四月の雨音
第九章 栄転という名の特命
ほぼ時を同じくして、海斗にも転機が訪れた。
「藤井君、大阪支社の次期課長として、どうだろうか」
役員室で告げられたのは、昇進を伴う転勤の内示だった。それは、企業人としてのキャリアパスにおいて、誰もが羨む「順当なステップアップ」だった 。より高い給与、より大きな責任、そして社会的な成功の証 。彼の将来を安定させるために、手に入れるべきもののはずだった。
だが、彼の心を占めたのは、喜びではなく、深い絶望感だった。大阪へ行く。それは、ようやく見つけたこの東京での居場所を、瑞希という存在を、手放すことを意味していた。
さらに、内示には続きがあった。「大阪支社の業績をテコ入れするため、君の力で、より徹底した成果主義とトップダウンのマネジメントを導入してほしい」。それは、彼が本能的に「間違っている」と感じ、戸惑いの原因となっていた冷徹な管理手法そのものだった 。部下を目標達成のための「駒」として使い、数字で追い詰める。その特命は、彼のプロフェッショナルとして、また一人の人間としての倫理観に鋭く突き刺さった。
この内示は、彼が心の奥底に押し込めていた、自分のキャリアに対する根本的な不満を、容赦なく白日の下に晒した。彼にとっての「成功」とは何なのか。社会的に認められた肩書や地位なのか、それとも、瑞希と過ごす時間の中に感じ始めた、名もなき心の充足感なのか 。彼は、その問いに答えを出せずにいた。




