四月の雨音
第十二章 これから
葉桜の木漏れ日が、暖かく二人を照らす。その光景は、彼らの新しい始まりを祝福しているかのようだった。
数日後、瑞希は蔵前の裏通りにいた。彼女がノートの最初のページに選んだのは、SyuRoの近くにある、古びたブリキの工房だった 。後継者不足で、いつまで続けられるか分からないと店主が寂しそうに笑っていた場所だ 。
瑞希は「かきもり」で買ったノートを開く。金属と油の匂い、リズミカルに響く職人の槌の音、その皺の刻まれた手。五感のすべてが、目の前の光景を記録しようと研ぎ澄まされていく 。ペンを握る手に、少し汗が滲む。人前で絵を描くのは、思った以上に気恥ずかしい 。線が震え、思うように形が取れない。それでも彼女は、対象から目を離さなかった。フィールドノートとは、ただ上手に描くことではない。観察し、記録し、対話することだ 。
休憩中の職人が、彼女のスケッチを覗き込み、はにかんだように言った。「へえ、面白いことしてるねえ。時代が変わっても、無くしちゃならないものがあるんだ。あんたみたいな若い人が、こうやって覚えててくれるのは、嬉しいもんだよ」。
その言葉に励まされ、彼女は再びペンを走らせる。描くうちに、キャリアへの不安や将来への焦りは消え、心が静かな集中と没入感に満たされていった。それは一種の瞑想的な体験だった 。完成したスケッチは完璧ではなかったが、その「描く」という行為そのものが、彼女の心の空白を確かに満たしていた。ノートの最初のページを埋めることで、彼女は自らの人生の新しい第一歩を、確かに踏み出したのだ。
同じ頃、海斗は会社の小さな会議室で、第二章で上の空だった若手部下の一人と向き合っていた。初めての、彼が主体的に設定した1on1ミーティングだった 。
「答えを教えてしまえ!」という古い自分の声が頭の中で響く。だが海斗はそれを押し殺し、意識的に「傾聴」を実践した 。指示を与える代わりに、開かれた質問を投げかけた。
「このプロジェクトで、君が一番ワクワクするところはどこ?」
「今、何が一番の障害になっていると感じる?」
「それを乗り越えるために、僕に何ができるかな?」
最初は戸惑っていた部下も、海斗の真摯な姿勢に、少しずつ自分の言葉で語り始めた。彼の口から語られたのは、海斗が全く気づかなかった斬新なアイデアと、それを実行に移せないでいた小さな不安だった。海斗は、彼の立場に立って物事を考え、「共感」しようと努めた 。
面談が終わる頃、部下の表情は、部屋に入ってきた時よりもずっと主体的で、明るいものに変わっていた。この一度の対話で全てが解決するわけではない。しかし、確かに信頼の回路が開かれた感覚があった。海斗は、自ら技術的な問題を解決した時の達成感とは異なる、誰かをエンパワーメントすることから得られる、静かで新しい種類の満足感を覚えていた 。
その週末、二人は再び蔵前公園で会った。
「それで、そのノートの最初のページには、何を描いたの?」海斗が尋ねた。
「SyuRoの近くにある、古いブリキの工房」瑞希は、誇らしげにノートを開いて見せた。
「すごい……。温かい絵だね」
「ありがとう。藤井さんは、どう?新しいマネジメントは」
「難しいよ。でも、面白い。今まで見えてなかったものが、たくさん見えてきた」
彼らは、人生のすべての問題を「解決」したわけではない。しかし、その問題と、これから二人で向き合っていくことを決めたのだ。物語は、劇的なクライマックスではなく、穏やかで、希望に満ちた新しい季節の始まりで幕を閉じる。
「じゃあ、君が次のスケッチをしている間、俺がコーヒーでも買ってくるよ」海斗が言った。
「いいね。SOL'S COFFEEの」瑞希が微笑みながら答える。
儚く美しい花びらの季節は過ぎ去り、力強く、地に足の着いた葉桜の季節がやってきた。それは、彼らが探し求めていた、より永続的で、より本質的な美しさの象徴だった。そして、それこそが、二人が本当に求めていた「安心」の形なのかもしれなかった。




