途切れない日
世界の始まりから――
人は、地の上で生きるようになった。
選ぶことを覚え、迷うことを覚え、やがて――
それらを、考えなくなることも覚えた。
長い時が流れた。
長すぎて、誰も数えようとしなくなったほどに。
畑は耕され、水は汲まれ、子どもは笑い、年老いた者は、同じ話を繰り返した。
昨日と同じ一日。
今日も、同じはずの一日。
世界が終わる理由など、この村のどこにもなかった。
空は落ちず、雷も鳴らない。
天が裂けることもない。
「選ばれた瞬間」など、誰の記憶にも残らなかった。
ただ――
人の暮らしが、そのまま、続いていただけだ。
この村にも、 いつも通りの朝が来ていた。
水を運び、道具を直し、世間話をして、日が暮れれば、家に戻る。
特別な服を着ている者はいない。
光をまとった者もいない。
昨日までと、何ひとつ変わらない。
土の匂い。
乾いた風。
行き交う人々の足音。
世界は、まだ、何も変わっていなかった。
その中に、ノアという男も、いつも通り立っていた。
彼にとっては、それが「始まり」だとは、まだ、思う理由もなかった。
この朝も、昨日の続きに過ぎなかった。
朝は、まだ薄い。
霧が川の上に低く残っていて、向こう岸は、いつもより少し遠く感じる。
見えないわけじゃない。
ただ、輪郭がはっきりしない。
俺は、地面に道具を並べる。
刃、縄、木の柄。
順番は、昨日と同じだ。考えなくても、手がそう動く。
刃を持ち上げると、ひんやりした重さが掌に乗る。
指で刃先をなぞる。
欠けはない。
朝の湿りが残っているのが分かって、布で一度、拭き取る。
縄を取って引くと、少しだけ返ってくる。
緩い。
端を持ち替えて、もう一度締める。
今度は、きちんと止まった。
木の柄を地面に立てる。
倒れない。
この位置でいい。
川に足を入れると、思ったより冷たい。
足首まで浸して、一拍だけ置き、すぐに引き戻す。
まだ早い。
水は、変わらず流れている。
音は一定で、強くも弱くもない。
昨日と、ほとんど同じ速さだ。
目を落とすと、昨日つけた位置の印が残っている。
ただ、少し外れている。
夜のあいだに、水が土を持っていったらしい。
手で土をならす。
押して、戻して、表面を整える。
力はいらない。
形だけが揃えばいい。
縄を掛けて、引く。
留まる。
指を離しても、動かない。
念のため、もう一度引く。
問題ない。
そのとき、後ろで布の音がした。
軽い足音もする。
振り向く必要はなかった。
「……まだ冷たいな」
声は低く、独り言に近い。
誰かに聞かせるつもりはない。
ラヒーマが横に来て、包みを地面に置く。
布の端を折り返す動きは、いつも通りだ。
「昨日より、水が増えてる」
俺は川を見る。
流れの幅と、岸の線を確かめる。
「……ああ」
それだけで、十分だった。
布を受け取り、折り目を直す。
中は、まだ開けない。
脇に置いて、作業の邪魔にならないようにする。
縄を、もう一度見る。
刃の位置を、わずかにずらす。
川は、変わらない。
水は、進み続けて、止まらない。
刃を持ち上げ、角度を決める。
手首を、固定する。
一度、息を吐く。
深くは、しない。
今日も、これをやる。
それだけだ。
作業は、そこで切れなかった。
形を変えて、続いていくだけだ。
日が上がる。
外の影が、ゆっくりと短くなっていく。
住まいの中は、静かだ。
薄い布越しに、外の音が丸くなる。
風が擦れる音。
遠くの足音。
どれも、ここまでは届かない。
ラヒーマは、床に座っている。
布を広げ、端をそろえる。
指先で、ずれを確かめる。
針を通し、引く。
糸は、音を立てない。
動きは、一定だ。
急がない。
だが、止まらない。
俺は、入口の近くで、紐をまとめている。
昨日ほど汚れてはいない。
だが、結び目が甘い。
引けば、ほどける。
そのままにしておく理由は、ない。
指でほどく。
組み直す。
力を入れすぎないように、引く。
――止まる。
ラヒーマは、布を裏返す。
縫い目の端を、指で探る。
折り目を、爪で押さえる。
視線は、手元から離れない。
「そこ、結び直して」
布を留めている紐のほうを、ちらりと見る。
声は低い。
確かめでも、注意でもない。
作業の途中に、必要な言葉が出ただけだった。
俺は、紐を見る。
結び目が、布の端に寄りすぎている。
引けば、歪む。
位置を、少しだけずらす。
余りが出る。
端を、短く切る。
切りすぎない。
あとで、もう一度使える長さ。
「……これでいい」
確認ではない。
終わった、という合図でもない。
ただ、手を離す前に置いた言葉だ。
針が、布を抜ける。
間隔は、変わらない。
深さも、同じだ。
俺は、脇に置いてあった器を取る。
縁に、欠けがある。
外側だけだ。
内側は、まだ滑らかだ。
使える。
欠けた部分が下に来るように、向きを変える。
倒れない位置に、置き直す。
布の端が、きれいに揃う。
糸が、短く切られる。
「あとで、乾かす」
ラヒーマの手は、止まらない。
「……分かった」
それ以上は、いらない。
器を、影の外に置く。
倒れない位置。
日が当たる向き。
ラヒーマは、次の布を取る。
重ねて、位置を決める。
少しだけ、角をそろえ直す。
俺は、脇の紐をまとめ直す。
余りを、内側に回す。
引っかからないように。
互いに、顔は見ない。
見る必要が、ない。
手だけが、動く。
動いている間は、他に考えることもない。
昼の光が、少し入る。
布の色が、朝よりはっきりする。
作業は、続く。
それからも、同じことを、何度もやった。
布を広げ、紐を結び直し、器を乾かし、日が傾けば、手を止める。
次の日も。
その次の日も。
特別な区切りは、なかった。
ただ、来て、手を動かし、戻る。
同じ場所に、立つ。
今年に入って、もう三度目だ。
何度も来ている場所だ。
だが、足元の感触が、前と違う。
軽く踏んだだけで、分かる。
土に指を当てる。
押す。
すぐには返らない。
押した形が、そのまま残る。
少し、間がある。
——乾いている。
もう一度、指を入れる。
今度は、爪の下に、細かい粉が残る。
湿り気は、ほとんどない。
去年の、この時期には。
ここまで粉は出なかった。
そう思う。
だが、確かめようとはしない。
「去年より、遅いな」
声に出すと、少しだけ落ち着く。
判断ではない。
ただ、今の状態に、名前を置いただけだ。
鍬を取る。
柄の重さは、変わらない。
だが、手に馴染む位置が、前と少し違う。
持ち替えずに、そのまま振り下ろす。
刃が、途中で止まる。
土の中で、押し返される。
——浅い。
思ったより、入っていない。
力が足りないわけじゃない。
角度を変える。
今度は、少し寝かせる。
もう一度、振り下ろす。
刃が進む。
だが、音が違う。
乾いた、硬い音だ。
去年は、もっと鈍かった。
前の二回も、ここまでは硬くなかった。
そうだったはずだ。
そう思うが、比べる意味はない。
風が、顔に当たる。
乾いている。
当たって、すぐ離れる。
肌に、残らない。
——水が、足りていない。
水路を見る。
流れは、ある。
止まってはいない。
だが、広がらない。
岸まで届かず、細いままだ。
縄を引く。
いつもの強さで引く。
だが、張りが足りない。
もう一度、引く。
それでも、同じだ。
「これじゃ、持たない」
誰に言うでもない。
責める調子でもない。
今の条件を、口にしただけだ。
端を、結び直す。
少しだけ、力を足す。
強くはしない。
指が、擦れる。
皮膚が、乾いているせいだ。
血は、出ない。
刃を見る。
縁が、白くなっている。
欠けではない。
——減っている。
布で、刃を拭く。
だが、湿りは、すぐ消える。
拭いたそばから、乾いていく。
足で、土を踏む。
体重を乗せる。
沈まない。
ここまでだな、と思う。
続けられないわけじゃない。
だが、同じやり方では、進まない。
今日は、やり方を変えるか。
それとも——
少し、待つか。
まだ、決めない。
次に来るとき、また確かめればいい。
日が、高い。
この時間に、もうここまで来る。
影が、短い。
足元に、張りつくように落ちている。
一度、手を止める。
止めようとして止めたわけじゃない。
身体が、先に動きを切った。
土を、つまむ。
指の間で、ほどける。
粒が、細かい。
握り直しても、まとまらない。
水を含む前の土だ。
——今は、これ以上いじっても、同じだ。
鍬を、地面に置く。
音は、軽い。
柄を見る。
木目に沿って、細い線が走っている。
触ると、わずかに引っかかる。
前は、なかった。
少なくとも、最初に来たときには。
折れるほどじゃない。
だが、力をかけ続ける場所でもない。
紐を取る。
巻く。
一周、二周。
余りが、少ない。
結び目を作るには足りるが、やり直すほどの余裕はない。
——無駄は、もう出せない。
「今日は、ここまでだ」
声は、小さい。
誰に向けた言葉でもない。
作業に、区切りを置いただけだ。
道具を、まとめる。
刃。
鍬。
紐。
順番は、変えない。
変える理由が、ない。
水路を見る。
水は、流れている。
昨日と、同じ向きだ。
量は、違う。
だが、向きだけは変わらない。
俺は、少し位置を変える。
日陰に入るほどではない。
ただ、直射を外すだけだ。
続きを、どうするかは、まだ、決めない。
続きは、また、次だ。
それから、何度か、同じことを繰り返した。
日を変え、向きを変え、時間をずらして。
土の具合を見て、道具を置き、また戻る。
特別な出来事はない。
ただ、同じ場所に来る回数だけが、増えていった。
気づけば、作業は一人で終わるものじゃなくなっていた。
声が増え、足音が増え、手の数が足りるようになる。
いつから、という区切りはない。
そういう流れに、なっただけだ。
人が、集まっている。
朝より多い。
声が重なり、ひとつひとつの輪郭が薄くなる。
誰が何を言っているかは、いちいち追わない。
俺は、少し外れた位置に立つ。
邪魔にならない場所だ。
手は、空いている。
「ノア、そっち持てるか」
後ろからの声。
顔は見なくても、誰かは分かる。
いつもの調子だ。
「ああ」
差し出された籠を受け取る。
中身が、片寄っている。
片腕に重さが寄る。
そのまま持つと、運びにくい。
一度、持ち替える。
底に手を回す。
重さが、真ん中に来る。
「下からだぞ」
別の声。
念のため、という言い方だ。
「分かってる」
短く返す。
言い返すほどでもない。
言われた通りにした方が、早い。
「今日は、人多いな」
「朝から来てるらしい」
「だから、道が詰まってる」
誰の会話かは、もう混ざっている。
内容だけが、耳に残る。
籠を置く。
置いたら、すぐ次が来る。
間を空ける意味はない。
「ノア、これも頼む」
今度は、横から。
「ああ」
考えずに受ける。
距離は、さっきと同じ。
行って、戻る。
それを、何度か繰り返す。
黙って運ぶ。
歩幅も、変えない。
速くも、遅くもならない。
向こうで、聞き慣れた声がする。
人の声の中でも、区別がつく。
「それ、あとで乾かすから」
ラヒーマだ。
作業の途中で、必要なことだけを言う声。
「じゃあ、こっちは先でいい?」
返したのは、彼女の向かいにいる女だ。
「うん。そっち、日が当たる」
答えは短い。
説明も、付け足しもない。
手は、止まらない。
言葉も、置いて終わりだ。
終わったら、次に移る。
俺は、籠を下ろす。
空になった手を、一度、開く。
また呼ばれるだろう。
そのときに、また動けばいい。
「昨日の残り、まだある?」
少し離れたところからの声だ。
食べ物の話だと、すぐ分かる。
「少しだけ」
答えたのは、ラヒーマの向こうにいる女だ。
手は動いたまま。
「足りる?」
間が、ほんの少し置かれる。
数えてはいない。
「足りなきゃ、混ぜる」
混ぜる、という言い方。
量は、最初から決めていない。
足りなければ、合わせる。
それで終わりだ。
「ノア、ちょっと」
今度は、すぐ近く。
振り向かなくても、距離で分かる。
「これ、ひとりじゃ無理だ」
地面に置かれた、大きな木箱だ。
中身が偏って、傾いている。
「ああ」
理由はいらない。
返事をして、動く。
端を持つ。
反対側に、もう一人いる。
箱の重さが、真ん中に残っている。
「せーの」
掛け声に、合わせる。
息を合わせるほどでもない。
タイミングだけ、揃える。
引く。
木が軋む音。
一瞬、重さが浮く。
それから、位置が定まる。
「……よし」
箱を、日陰の端に寄せる。
倒れない向きだ。
「助かった」
言葉は軽い。
礼というより、区切りだ。
返事は、いらない。
手を離す。
次の作業に戻るだけだ。
誰かが、笑う。
「ノア、相変わらず無口だな」
悪意はない。
ただの評だ。
「前からだろ」
別の声が、代わりに返す。
「喋るときは、喋る」
そういう扱いらしい。
訂正する理由は、ない。
「昼、どうする?」
今度は、前から。
顔を上げなくても、誰か分かる。
「まだ」
短く答える。
今は、決めていない。
「いつもだな」
“いつも”という言葉。
特別な意味はない。
引っかかるほどでもない。
俺は、もう一度、手を見る。
空いている。
また、何か来るだろう。
来たら、また動く。
ラヒーマが、こちらを見る。
手は止めない。
目だけが、こちらに向く。
「ノア、あと一回」
残っている籠は、ひとつだけだ。
中身も、もう軽くなっている。
「ああ」
向かう。
足取りを、少しだけ早める。
「それ、重いぞ」
声は、注意というより、確認だ。
「持てる」
事実だ。
今なら、問題ない。
「無理すんなよ」
無理は、していない。
さっきより、中身は減っている。
持ち上げた瞬間に、それが分かる。
だから、言わない。
籠を持つ。
底に、まだ重さが残っている。
だが、偏りはない。
運ぶ。
数歩で、終わる距離だ。
籠を置く。
音は、軽い。
中身が、少し減っているのが見える。
「これで終わりか?」
誰かが、全体を見渡しながら言う。
「たぶん」
確定じゃない。
だが、追加は来なさそうだ。
「じゃあ、片づけだな」
流れが、切り替わる。
「ノア、そっちお願い」
畳むほうだと分かる。
「ああ」
布を取る。
広げない。
そのまま、折る。
端を、揃える。
角が、ずれている。
横から、ラヒーマ。
「そこ、折り返して」
指先で、場所を示す。
言われた通り、折る。
厚みが、均等になる。
「それでいい」
確認だけの声だ。
礼でも、評価でもない。
人の声が、ばらけていく。
重なっていた音が、ほどける。
誰かは、もう背を向けている。
「また明日な」
「おう」
「気をつけろよ」
「ああ」
どれも、いつもの言葉だ。
特別な意味は、ない。
俺は、手を洗う。
水は、冷たくも、温かくもない。
昼の水だ。
指の間の埃が、落ちる。
それだけで、十分だ。
ラヒーマが、先に歩き出す。
荷は、もう持っていない。
俺は、少し遅れる。
足を止めたわけじゃない。
自然に、間が空いただけだ。
人の中にいて、人のまま、帰る。
それだけだ。
人の輪を、外れる。
声は、背中のほうでまだ続いている。
だが、距離が開くにつれて、ひとつの音に溶けていく。
道は、もう慣れている。
足元を見る必要はない。
昼の熱が、地面から少しずつ抜けている。
家が見える。
灯は、まだ点いていない。
帰るには、早くも遅くもない時間だ。
戸を押す。
中の空気が、外と混ざる。
それだけで、昼が終わる。
夜になる。
外の音が、少しずつ遠くなる。
昼に重なっていた声は、もう残っていない。
人の気配が抜けて、代わりに風の動きだけが残る。
薄い布が、わずかに揺れる。
その揺れで、外がまだ動いていると分かる。
灯は、小さい。
火も、強くはない。
油を足すほどでもない明るさだ。
影が、壁の上で短く揺れている。
一定ではないが、落ち着いている。
ラヒーマが、先に手を止める。
畳んでいた布をまとめ、端を揃える。
指先で、角を一度なぞる。
重ねて、脇に置く。
今日の分は、ここまでだと分かる置き方だ。
俺は、道具を見る。
刃。
縄。
鍬。
昼に使った順のままだ。
置き直す必要はない。
明日の分だ、と頭の中で区切る。
今日の続きを、明日に回す。
それだけのことだ。
刃を持ち上げる。
重さは、昼と変わらない。
縁を確かめる。
欠けはない。
指に伝わる感触も、問題ない。
昼より、少し白くなっているが、使えなくなるほどではない。
布で、軽く拭く。
力は入れない。
油は、使わない。
今は、そこまで要らない。
夜のうちに整えるほどのことでもない。
ラヒーマが、灯のそばに腰を下ろす。
背中を、壁に預ける。
座り直さない。
そのまま、重さを預ける。
肩の力が、少し落ちるのが分かる。
昼の動きが、やっと抜けた感じだ。
「今日は、ここまで?」
声は、低い。
確かめるための問いだ。
次を促すわけでも、急かすわけでもない。
「……ああ」
短く返す。
言い切りでもない。
だが、否定の余地もない。
それで足りる。
縄を、巻き直す。
一周。
二周。
指の動きが、昼より少し遅い。
力が足りないわけじゃない。
一日分、重さが残っているだけだ。
結び目を作る。
強くは、引かない。
ほどけない程度で、止める。
引き直すほどの余裕は、今はいらない。
「明日、早い?」
灯を見たまま、ラヒーマが聞いてくる。
道具ではなく、時間のほうを見ている問いだ。
明日の始まりが、今日と同じかどうか。
それだけを確かめている。
「……ああ」
理由は、言わない。
いつもより早いわけでも、特別なわけでもない。
ただ、遅くはならない。
それで十分だ。
「じゃあ、先に寝る」
決めた、というより、流れだ。
今日の終わりが、そうなっている。
「……分かった」
引き止める理由はない。
先に休むのは、正しい。
ラヒーマは、立ち上がる。
灯を、少しだけ遠ざける。
明るさが、わずかに落ちる。
火そのものは変わらないが、部屋の端が、夜に近づく。
影が、壁の上で位置を変える。
長くはならない。
ただ、場所がずれる。
布が、擦れる音。
足音は、軽い。
眠る前の動きだ。
俺は、鍬の柄を見る。
昼に見た線。
広がってはいない。
今のところは、だ。
親指で、なぞる。
引っかかりは、同じだ。
これ以上、触っても変わらない。
今日は、ここまででいい。
少しして、ラヒーマが戻ってくる。
手に、水の器を持っている。
置く位置は、決まっている。
「これ、飲んでから」
勧めるというより、確認だ。
忘れないための一言。
「……ああ」
受け取る。
温くも、冷たくもない。
昼と夜の間に残った水だ。
一口。
喉を通る。
二口。
身体の奥に、静かに落ちる。
器を、元の場所に戻す。
二人で、灯の前に座る。
距離は、いつも通り。
近くも、遠くもない。
言葉は、出ない。
出す必要も、ない。
一日の残りは、もう音にならない。
火が、揺れる。
揺れて、また戻る。
消えるほどではない。
夜を照らすには、足りている。
俺は、道具を脇に寄せる。
刃。
縄。
鍬。
明日の位置に、揃える。
置く場所を変える理由はない。
朝になれば、またここから始まる。
ラヒーマは、目を閉じる。
呼吸が、一定になる。
昼の速さが、少しずつ抜けていく。
俺は、灯を見る。
明るさは、変わらない。
減りもしない。
増えもしない。
夜は、静かに進む
だが、急がない。
何かが起きる気配は、ない。
それでいい。
俺は、そのまま、座っている。
しばらくして、灯の揺れが、目に入らなくなる。
消えたのか、見ていないだけかは、分からない。
身体は、横になった。
そのはずだ。
だが、眠った、という感覚は、はっきりしない。
目を閉じた時間と、開いた時間のあいだが、そのまま、つながっている気がした。
朝になった、という合図もない。
気づけば、外の色が変わっていた。
身体は、もう動いている。
川にいる。
人の気配はない。
手は、いつもの順で動いている。
刃を入れ、引き、返す。
考えなくても、身体が覚えている動きだ。
今日は、それで問題がないはずだった。
水の音が、絶えず耳にある。
あるはずの音だ。
途切れたわけじゃない。
ただ、意識の奥に下がっている。
——集中が切れたわけじゃない。
そう思って、確かめる。
一度、息を吸う。
いつもより、少し長くなる。
吐くときも、同じだ。
その途中で、手が止まる。
止めたつもりはない。
刃は、水の上に浮いたままだ。
……今、何を待っている?
自分に向けた問いだ。
答えは、まだ出ない。
水面に、影が揺れている。
揺れ方は、いつもと変わらない。
流れも、同じだ。
——異常は、見当たらない。
もう一度、刃を引く。
動く。
だが、指に力が残る。
抜けきらない感触が、わずかに引っかかる。
力を入れた覚えはない。
それでも、身体が構えている。
肩が、自然に落ちる。
力を抜いたわけじゃない。
抜けた、というほうが近い。
音が、薄くなる。
消えたわけじゃない。
遠くなっただけだ。
——聞こえていないんじゃない。
聞きすぎて、拾っていない。
足元を見る。
石の位置。
前と同じ並びだ。
ずれてはいない。
手の甲に、水が当たる。
冷たい。
その冷たさも、いつも通りだ。
感覚は、戻ってくる。
息が、遅くなる。
数えようとして、やめる。
数える理由が、見つからない。
刃先を、少し持ち上げる。
水から離すと、滴が落ちる。
落ちる。
間を置いて、また落ちる。
間隔は、一定だ。
遅く感じるだけだ。
滴の数も、変わっていない。
指を握り、開く。
皮膚の感触は、確かにある。
温度も、力も、分かる。
——身体は、正常だ。
そう確認して、刃を見る。
刃も、問題ない。
それでも、さっきと同じ動きに戻る気には、ならない。
指を、もう一度開く。
感触は、戻っている。
戻っている……はずだ。
川を見る。
流れは、確かに進んでいる。
止まってはいない。
音も、ある。
それでも、目が追わない。
流れが速すぎるわけじゃない。
遅いわけでもない。
ただ、視線が、ついていかない。
一歩、下がる。
踵が、石に当たる。
硬さが、伝わる。
位置も、分かる。
身体は、確かに、ここにいる。
胸の奥が、静かだ。
呼吸も、心拍も、乱れていない。
落ち着いている。
——落ち着きすぎている。
嫌な感じは、ない。
不安でもない。
ただ、波が立たない。
もう一度、息をする。
深くは、しない。
整えるためじゃない。
確かめるためだ。
刃を、水に戻す。
角度を決める。
迷わない。
手が、自然に決める。
動かす。
今度は、きちんと動く。
水の音が、はっきり戻ってくる。
手首が、応える。
力は、通っている。
遅れも、引っかかりもない。
——問題は、見当たらない。
何が違ったのかは、分からない。
目に見える変化は、何もない。
ただ――
本来なら、ここで生まれるはずの反応が、来なかった。
驚きでも、緊張でもない。
身構える前の、あの小さな動きが、起きなかった。
代わりに、何も起こらないまま、時間だけが流れた。
その感触だけが、残っている。
理由は、探さない。
今は、名前を付ける必要もない。
一度、立ち止まる。
止まるつもりで、止まったわけじゃない。
身体が、次の動きに入らず、ほんの一拍、空白ができただけだ。
空を見る。
雲がある。
動いているが、乱れてはいない。
いつもの高さだ。
目を戻す。
水。
刃。
手。
順に、確かめる。
全部、揃っている。
俺は、作業を続ける。
さっきより、少しだけ、ゆっくりと。
動きを減らすためじゃない。
確かさを、保つためだ。
それ以上、確かめない。
違和感は、名前を付けないまま、奥に置く。
今は、それで足りる。
作業を終えれば、身体は自然に次へ移る。
戻らないものがあれば、そのとき考えればいい。
水から手を上げる。
刃を拭き、元の場所に戻す。
足元の石を一つ外し、岸に上がる。
それだけで、流れは区切られる。
顔を上げる。
空は、すでに明るい。
霧は、もう残っていない。
空気が澄んでいて、遠くの輪郭まで、はっきり見える。
道の向こうから、人の声が近づいてくる。
足音が重なり、土を踏む音が増える。
朝は、もう動いている。
俺は、川のそばに立っている。
立つ位置も、足の向きも、昨日と同じだ。
変える理由がない。
「ノア、早いな」
俺の顔を見る必要がない距離で、そう言っただけだ。
「……ああ」
返事は短い。
朝の確認みたいなものだ。
「今日は、水いいぞ」
言われて、川を見る。
流れの幅。
岸の線。
昨日と、変わらない。
「そうか」
それ以上、言うことはない。
水が悪くなければ、それでいい。
地面に道具を置く。
刃。
縄。
木の柄。
順番は、いつも通りだ。
並べ直す必要はない。
「それ、貸してくれ」
横から、手が伸びる。
声だけで、誰か分かる。
「いい」
渡す。
間を置かずに、返ってくる。
「助かる」
「……ああ」
言葉は短いが、足りている。
やり取りは、それで終わりだ。
向こうで、笑い声が上がる。
何の話かは、聞かない。
聞かなくても、困らない。
「昨日の続き、やる?」
「やるだろ」
「雨、来ないしな」
誰も空を見上げない。
この空なら、見る必要がない。
ラヒーマが来る。
包みを抱えている。
歩き方で分かる。
急いでいない。
「これ、置いとくね」
「……ああ」
地面に置かれた包みの端を、軽く押さえる。
風でずれない位置だ。
ラヒーマが、こちらを見たまま言う。
「今日は、あとで回す?」
少しだけ考える。
作業の順番を、頭の中で並べる。
「先でいい」
「分かった」
彼女は、返事を聞く前にもう別の方を向いている。
それでいい。
その背中が離れるのと同時に、
今度は、すぐ近くから声がかかる。
「ノア、そっち頼める?」
指示というより、確認だ。
「ああ」
縄を取る。
引く。
留まる。
「その結び、固いな」
「昨日のまま」
「じゃあ、大丈夫だ」
評価じゃない。
使えるかどうかの確認だ。
水の音が、会話の隙間に入り込む。
切れず、重なりながら、ずっと流れている。
朝の作業は、もう始まっていた。
少し間が空く。
作業の音が、ひとつ落ち着いたところで、前の方から声が飛ぶ。
「昼、どうする?」
食い物の話だと、すぐ分かる。
俺は、刃を布の上に置いたまま、少しだけ間を置く。
「まだ」
今は決めていない。
腹が減っていないわけじゃないが、急ぐ理由もない。
「いつものだな」
横から、軽い声。
確認というより、流れをなぞっただけだ。
「そうだな」
それ以上、話は広がらない。
刃を見る。
縁は、朝と変わっていない。
白くもなっていないし、欠けもない。
「それ、俺がやる」
向かいにいる男が、刃の方を指す。
「任せる」
理由はいらない。
代わる。
代わられる。
手順は崩れない。
少し離れたところから、また声。
「ノア、あと一回」
残っているのは、ひとつだけだと分かる言い方だ。
「ああ」
行って、戻る。
距離は短い。
回数は数えない。
必要な分だけ、身体が動く。
「今日は、早く終わりそうだな」
作業をしながらの声。
「人、多いし」
「助かる」
誰の言葉かは、もう混ざっている。
意味だけが、そのまま残る。
少し向こうで、布が広がる音。
ラヒーマだと分かる。
彼女は、地面に布を広げながら言う。
「そこ、日が当たるから」
「了解」
返したのは、別の女だ。
すでに布を運び始めている。
「それ、乾いたら畳んで」
「分かった」
言葉は、作業の上を流れていく。
引っかからない。
止まらない。
俺は、手を洗う。
水は、冷たすぎない。
昼の水だ。
指の間の埃が落ちる。
それで十分だ。
「昨日より、楽だな」
近くの声。
「そうだな」
理由は、言葉にならない。
天気か、人の数か、どちらかだろう。
道具をまとめる。
刃。
縄。
柄。
順番は、いつも通りだ。
「また明日な」
「おう」
「気をつけろよ」
「ああ」
いつもの別れだ。
ラヒーマが、先に歩き出す。
少し離れてから、振り返らずに言う。
「帰る?」
「……ああ」
並ぶ。
歩幅は合わせない。
だが、自然に揃う。
川の音が、後ろに残る。
前では、人の声が続いている。
俺は、何も言わない。
言う必要も、ない。
今日も、続く。




