四月の雨音(春をテーマにした30代の恋愛)
四月の雨音
第一部:花冷え
第一章 水無月瑞希――書かれざる頁
三月も終わりに近づいた金曜の夜、水無月瑞希、三十二歳は、誰もいなくなったオフィスで一人、ディスプレイの青白い光を浴びていた。デザイン事務所のプロジェクトマネージャーとして、彼女の能力は高く評価されている。しかし、その評価は、締め切りという名の無慈悲な獣に常に追い立てられる生活と引き換えだった。
(また、この時間か……)
キーボードを打つ指を止め、凝り固まった肩を回す。窓の外は、春の訪れをためらうかのような冷たい闇に沈んでいる。今年の桜の開花は、三月の長引く寒の戻りのせいで、例年よりずっと遅いらしい 。テレビのニュースキャスターが、まるで自分の人生の停滞を告げるかのように、その事実を淡々と伝えていたのを思い出す。
瑞希の心の中は、静かな嵐が吹き荒れていた。三十代。その言葉の響きは、可能性よりも期限を強く意識させる。先日、ウェブ記事で目にした数字が、脳裏に焼き付いて離れない。30~34歳の独身女性が5年以内に結婚できる確率は約24% 。四人に一人。その統計が、まるで自分への宣告のように重くのしかかる。友人のSNSには、週末に家族で出かけた幸せそうな写真が並ぶ。かつては一緒に旅行に行き、夜通し語り明かした仲間たちは、一人、また一人と家庭という名の別の世界へと旅立ってしまった 。祝福したい気持ちと、取り残される寂しさが、胸の中でない交ぜになる。
職場では、キャリアウーマンとして評価される一方で、それが男性を遠ざけているのではないかという不安が常につきまとう。「仕事ができて気が強い女性は怖い」――そんな男性側の本音を分析した記事を読んで、自分のことではないかと心臓が冷たくなったことがある 。気を遣われ、プライベートな話題、特に結婚や子供の話を避けられていると感じる瞬間は、優しさというより、自分が「面倒な存在」だと烙印を押されたようで悲しかった 。
会社を出て、蔵前の静かな通りを歩く。古い問屋と新しいカフェが混在するこの街の空気が、瑞希は嫌いではなかった 。心を落ち着かせようと、ふと目に留まった文房具店「かきもり」の暖簾をくぐる 。
店内は、紙とインクの匂いが満ちていた。整然と並べられた色とりどりのインク、様々な質感の紙、精巧な作りの筆記具。ここは、「書くことを楽しむ人」のための聖域だ 。瑞希は、オーダーメイドノートのコーナーに引き寄せられた 。表紙を選び、中紙を選び、留め具を選ぶ 。自分のためだけの一冊を作るその行為は、コントロールを失いつつある自分の人生の中で、唯一、思い通りにできる小さな砦のように思えた。
(新しいノート。新しい始まり……)
しかし、彼女は結局、何も買わずに店を出た。真っ白なノートは、そこに記されるべき新しい物語を要求する。今の自分には、その物語が見つけられない。書くべき言葉を持たないまま、新しいページを開くことはできなかった 。それは、前に進みたいと願いながらも、その一歩を踏み出す勇気も、向かうべき方向も見失っている彼女自身の姿そのものだった。春の夜風が、コートの隙間から入り込み、肌を冷たく撫でていった。




