錦秋の独白、あるいは金木犀の残り香
第三部:吉野の錦秋――深化
3.1. 一目千本の旅
十一月半ば、二人は奈良の吉野山へ日帰りの旅に出た。前夜の雨が嘘のように空は晴れ渡り、肌を刺すように凛と冷たい空気が、冬の気配をはらんでいた。
近鉄電車に揺られ、古風なロープウェイで山を登る。彼らが歩き始めると、息を呑むような光景が広がっていた。山全体が、まるで絢爛豪華な錦の織物で覆われているかのようだ。「錦秋」という言葉が、これほど似合う景色はないだろう。赤、黄、橙、燃えるような紅、深い紅葉色、黄金色。あらゆる色彩が混じり合い、陽光を浴びて輝いていた。
下千本から中千本へと続く道を、二人はゆっくりと歩いた。以前よりも会話は少なく、心地よい沈黙が二人を包んでいた。
「あそこが吉水神社。源義経と静御前が別れた場所やと言われてます」
美咲が、歴史の一幕を語る。金峯山寺の荘厳な佇まい。修験道の聖地としての山の歴史。海斗は、プログラミング言語の寿命とは比較にならない、悠久の時の流れに圧倒されていた。自分が抱えていたキャリアの悩みや将来への不安が、この壮大な自然と歴史の前では、ひどく些細なものに感じられた。
3.2. 金木犀の香り
やがて二人は、花矢倉展望台にたどり着いた。眼下に広がる「一目千本」の絶景。言葉は、その圧倒的な美しさの前では無力だった。ただ隣に立ち、同じ景色を眺める。それだけで、すべてが満たされているような感覚があった。
その時、ふわりと甘い香りが風に乗って運ばれてきた。盛りを過ぎた、金木犀の香りだった。その香りは、記憶の扉を開ける鍵のようだった。プルーストがマドレーヌの味で幼少期を思い出したように、この香りは、この瞬間を永遠に封じ込めてしまうだろう。金木犀の花言葉は「真実」、そして「初恋」。
海斗は、隣に立つ美咲の横顔を見た。壮大な愛の告白も、将来の約束も、ここには必要なかった。ただ、今この瞬間の、偽りのない気持ちを伝えたかった。
「美咲さんといると、息がしやすい」
それは、情熱の告白ではなかった。安らぎと受容の表明だった。三十代の彼らが、何よりも求めているもの。
美咲は何も言わず、ただ、ゆっくりと微笑んだ。その笑顔は、吉野の錦秋の空よりも、深く、澄み切っていた。そして、まるでこぼれ落ちそうな彼の言葉を受け止めるかのように、そっとその手に触れた。指先が、彼のジャケットの袖に軽く触れる。言葉にならない、確かな受容のサインだった。二人の関係が、ただの偶然の出会いから、確かな絆へと変わった瞬間だった。金木犀の甘い残り香が、その真実を祝福するように、二人を優しく包み込んでいた。




