夏の輪郭(夏をテーマにした30代の恋愛)
第一部 初夏・静寂
第一章 碧・画面の青
初夏の柔らかな光が、鎌倉のアパートの一室に満ちていた。しかし、イラストレーターの碧を照らしているのは、液晶モニターが放つ冷たい人工の光だけだった。窓辺で風に揺れる風鈴の澄んだ音が、ちりん、と鳴る。それは彼女の内面の混乱を、優しく、しかし少しばかり嘲笑うかのような響きだった。
碧は、カーソルの点滅する真っ白なデジタルキャンバスを前に、動きを止めていた。それはただの白ではない。冷たい「雪白」の光の中で際立つ、無機質な空虚さだった 。もう何時間こうしているだろう。別のウィンドウで開かれたSNSのフィードには、同業者たちの成功を告げる投稿が絶え間なく流れてくる。鮮やかな色彩のイラスト、輝かしい仕事の報告、そして、それらに付随する「いいね」やコメントの数字。その一つひとつが、碧の胸に小さな棘のように突き刺さった 。
「描きたいもの」ではなく、「評価されるもの」を描かなければ。その強迫観念が、彼女の創造力の泉を枯渇させていた。他人の成功と自分の停滞を比較するたび、取り残されていくような焦燥感と、フリーランス特有の深い孤独が押し寄せる 。クライアントからの入金は遅れ、先日問い合わせのあった案件は返信がない。不安定な収入という現実が、常に低い唸り声のように頭の奥で響いていた 。会社にいれば、愚痴をこぼしたり、励まし合ったりする同僚がいるのだろう。しかし、この四畳半の城には、気軽に仕事について相談できる相手もいない 。
いらだちとともに、碧はノートパソコンを閉じた。畳と古い木材の匂いが混じった部屋の空気が、よどんでいるように感じられる。コンピューターのファンが立てるかすかな駆動音だけが、静寂を破っていた。風鈴の音が、またちりんと鳴った。その音に背中を押されるように、彼女はスケッチブックを掴むと、玄関へ向かった。デジタルな世界から逃れるように、彼女が時折足を運ぶ古民家カフェへ行こう。そう思った。部屋の空気は、海の青さと憂鬱を混ぜ合わせたような、伝統色の浅葱色に染まっているようだった。




