四月の雨音
第三章 春の雨
空が泣き出したのは、突然のことだった。春の雨――春雨という言葉の持つ、柔らかく詩的な響きとは程遠い、冷たく執拗な雨粒だった。それはまるで、ようやく訪れた春を拒絶するかのような、花冷えの雨 。俳句の世界では、激しい春の雨を「風情がない」と表現することがあるが、まさにそんな雨だった 。
瑞希と海斗は、それぞれ別の場所で、その予期せぬ雨に足を止められた。そして、まるで示し合わせたかのように、同じ小さな店の庇の下へと駆け込んだ。
「SOL'S COFFEE ROASTERY」 。
蔵前の路地裏に佇むそのカフェは、外の寒さを忘れさせるような温かい光を放っていた 。店内に足を踏み入れると、香ばしいコーヒー豆の香りが二人を包み込む。店の片隅では、深緑色の大きな焙煎機が、静かな唸りを上げて豆を煎っていた 。カウンター席が数席と、小さなテーブルが二つだけの、こぢんまりとした空間 。「毎日飲んでも体にやさしいコーヒー」という店のコンセプトが、今の二人には何よりの慰めに感じられた 。
彼らは言葉を交わさなかった。それぞれ別の席に座り、ただ黙って湯気の立つカップを両手で包み込んだ。瑞希は窓の外を、海斗はカウンターの奥を。視線が交錯したのは、ほんの一瞬。しかし、その一瞬に、言葉にならない共感が流れた。
(この人も、きっと……)
三十代、独り、冷たい春の夕暮れに、温もりを求めてこの場所にたどり着いた。彼らの背景にある物語は違えど、今この瞬間に共有している感情は、驚くほど似通っているように思えた。それは、焦りや不安、そしてどこにも行き場のない、静かな孤独。
彼らは、人生の岐路で立ち尽くす二人の旅人だった。正しい道を選ばなければならないというプレッシャーに、足がすくんでいる。20代の頃のように、間違えてもやり直せる時間はもう多くない。そう思うからこそ、下手に動くことができない 。瑞希が新しいノートを買えなかったように。海斗が日々のルーティンから抜け出せないように。
この出会いは、ロマンチックなものではなかった。それは、同じ凍てつきの中にいる者同士の、静かな共鳴。雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。




