割り当てなき指示
川の音は、すでに背景になっている。
意識して聞いてはいないが、途切れたことはない。
朝でも、昼でもない。
時間を区切る理由が、特にない時間だ。
体は、もう現場に馴染んでいる。
手は、もう動いている。
始めたところでも、終わりでもない。
身体が温まり、動きの順が決まっている。
考えなくても、手が進む時間だ。
刃を入れ、引き、返す。
水は、同じ音で流れている。
抵抗も、重さも、変わらない。
足元の石は、ずれていない。
重心も、安定している。
掌には、土が残っている。
指の間に、湿りがある。
冷たすぎない。
乾ききってもいない。
もう一度、刃を入れる。
角度は、最初から決まっている。
迷う理由は、ない。
その途中で——
動きが、止まる。
止めた覚えは、ない。
止めようとも、思っていない。
刃は、水の上にある。
落ちない。
落とさない。
指は、まだ、柄を握っている。
息を吸う。
いつもより、少し長い。
吐く。
水の音は、変わらない。
風も、同じ向きで流れている。
光の位置も、ずれていない。
――そこに、意味だけが入る。
人々を、警告せよ。
言葉だが、声ではない。
近くも、遠くもない。
どこから来たとも、言えない。
響きもしない。
残りもしない。
ただ、動きの途中に、割り込んできただけだ。
手が、動かない。
動かせない、という感じでもない。
次に何をすればいいかが、ほんの一瞬だけ、決まらなくなる。
握っているはずの指に、力が残らない。
落としそうで、落とさない。
落とさないが、握り直しもしない。
肩が、わずかに下がる。
力を抜いたわけじゃない。
抜けた、というほうが近い。
息が、遅くなる。
数えようとして、やめる。
数える理由が、見つからない。
刃は、まだ水の上にある。
水面に、影が揺れている。
揺れ方は、いつもと同じだ。
周りの様子は、変わらない。
崩れたものも、欠けたものもない。
流れは、途切れず続いている。
――意味だけが、残っている。
手首が、わずかに動く。
だが、次の動きには入らない。
続けることも、止めることも、
まだ、選ばれていない。
一拍。
もう一拍。
刃を、ゆっくり戻す。
水に触れる。
音が、戻る。
切れることなく、続く。
作業は、再開できる。
身体は、そう判断している。
だが――
いまは、まだ途中だ。
それ以上は、何も起こらない。
止まったのは、俺か。
刃を、わずかに動かしてみる。
きちんと動く。
引っかかりはない。
途中で止まることもない。
水に触れ、そのまま引ける。
音を聞く。
水が流れる音は同じだ。
高くも低くもない。
さっきまでと変わらない速さで、同じ場所を通っている。
もう一度、刃を入れて引き、返す。
順は崩れていない。
途中で引っかかることもない。
足に意識を向ける。
体重を少し乗せる。
石は沈まない。
足元の感触も変わらない。
位置がずれた感じはない。
一歩、踏み替える。
重心が移る。
その動きに遅れはない。
身体は、思った通りに動いている。
息を吸う。
吐く。
胸が上下する。
苦しくない。
浅くもない。
意識しなくても、呼吸は続いている。
耳に注意を向ける。
川の音。
風の音。
少し離れたところで布が擦れる音。
どれも前からあった音だ。
新しく増えたものも、急に消えたものもない。
目を瞬きする。
光は滲まない。
輪郭ははっきり保たれている。
視界が揺れることもない。
遠くと近くの区別も、いつも通りだ。
手を見る。
指は揃っている。
震えはない。
力も入るし、抜ける。
柄を握り直す。
強すぎない。
弱すぎない。
思った分だけ、力が入る。
刃を、もう一度水に入れる。
引く。返す。
途中で止まらない。
音も途切れない。
水面の影は、同じ位置で揺れている。
周りを、軽く見回す。
欠けたものはない。
崩れたものもない。
倒れた道具も、動いた石も見当たらない。
身体は動いているし、世界も、そのまま動いている。
一拍、間を置く。
何かが入ってくる感じはない。
少し待ってみるが、増えるものもない。
さきほどのような割り込みも、繰り返されない。
刃を布に当てる。
水が落ちる。
滴の間隔は一定だ。
速くも遅くもない。
いつも通りの落ち方だ。
作業は、続けられる。
続けても差し支えはない。
身体は、そう判断している。
それでも――
さきほど、途中で止まったあの感触だけは、埋まらない。
動きを繰り返しても、同じところには戻らない。
音はある。動きもある。
だが、そこにあるはずの何かが、欠けたままだという感触だけが残っている。
理由は、出てこない。
名前も、浮かばない。
刃を、元の位置に戻す。
順を整える。
そのまま、作業を続ける。
やることは、減っていく。
一つ終え、次に移る。
区切りが重なり、朝の工程が静かに抜けていく。
特別な合図は、ない。
ただ、身体が次の場所へ向かうだけだ。
日が、少し傾いている。
朝とは違う場所だ。
屋根の下。
風は、ここまでは入ってこない。
布を広げる。
汚れた端から畳む。
乾いているところと、まだ湿りの残るところが混じっている。
順を間違えると、あとでやり直しになる。
だから、考えない。
決まっている手順だけをなぞる。
一枚、重ねる。
端を揃える。
次を、同じ位置に置く。
その合間に——
意味だけが、浮かぶ。
――人々を、警告せよ。
音は、ない。
思考を遮られた感じでもない。
ただ、手順と手順のあいだ。
何も入らないはずの隙間に、最初からそこにあったみたいに、収まっている。
手は、止まらない。
畳む。
押さえる。
揃える。
なぜ、また出てくる。
今は、何もしていない。
考えてもいない。
避けてもいない。
作業の途中ではなく、終わりでも、始まりでもない。
動きが切り替わる、そのわずかな空白だけを選んで、毎回、そこに置かれる。
「人々」
数を数えるための言葉だ。
だが、数が書かれていない。
範囲も、線もない。
家族か。
近くの者か。
朝すれ違う連中か。
名を知っている者か。
それとも、顔だけ知っている者まで含むのか。
次の布に手を伸ばす。
指先が、端を探す。
布の厚みは、同じだ。
感触も、変わらない。
もし「全員」なら、どこから始めればいい。
もし「一部」なら、なぜそこを区切る。
区切りがないということは、
選べという意味ではない。
だが、選ばずに動くこともできない。
「警告」
声を使う行為だろう。
黙って済む指示ではない。
だが、言葉が決まっていない。
何について。
どこまで。
一度で足りるのか、繰り返すものなのか。
畳む。
端を揃える。
指で軽く押さえる。
警告とは、危険を知らせることか。
それとも、間違いを指すことか。
どちらにしても、相手が理解している前提ではない。
理解していない相手に向けて、何をどう言えば「警告」になる。
「前に」
基準が、ない。
今なのか。
今日なのか。
それとも、何かが起きる前という意味なのか。
起きる、とは何だ。
起きると分かっているなら、それはもう警告なのか。
布を脇に置く。
置く位置は、いつも通りだ。
ずれていない。
器に水を注ぐ。
量は、目分量でいい。
多すぎない。
足りなくもならない。
口に含む。
温くも、冷たくもない。
飲み込みやすい。
喉を通ったあとにも——
それは、残っている。
人々を、警告せよ。
考え続けているから残るわけじゃない。
考えないようにしても、消えるわけでもない。
何かを選び取るための言葉ではなく、片づけられる場所を探しているだけの指示。
器を伏せる。
縁を伝って、水が一筋落ちる。
道具を拭く。
刃に、光が戻る。
欠けは、ない。
歪みも、ない。
布を畳み終える。
端は、きれいに揃っている。
区切りは、すべて終わっている。
終わったはずの工程の、その先に——
まだ、何かが残っている。
今日の作業を、頭の中で並べ直す。
どれも、済んでいる。
抜けもない。
それでも、次の工程が、決まらない。
命じられた、という感触だけが、片づけられずに置かれたままだ。
大きくはならない。
押してもこない。
だが、消えもしない。
日常のあいだに、割り当てられていない指示が、ひとつ残っている。
自然に消えるかどうか、少し、待ってみる。
布をしまう。
道具を戻す。
やるべきことは、すべて終わっている。
だが、それだけが、終わっていない。
今日の中で、まだ、居場所を見つけていない。
そのことだけは、はっきりしている。
夜は、そのまま過ぎていく。
片づけられなかったものも、増えはしない。
名前も、形も与えられないまま、ただ、次の時間に持ち越される。
そして――
同じ朝が、来る。
違う日は、来ない。
空の色。
風の向き。
人の動き出す時間。
どれも、昨日と同じだ。
道具を並べる。
刃。
縄。
柄。
置く順番は、変えない。
変えたところで、作業が早くなるわけでも、楽になるわけでもない。
刃を取る。
重さは、昨日と同じ。
指の位置も、迷わない。
身体は、もう先を知っている。
作業を始める。
始まりでも、終わりでもない。
ただ、昨日の続きだ。
途中で——
何も、起きない。
それを確かめるように、一度だけ、動きを止める。
水の音。
風。
足元の感触。
全部、ある。
欠けているものは、ない。
――人々を、警告せよ。
浮かぶ。
だが、増えない。
広がらない。
昨日と、同じ形。
同じ重さ。
同じ位置。
――まだだ。
理由は、つけない。
理由をつけた瞬間、
「いつ」「どうやって」を考えなければならなくなる。
今日は、言わない。
明日も、言わない。
それで消えるなら、それでいい。
日が、二つ、三つ、過ぎる。
畑。
水路。
集まり。
どこへ行っても、
同じ顔がある。
同じ声がある。
誰も、困っていない。
急いでもいない。
「ノア、今日はこっち先な」
「ああ」
返事は、すぐ出る。
考える必要がない言葉だ。
「昨日、干してた布、もう乾いたぞ」
作業の合間の、いつもの報告だ。
「……そうか」
受け取るだけで、十分な返事。
言いかけて、止める。
続ける言葉が、見つからないわけじゃない。
必要がないだけだ。
沈黙は、不自然じゃない。
前から、こうだ。
だが——
言葉を最後まで言わない回数が、少しずつ、増えている。
「それ、あとで——」
言いかけて、口を閉じる。
続きを言わなくても、意味は通じるはずだった。
だが、言葉より先に、指が動く。
布の端を押さえ、次の折り目を作る。
ラヒーマが、横にいる。
同じ布を畳みながら、手を止めずに聞く。
「……あとで、どうする?」
“それ”が何かは、言わない。
干している布の残りか。
まだ手を付けていない作業か。
どちらでも通じる問いだ。
急かす響きは、ない。
予定を確認するだけの声だ。
一拍、遅れる。
頭の中で、順番を並べる。
先にやるもの。
後に回せるもの。
「先で」
短く答える。
声は、いつも通りだ。
迷いも、強さも、出ていない。
「分かった」
それだけだ。
理由は、聞かれない。
聞かれないのは、今までと、同じだ。
夜になる。
灯を整える。
芯を、少しだけ上げる。
火は安定し、明るさも変わらない。
――人々を、警告せよ。
その言葉が浮かぶ。
だが、灯の明るさは揺れない。
消えもしない。
強くもならない。
ただ、消える気配がないまま、そこにある。
――明日も、待つ。
待つというのは、何もしないことじゃない。
言わない、という選択を、その日ごとに、選び直している。
朝。
「ノア、今日、こっちからでいいか」
声がかかる。
いつもの確認だ。
特別な意味はない。
「……ああ」
返事が、わずかに遅れる。
間が空いたことを、自分でも分かる。
聞こえていなかったわけじゃない。
考え込んでいたわけでもない。
ただ、
余分な言葉がひとつ浮かんで、
それを口に出さず、途中で置いてきただけだ。
――人々を、警告せよ。
まだだ。
言えば、戻れない。
言わなければ、まだ、昨日の続きにいられる。
日常は、壊れていない。
音も、手順も、人の流れも、すべて、いつも通りだ。
だから、急ぐ理由も、ない。
今日も、言わない。
そう決める。
決めたあとで、何も変わらないことを、確かめる。
音。
手順。
人の動き。
全部、続いている。
ただひとつだけ、割り当てられていない指示が、今日も、そこに残っている。
消えるかどうかは、まだ、分からない。
だから——
もう少し、待つ。
……と、思っていた。
消えるなら、条件のない場所で消えるはずだ。
今日は、人のいない場所を選んだ。
声も、足音もない。
呼び止められることも、指示されることもない。
水も、近くにはない。
気持ちを引き戻されるようなものが、最初から何もない場所だ。
動かなくていい仕事を、選んだ。
座ってできること。
力を使わないこと。
途中で手を止めても、問題にならないもの。
布を、整える。
端を揃える。
折り目を、指でなぞる。
一度付いた線は、簡単には消えない。
手は、動いている。
だが、速くはならない。
急ぐ理由が、ない。
その合間に——
また、浮かぶ。
人々を、警告せよ。
音にはならない。
頭の中で響くわけでもない。
ただ、意味だけが、静かに現れる。
消そうとは、しない。
考えないようにもしない。
押し返しても、意味がないことは、もう分かっている。
ただ、消えるのを待っていない自分に、気づく。
——待っていない。
いつの間にか、「消えたらそれでいい」という姿勢では、もう、そこに立っていない。
消えなければ、消えないものとして、扱うしかない。
胸の奥に、何かが、乗っている。
痛いわけじゃない。
苦しい感じでもない。
嫌でも、怖くもない。
呼吸は、普通だ。
深さも、速さも、乱れていない。
ただ、息を吸うたびに、胸の中にあった余裕が、ほんの少しずつ、減っていく。
手が、止まる。
止めようとして、止めたわけじゃない。
ただ、次の動きに行かなかっただけだ。
指を、握る。
開く。
力は、入る。
抜ける。
身体も、感覚も、正常だ。
問題は、ない。
それでも、さっきより、同じ動きをするのに、ほんの少し、時間がかかる。
——重い。
形は、ない。
場所も、決まっていない。
どこにあるのか、指せない。
だが、無いとは、言えない。
人々を、警告せよ。
それは、命令のままだ。
説明も、補足もない。
条件も、期限も、示されない。
増えもしない。
繰り返されもしない。
それでも、そこに、残っている。
待つというのは、動かないことじゃない。
言わない、という判断を、そのたびに、選び直している。
選び直すたびに、判断そのものの重さだけが、静かに、積み重なっていく。
——これは、消えない。
そう思った瞬間、胸の奥の重さが、ほんの少し、位置を変える。
軽くは、ならない。
だが、落ち着く。
受け入れた、という感じでもない。
決めた、わけでもない。
ただ、このまま残るなら、俺は、関わることになる。
それだけだ。
言うかどうかは、まだ、別だ。
だが、何もしない、という選択も、もう、自分とは無関係だとは言えなくなっている。
手を、もう一度、動かす。
さっきより、遅い。
遅らせているわけじゃない。
確かめている。
この重さが、そこにあるままでも、身体は、動けるのか。
動く。
今日は、それでいい。
まだ、踏み出さない。
だが——
逃げても、いない。
足を止めたまま、身体の向きだけを、前に残す。
戻らない。
だが、入らない。
その先で、音が、集まり始めている。
人の声が、前から流れてくる。
ひとつじゃない。
重なって、行き交って、ほどけていく。
集まっている。
それだけで、分かる。
俺は、そこまで行かない。
人が集まる場所の、入り口より少し手前。
声は途切れずに届くが、視線は交わらない距離で立つ。
近づこうと思えば、すぐだ。
二、三歩もいらない。
だが、足は出ない。
声は、はっきり聞こえる。
誰が話しているかも、だいたい分かる。
何についての話かも、追える。
「今日は人多いな」
荷を下ろしながらの声だ。
「朝からだよ。あっちの道、もう詰まってる」
行き来してきた者が、手を振る。
「また増えたのか?」
「増えたってほどじゃない。昨日、別のところに行ってた連中が戻ってきただけだろ」
短い笑い声が混じる。
軽くて、引っかかりがない。
理由を確かめる必要のない笑いだ。
「これ、どこ置く?」
運んできたものを指している。
「端でいい。人の通り道、空けとけ」
「そっちは濡れてるから、後な」
「了解」
やり取りは速い。
言い直しも、念押しもない。
体が、もう分かっている動きだ。
「昨日の分、まだ残ってるか?」
「少しな。足りなきゃ、新しいのと混ぜる」
「混ぜれば足りるか」
「問題ないだろ」
量は、最初から決めていない。
足りなければ合わせる。
余れば、残す。
誰も、困っていない。
「聞いたか? あっちの畑」
「また何かあったのか?」
「たいした話じゃない。水が回ってなかっただけだ」
「じゃあ、すぐ戻るな」
不安の色は、ない。
話題は、そこで終わる。
次の作業に、すぐ流れていく。
「ノア、今日は来てないな」
俺の名が出る。
だが、探す視線は向けられない。
「そのうち来るだろ」
「真面目だからな。一度、別の仕事に入ると、そっち終わるまで来ない」
評価でも、期待でもない。
ただの扱いだ。
日常の中に置かれた、一行の情報。
俺は、動かない。
ただ、声を拾い続ける。
「これ、誰が運ぶ?」
積み上げられた荷を指す声。
「俺やる」
間を置かずに返る。
「じゃあ、そっち頼む」
それで決まる。
役割は、すぐ固まる。
迷う時間がない。
誰も立ち止まらない。
——人々を、警告せよ。
言葉は、出てこない。
だが、ここには、もう揃っている。
笑い声。
短い確認。
物を持つ手の動き。
互いに譲らない判断の速さ。
「昼、どうする?」
作業の合間の声だ。
「まだいい」
「いつも通りだな」
「それで回ってる」
回っている。
確かに、回っている。
俺は、一歩、前に出ない。
足の位置は、変えない。
踏み出せば、声は、確実に届く距離だ。
呼べば、こちらを向くだろう。
だが、踏み出さない。
言葉を、用意しない。
話す順番も、決めない。
切り出し方も、考えない。
ただ、ここに立って、流れを見る。
人の暮らしが、欠けることなく、動いている。
止まる理由は、ない。
直す必要も、ない。
壊れても、いない。
この中に、割り込む言葉があるとしたら。
——まだだ。
俺は、境界に立ったまま、動かない。
今日の役目は、中に入らないこと。
越えないことだ。
声は、続いている。
笑いも、続いている。
途切れない。
それを、背に受けたまま。
次に何をするかは、まだ、決めない。
今日は、ここまでだ。




