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春夏秋冬  作者: 久遠 睦


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錦秋の独白、あるいは金木犀の残り香(秋をテーマにした30代の恋愛)

錦秋の独白、あるいは金木犀の残り香


第一部:嵐山の初紅葉――邂逅


1.1. 秋晴れの空の下で


十月の半ば、京都の空は「秋晴れ」という言葉がそのまま絵になったように、高く澄み渡っていた。長袖のシャツの上に薄手のジャケットを羽織って、ちょうどいいくらいの気候だ。渡月橋のあたりは、平日だというのに国内外からの観光客でごった返している。多言語の話し声と無数の足音が織りなす喧騒から逃れるように、海斗は川沿いの道を上流へと、あてもなく歩いていた。川のせせらぎと、時折梢を揺らす風の音だけが耳に届く場所を求めていた。


数週間前、彼は大阪の巨大なIT企業を辞めた。三十六歳。世間では中堅と呼ばれる年齢だろう。しかし彼の中には、キャリアが「頭打ち」になったという感覚だけが重くのしかかっていた。利益率と納期に追われる日々の果てに何があるのか。より大きな裁量と、もっと「意義」のある仕事を求めて、彼は京都の小さなテックベンチャーに移ったばかりだった。だが、場所を変えても心の空洞は埋まらない。むしろ、自由になった時間の中で、その空虚はより鮮明な輪郭を帯びてきていた。


周囲では、楽しげな家族連れや寄り添って歩く恋人たちの姿が目につく。三十代の未婚者の七割に恋人がいないという調査結果を、彼はどこかで目にした。自分はその多数派に属している。ただそれだけのことだと頭では理解していても、孤独感が薄まるわけではなかった。


1.2. 邂逅

天龍寺の喧騒を離れ、さらに奥まった小さな寺の門前に差し掛かったときだった。一陣の風が吹き抜け、数枚の葉がはらりと舞い落ちた。ほとんどの木々がまだ緑の衣を纏う中で、その数枚だけが、まるで血を一滴落としたかのように鮮やかな紅色をしていた。「初紅葉」という言葉が、ふと頭に浮かんだ。


その儚い美しさに見惚れていた海斗は、すぐそばに佇む人の気配に気づくのが遅れた。危うく肩が触れそうになり、慌てて身を引く。


「すんまへん」


柔らかく、少しだけ語尾が上がる、独特の響きを持つ声だった。見ると、凛とした立ち姿の女性が、彼と同じように紅葉の葉を見上げていた。歳の頃は三十代半ばだろうか。仕事で来ているのか、その佇まいには隙のない落ち着きがあった。海斗は、彼女の視線が自分に向けられていることに気づいた。少し着古されたジャケットの肩、しかし背筋は伸びている。何かを探すように、あるいは何かから逃れるように、真剣な眼差しで一枚の紅葉を見つめている。その横顔に、彼女は同質の孤独の影を見た気がした。


彼女は美咲と名乗った。西陣で百数十年続く織元のマネージャーをしており、今日は嵐山にある取引先に特殊な絹糸の相談に来た帰りだという。


「伝統を守るだけでは、食べていけしまへんから」


そう言って彼女は静かに笑った。その横顔に、海斗は自分とは質の違う、しかし同じ重さのプレッシャーを感じ取った。古いものを守りながら、新しい価値を生み出すことの困難。それは、彼の新しい職場の課題とも通じていた。彼女もまた、「このままでいいのか」という問いを、日々自分に投げかけているのかもしれない。


1.3. 湯豆腐の昼餉

人の流れから完全に切り離されたその場所で、二人は自然と葉の美しさについて言葉を交わした。そのやり取りは、まるで予行演習でもあったかのように滑らかだった。


「もしお時間があったら、静かなところでお昼でもどうどす?」


美咲の誘いに、海斗は頷いた。彼女が案内したのは、渡月橋の喧騒が嘘のような、川の流れを見下ろす高台にひっそりと佇む一軒の料亭だった。近衛文麿の別邸を改装したというその建物は、静寂と気品に満ちていた。


名物は湯豆腐だった。手にした器の温かさが、じんわりと掌に伝わる。昆布だけが揺らぐ土鍋から引き上げたばかりの豆腐は、つるりとしていて、大豆の甘みが濃い。それを、繊細な出汁と数種類の薬味でいただく。ぴりりと舌を刺す紅葉おろし、爽やかな葱の香り。一つ一つの味が、会話の合間に挟まれる沈黙のように、異なるニュアンスを加えていく。派手さはないが、素材そのものの力が静かに伝わってくる。その味わいは、二人の間の会話のようでもあった。


海斗は自分の仕事について話した。デジタルの世界で、形のないものを構築していくこと。美咲は、何人もの職人の手を経て、一本の糸が絢爛な織物へと姿を変えていく様を語った。


「西陣織の紋様って、ある意味、物理的なプログラミングですよね。膨大な糸から、設計図通りに一つの世界を立ち上げていく……」


「まあ、そんな難しいことやないけど」と美咲は微笑んだ。「でも、あなたの言うデータの可視化?あれも、見えへん人の想いを形にするという意味では、織物と似てるんかもしれまへんな」


アナログとデジタル。抽象と具象。二つの世界は対極にあるようで、ものづくりの本質という一点で、不思議と響き合っていた。彼らの出会いは、情熱的なものではなかった。それは、同じ時代を生き、似たような迷いを抱える二人の人間が、秋の始まりの日に静かに巡り合った、一つの必然だったのかもしれない。


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