朝の音が、すでに重なっている。

水を汲む音。

籠を引きずる音。

短い声が、要点だけを行き交う。

新しい朝だ。

だが、配置は、昨日と変わらなかった。

人の立つ場所。

道具の置かれ方。

声が生まれる高さ。

俺は、水場の端に立つ。

立つ理由も、いつも通りだ。

刃を置き、縄を整え、順を確かめる。

誰も、こちらを見ない。

それでいい。

「ノア、そこ空いてるか?」

視線は上げずに、声だけ返す。

「……ああ」

顔を上げる必要は、ない。

返事は、それで足りる。

刃を置く。

縄を引く。

手は、もう、迷わず動いている。

そう考えたわけじゃない。

ただ、昨日と同じ位置に立てば、昨日と同じことが起きると、身体が、もう、知っている。

――来る。

俺が何を言うかを、言われる前から、分かっている。

作業の合間。

水の音が、

一瞬だけ、薄くなる。

誰かが、籠を置き直す。

その隙間に、言葉を出す。

「……さっきの話けど」

声は、低い。

通るかどうかを、確かめるような音量だ。

だが――

間が、ない。

「またそれか」

すぐに声が返る。

振り向きもしない。

俺は、続ける。

昨日と、同じ調子で。

「……お前らに、伝えろと」

「……このままじゃ、村は足りない」

言い切る前に、

別の声が、重なる。

「分かってる分かってる」

「ほんと、真面目だな」

笑いは、短い。

止めるほどでもない。

続けるほどでもない。

――早い。

そこで、はっきり分かる。

反応が、昨日より、早い。

視線は、上がらない。

手も、止まらない。

俺の言葉が、終わる前に、場は、もう次の動きに移っている。

「ノア、これ先に運ぶ?」

すぐ横から、別の用件が飛ぶ。

声は、さっきと同じ高さだ。

特別な間も、含みもない。

「……ああ」

返事をして、動く。

籠を持つ。

重さは、昨日と同じだ。

中身の偏りも、変わらない。

底に手を回し、身体を少しずらして、持ち替える。

考える前に、身体が先に、やっている。

運びながら、胸の奥で、静かに、分かる。

――もう、次を知っている。

俺が何を言うかを、言われる前から、分かっている。

拒んでいる、という感じじゃない。

聞いていない、でもない。

もう、分けられている。

真面目な話。

警告の話。

今じゃない話。

だから、最後まで聞く必要がない。

「はいはい」

「また後でな」

誰かが言って、短く笑う。

振り向きもしない。

悪意は、ない。

むしろ、慣れている。

俺は、籠を置く。

音は、軽い。

置き方も、昨日と同じだ。

――警告の内容が、問題なんじゃない。

ここで、初めて、それが、はっきりする。

問題なのは、俺が、どこに置かれているかだ。

この場所に。

この時間に。

この役割で立つ人間。

「また来た、ノア」

そう扱われる位置。

怒りは、ない。

失望も、まだ、ない。

ただ、状況を、把握しただけだ。

水の音が、戻る。

声が、重なる。

布が、引かれる。

世界は、止まらない。

いつもの速さで、進んでいる。

俺も、その中にいる。

ただ一つ、同じ言葉を、また言ったという事実だけを、身体が、記録している。

次も、たぶん、同じだ。

そう思っても、やめる理由には、ならなかった。

刃を持つ。

角度を決める。

今日も、作業は続く。

言葉も、まだ、終わっていない。

――だが、身体のほうが、先に、何かを拾っていた。

同じ道を歩いているはずなのに、今日は、少しだけ、足が止まる。

水場に向かう途中。

畑の脇。

土の匂いは、いつもと変わらない。

変わらないからこそ、気づく。

昨日も、

一昨日も、この道を通った。

畑は、耕されていた。

水は、流れていた。

空は、落ちてこなかった。

――だから、誰も考えない。

考えなくていい形で、世界が、続いている。

俺は、立ち止まる。

止まった理由は、はっきりしている。

考えてしまったからだ。

土を見る。

乾いている部分と、まだ湿りを残している部分。

同じ畑だ。

だが、昨日、雨が降ったかどうか。

それだけで、結果は変わる。

俺たちは、土を耕した。

種をまいた。

水路を引いた。

それでも、決めていない部分の方が、多い。

言葉は、まだ出さない。

空を見上げる。

雲は、ある。

流れている。

速くも、遅くもない。

――俺たちは、毎日、空を見ている。

だが、空に頼って生きているとは、思っていない。

雨が降ること。

日が照ること。

風が吹くこと。

それらを、前提として扱っている。

畑に入る。

指で、土をつまむ。

砕ける。

まとまらない。

この土は、俺の力で、こうなったわけじゃない。

水が来た。

日が照った。

風が乾かした。

どれも、俺たちが選んだわけじゃない。

頼んだわけでもない。

ただ、来ている。

それを、当然のように、使っている。

ここで、はっきりする。

分かってしまった。

俺たちは、生きるために、見えない要素に、頼りっぱなしでいること。

見えないから、意識しない。

意識しないから、忘れる。

忘れたままでも、今日までは、生きられる。

――だから、

警告は、未来の話じゃない。

今の話だ。

俺は、水場に出る。

いつもの声。

いつもの音。

いつもの配置。

誰も、違和感を持たない。

「ノア」

誰かが呼ぶ。

用件は、まだ言われていない。

「……ああ」

返事をして、ほんの一拍、置く。

今日も、同じ場所に立つ。

だが、見ているものは、もう、同じじゃない。

今日も、同じ言葉を言うつもりだった。

水場に立ち、同じ高さから、同じ距離へ。

だが、今日は、角度が違う。

言い方でも、内容でもない。

向けている先が、少し違う。

「……なあ」

声を出す。

大きくは、ない。

呼び止めるというより、作業の隙間に、そっと落とすような音だ。

誰かが、ちらっとこちらを見る。

視線だけ。

首は動かさない。

だが、手は止まらない。

縄を引く。

水を汲む。

籠が、地面に触れる。

「雨が来なかったら、どうなる?」

一拍。

音が、ほんの一瞬だけ、薄くなる。

「は?」

という顔。

声ではない。

眉が、わずかに動いただけだ。

「畑、誰の都合で実る?」

今度は、肩をすくめる。

返事というより、反射。

「急にどうした」

笑い混じりの声。

責めていない。

心配でもない。

場を、元の位置に戻そうとする声だ。

俺は、続ける。

急がない。

追い詰めない。

問いの形を、崩さない。

「水が止まったら、俺たち、何日持つ?」

一拍。

「重要なことを忘れてしまっていないか?」

言い切る。

だが、結論にはしない。

問いの形のまま、そこに置く。

誰かが、鼻で笑う。

「そんなの考えてもしょうがないだろ」

「来るときは来るし、来ないときは来ない」

「ノア、今日は哲学か?」

軽い笑い。

すぐ消える。

続けるほどでもない。

悪意は、ない。

むしろ、慣れている。

扱い方を知っている笑いだ。

俺は、短く返す。

「まあ、来る時もある、来ない時もある」

「けれど、雨が急に止まったら、生き続ける保証はあるか?」

「俺たちは、明日、飯があるとは限らない」

「この村は、飢えないと本当に言い切れるのか?」

「今は困ってないから、考える必要はないかもしれない」

「もしもの話だ」

「ただ、毎日、当たり前のように、見えないものに頼りきっているように見える」

言葉は、増えた。

だが、声は上げていない。

押してもいない。

詰めてもいない。

「ノア、難しいこと言ってるな」

「急に頭でも、打たれたか?」

また、笑い。

今度は、少し散る。

――だが。

俺は、そこで、答えを聞いてしまう。

「来るときは来る」

誰が、決めている?

「来ないときは来ない」

誰の都合だ?

その問いは、まだ、言葉にしない。

今は、しない。

ここで言えば、また、説明になる。

また、並べることになる。

「……そうだな」

短く返す。

同意でも、否定でもない。

それで、場は戻る。

水が、汲まれる。

籠が、運ばれる。

別の話題が、投げられる。

誰も、立ち止まらない。

それでいい。

だが、問いは、消えていない。

ただ、置かれたままになっただけだ。

籠が動く。

水が汲まれる。

誰かが、別の話題を振る。

場は、もう戻っている。

だが、俺の中では、

一つ、位置が定まった。

俺が言っているのは、終わりの話じゃない。

壊れる前の話でもない。

支えているものを、忘れるな、という話だ。

天、という言葉は、まだ、出さない。

だが、視線だけは、もう、そこを向いている。

人は、見えているものだけで、生きているつもりでいる。

だが、本当は、見えない要素の上に、ずっと、立ち続けている。

それを、指さす。

引き寄せるわけでもない。

説き伏せるわけでもない。

ただ、思い出させる。

それが、今の警告だ。

今日も、誰も立ち止まらなかった。

それでいい。

俺は、また、同じ場所に立つ。

次も、たぶん、同じ問いを投げる。

それでも、やめる理由は、まだ、なかった。

そのまま、日が落ちる。

夜は、静かに来る。

急がない。

昼の音が、ひとつずつ、ほどけていく。

灯を置く。

明るさは、控えめだ。

手元が見えれば、それで足りる。

ラヒーマは、先に座っている。

何かを縫っているわけじゃない。

だが、手は動いている。

終わりかけの作業を、ただ、続けている。

「今日は、遅かったね」

責める調子じゃない。

時間を、確かめるような声だ。

「……少し」

それだけ返す。

理由は、足さない。

間が、落ちる。

落ちたまま、誰も拾わない。

「同じこと、言ってた?」

視線は、こちらを向いていない。

指先が、布を整えている。

「……ああ」

嘘は、つかない。

詳しくも、言わない。

「そう」

それで、話は一度、終わる。

灯の芯が、わずかに鳴る。

外では、風が動いている。

ラヒーマが、手を止める。

布を、端に寄せる。

置き場所を、決める動きだ。

「……疲れるでしょ」

決めつけじゃない。

心配というより、体調を確かめる言い方。

「……少し」

今度は、少し遅れて答える。

「無理は、しないで」

命令でも、助言でもない。

ただ、そこに置かれた言葉だ。

「してない」

即答ではない。

だが、考えてからでもない。

「分かってる」

ラヒーマは、そう言って、頷く。

理由は、聞かない。

俺は、灯を見る。

明るさは、変わらない。

減りも、増えもしない。

「今日は、どんな話?」

少しだけ、踏み込む。

それ以上は、来ない。

俺は、言葉を探す。

まとめようとは、しない。

「……雨の話」

「畑、水ぐらいのことかな」

どれも、説明じゃない。

断片だ。

「ふうん」

それだけで、十分らしい。

「天のこと?」

試す響きでも、確かめる響きでもない。

「……名前は、出してない」

正確な答えだ。

ラヒーマは、少し間を置く。

それから、言う。

「みんな、聞いてた?」

聞いていたかどうか。

そこだけを、確かめている。

「……聞いてた人は、いた」

「でも、そのあと、何もなかったみたいに、作業を続けてた」

「そう」

肯定でも、否定でもない。

灯の影が、壁に揺れる。

昼とは、違う揺れ方だ。

だが、特別じゃない。

「続けるの?」

直接だ。

だが、重くはない。

「……たぶん」

確信は、ない。

だが、否定もしない。

「明日も?」

「……分からない」

嘘じゃない。

「でも、やめる気は、ない」

それだけは、分かっている。

ラヒーマは、少し笑う。

大きくは、ない。

「なら、寝なさい」

「朝、早いでしょ」

「……ああ」

それで、話は終わる。

灯を落とす。

闇が、広がる。

音は、まだ、残っている。

俺は、横になる。

体は、疲れている。

だが、その重さは、昼とは違う。

考えは、まとめない。

結論も、出さない。

ただ、続けられる状態のまま、目を閉じる。

そして――

朝が来る。

音が、戻る。

水の音。

籠の音。

足音が、重なる。

同じ道。

同じ場所。

同じ配置。

刃を置く。

縄を整える。

手は、昨日の続きを、迷わず拾う。

考える前に、動いている。

体が、もう、順を覚えている。

「ノア、今日は早いな」

声だけが、軽く投げられる。

「……ああ」

それだけで、会話は足りる。

理由は、要らない。

水が汲まれる。

籠が動く。

短い声が、要点だけを行き交う。

――話す。

「……もし、空が黙ったら、どうなる?」

言葉は、昨日と同じだ。

言い方も、ほとんど変えていない。

間も、測っていない。

選んでもいない。

ただ、出てくる。

「またそれか」

誰かが言う。

昨日より、少し早い。

――待つ。

肩が、すくめられる。

誰かが、短く笑う。

作業は、止まらない。

――また話す。

「この畑、俺たちだけで、ここまで来たか?」

「はいはい」

「分かってるって」

視線は、上がらない。

手も、止まらない。

――待つ。

水を汲む。

運ぶ。

置く。

言葉と、言葉のあいだに、沈黙を置く。

昼になる。

影が、短くなる。

同じ場所に立ったまま、時間だけが、動いていく。

「水が途切れたら、何日もつと思う?」

今度は、返事が返る。

「そんなの考えてもしょうがない」

「なるようになるだろ」

――そうだな。

否定もしない。

訂正もしない。

そのまま、作業に戻る。

夕方。

声が、少し低くなる。

「またその話?」

「結局、同じことだろ」

――同じだ。

ここで、初めて、それを、はっきり認める。

同じ言葉。

同じ場所。

同じ反応。

何も、変わっていない。

世界は、ちゃんと、回っている。

だが、俺の中でだけ、問いが、少しずつ、位置を変え始める。

どこまで、続ける?

これは、数の問題か?

同じ言葉を言い続けること自体が、

試しなのか?

答えは、探さない。

今は、探す段階じゃない。

方法も、変えない。

変える理由が、まだ、ない。

夜になる。

灯が、置かれる。

「今日も?」

短い確認。

「……ああ」

それだけで、十分だ。

朝が来る。

また、立つ。

話す。

待つ。

また話す。

それ以上のことは、まだ、何も起きていない。

だが――

忍耐は、もう、始まっている。

数えられず、名も持たず、ただ、静かに。

同じ速さで、続いている。

それでも、世界の速さは、変わらない。

町は、動いている。

止まる理由が、ない。

子どもが、走る。

声が、高く弾む。

転んで、笑って、また立つ。

誰も、空を気にしていない。

荷が、運ばれる。

量りが、揺れる。

値を呼ぶ声が、交差する。

取引は、滞らない。

今日は、昨日の続きを、きちんと終わらせる日だ。

雨が、来る。

一度。

短く。

それで、十分だ。

地面は、吸う。

水は、溜まらない。

畑は、色を保つ。

芽は、ほんの少し、前に進む。

――何も、壊れていない。

俺は、端に立つ。

邪魔にならない距離。

呼ばれれば、すぐ動ける位置だ。

手は、空いている。

だが、視線は、忙しい。

この町は、うまく回っている。

水が来る。

日が出る。

風が通る。

人は、それに合わせて、動く。

合わせている、はずだ。

だが――

合わせていることを、誰も、数えていない。

ここで、はっきりしてしまう。

壊れていないからこそ、忘れていることが、見えにくい。

頼っているからこそ、意識しない。

雨は、当然のように降る。

日は、当然のように昇る。

水は、当然のように流れる。

「当然」という言葉で、すべてが、包まれている。

――当然じゃない。

そう言いたくなる。

だが、それは、まだ、言葉にならない。

俺がしているのは、終わりを告げることじゃない。

壊れる前に、声を荒げることでもない。

今、この村を支えているものを、思い出せ、と言っている。

だが、その言い方を、俺は、まだ、持っていない。

子どもが、呼ぶ。

母親が、応える。

笑いが、返る。

取引が、成立する。

籠が、空になる。

別の籠が、満ちる。

雨雲は、流れていく。

空は、割れない。

――だから、誰も、立ち止まらない。

立ち止まる理由が、どこにも、見当たらない。

そこで、分かってしまう。

警告とは、未来を脅すことじゃない。

今を、見直させることだ。

だが、それを、どう言うかは、まだ、分からない。

分からないまま、同じ場所に、立つ。

同じ言葉を、使う。

同じ問いを、置く。

町は、今日も、動く。

俺も、その中に、いる。

壊れていない世界の中で、忘れられているものだけを、静かに、指さしながら。

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