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白銀の先導

作者: 久遠 睦

プロローグ:元旦の記憶


一月の空気は、刃物のように冷たく澄み渡っていた。七歳の田中美紀の吐く息は、真っ白な綿菓子になっては、すぐに冬空に溶けて消えた。沿道にひしめく人々の間から、美紀は背伸びをして前を見ようとした。湯気の立つ甘酒の匂い、大学の応援団が打ち鳴らす太鼓の音、そして期待に満ちたざわめきが、新年特有の高揚感となって空気を満たしていた 。

毎年、正月になると家族で箱根駅伝を観戦するのが田中家の恒例行事だった。テレビで見るのとは違う。凍てつくアスファルトを叩くランナーたちの足音、荒い息遣い、そして一本の襷に込められた想いの重さが、肌で感じられるからだ 。駅伝は単なるスポーツではない。それは百年の歴史を繋いできた、国民的な儀式のようなものだと、父はいつも言っていた 。

「もうすぐ来るぞ」

父の声に、美紀はぐっと身を乗り出した。遠くから、微かなサイレンの音が聞こえる。歓声が波のように押し寄せてくる。先頭集団だ。しかし、美紀の目を釘付けにしたのは、選手たちではなかった。

彼らの前を、まるで水面を滑るかのように静かに進む、一台の白いバイク。

白バイ。

その存在は、周囲の熱狂とは対照的に、絶対的な静寂と秩序をまとっていた。巨大で重いはずの車体が、信じられないほどゆっくりと、そして一切のブレなく進んでいく。子供心にも、それがとてつもなく難しい技術であることは直感でわかった 。ヘルメットに身を包んだ隊員は、まるで不動の守護神のようだった。騒音を立てるでもなく、威圧するでもなく、ただひたすらにランナーたちの道を切り開き、安全を守る。その姿は、美紀の目に、誰よりも力強く、そして美しく映った。

それは、単なる「かっこいいバイクのお巡りさん」ではなかった。国民の想いが交錯するこの神聖な道を、静かに、しかし絶対的な権威をもって守護する先導者。美紀の胸に、雷に打たれたような衝撃が走った。

私も、いつかあの場所に立ちたい。

あの白いバイクに乗って、選手たちを、そしてこの国の新年の希望を、先導したい。

七歳の少女の心に灯ったその小さな光は、それから二十年にわたって彼女の道を照らし続ける、消えることのない道標となった。


第一部:紺青の誓い


第1章 警察学校


大学を卒業した美紀は、一直線に夢へと続く扉を叩いた。警察官採用試験。体力検査の基準は厳しく、腹筋は30秒で13回以上、立ち幅跳びは147cm以上を求められた 。何度も基準に届かず涙を飲んだが、幼い日の記憶が彼女を奮い立たせた。そしてついに、合格通知を手にしたのだ。

しかし、警察学校での生活は、美紀が抱いていた理想とはかけ離れたものだった。そこは、個人の自由が完全に剥奪される場所だった 。朝の起床から夜の消灯まで、一日のすべてが厳格な規律で縛られていた。交通法規や刑法の座学、息つく暇もないほどの厳しい訓練。 civilianとしての自分は解体され、警察官という組織の歯車として再構築されていく感覚。卒業した先輩が「やっと普通の人間に戻れる」と漏らした言葉の意味を、美紀は痛いほど理解した 。

特に苦痛だったのは、拳銃の訓練だった。射撃場に響き渡る轟音と、撃った後に腕を突き上げる強烈な衝撃は、どんなスポーツよりも恐ろしかった 。的を狙うたびに、人の命を奪う力を持つことの重圧が、彼女の肩にのしかかった。自分の勇気は生まれ持ったものではなく、ここで鍛え上げなければならないのだと痛感した。

何度も心が折れそうになった。しかし、そんな彼女を支えたのは、同じ苦しみを分かち合う同期の存在だった 。汗と泥にまみれ、時には涙を流しながら、互いに励まし合った。厳しい教官も、その根底には自分たちを一人前の警察官に育て上げようという愛情があることを、彼女たちは知っていた 。この集団生活の中で、個人の夢を追う前に、まず組織の一員として仲間を信頼し、頼ることの重要性を学んだ。それは、かつて一人で輝いて見えた白バイ隊員になるために、避けては通れない道だった。個の力を発揮するためには、まず揺るぎない組織の土台が必要なのだ。


第2章 交番勤務


半年間の厳しい学校生活を終え、美紀は都内の警察署に配属された。最初の任務は、すべての警察官が通る道、交番勤務だった 。

箱根路を颯爽と走る白バイの姿とは、あまりにもかけ離れた日常がそこにはあった。道案内、酔っ払いの対応、遺失物の届け出、そして膨大な量の書類仕事。華やかな夢は色褪せ、地域社会の安全を守るという、地道で泥臭い現実が目の前に広がっていた。

ある日の午後、交通違反の取り締まりで、美紀は初めての試練に直面する。一時停止を無視した車を止め、運転手の男性に声をかけた。しかし、違反を指摘された男性は激昂し、美紀の未熟さを見透かしたように暴言を浴びせ始めた。

「若い女のお巡りに何がわかる!」

美紀は冷静に対応しようとしたが、声は震え、頭は真っ白になった。学校で学んだ法律や手順は、感情的になった人間を前には何の役にも立たなかった。この経験は、若い警察官が直面する「対人スキル」の壁を、彼女に痛感させた 。

その様子を見ていたベテランの先輩巡査部長が、そっと間に入った。彼はサングラスを外し、穏やかな口調で、しかし毅然とした態度で男性に対応し、見事に場を収めた。

後日、巡査部長は美紀に言った。「俺たちの仕事は、法律を振りかざすことじゃない。相手の心を開かせ、納得してもらうことだ。そのためには、言葉遣い一つ、目線一つが重要になる。教科書には載ってない、現場でしか学べない技術だ」

この日から、美紀の意識は変わった。一つ一つの職務に、誠実に向き合った。相手の目を見て話すこと、時には笑顔を見せる気配り、冷静さを失わないこと。これらはすべて、将来、たった一人で違反者と対峙する白バイ隊員にとって不可欠なスキルだった 。箱根駅伝の先導隊員に求められる「人格」とは、こうした日々の地道な積み重ねによって磨かれるのだと、彼女は気づき始めた 。交番での日々は、夢への遠回りではなく、最も重要な土台作りの期間だったのだ。


第二部:鉄馬の試練


第3章 鉄の重圧


交番での勤務が認められ、ついに美紀は白バイ隊員養成所への入所を許された 。しかし、彼女を待っていたのは、想像を絶する試練だった。

初めて対面した訓練車両、ホンダCB1300P。その巨体は、威圧感に満ちていた。警察装備を含めれば300kgに迫るその車重は、美紀にとって「世界の重さ」そのものに感じられた 。

最初の訓練は「取り回し」。エンジンをかけずに、この鉄の塊を押したり引いたりする、最も基本的な訓練だ 。美紀は全体重をかけても、バイクを思うように操れない。腕の筋肉は悲鳴を上げ、額からは滝のような汗が流れた。

そして、乗車訓練が始まった。結果は、惨憺たるものだった。

転倒。また転倒。

車体を支えきれず、アスファルトに叩きつけられる衝撃。日に日に増えていく青あざ。教官や同期たちの前で失敗を繰り返す屈辱 。真夏の訓練では、分厚いプロテクターの下が蒸し風呂状態になり、体力だけでなく精神力も容赦なく削られていった 。

何度も心が折れかけた。あの元旦の日に見た、優雅で力強い白バイの姿は、あまりにも遠い。自分の夢は、ただの無邪気な幻想だったのではないか。体力も技術も足りない自分には、到底たどり着けない場所だったのではないか。弱音が、心の隙間から次々と湧き上がってきた。

それは、バイクという機械を才能や力でねじ伏せるのではなく、痛みと失敗の繰り返しによって、その物理的な性質を身体に刻み込むプロセスだった。一回の転倒が、バイクの重心の位置を、傾きの限界点を、慣性の法則を、言葉ではなく感覚として美紀に教え込む。この肉体的、そして精神的なるつぼを乗り越えなければ、バイクを自分の一部のように操ることはできないのだ。


第4章 鏡の中の亡霊


厳しい訓練の中で、美紀は少しずつバイクとの対話の仕方を学び始めていた。そんな彼女に目をかけたのが、口数の少ないベテランの指導教官だった。彼は、白バイ隊員の真髄は、派手な高速走行ではなく、地味で繊細な低速での安定性にあると教えた。

その核心技術が「引きずりブレーキ」だった。右足のつま先でリアブレーキに常に微かな圧力をかけ続ける。その踏み込み量は、計測すればわずか2度ほどの角度。同時に、右手のスロットルをほんの6度だけ開ける 。この二つの相反する力を絶妙なバランスでコントロールすることで、あの巨大なバイクがふらつくことなく、歩くような速度で安定して進むのだ。

さらに、左手で行う半クラッチの操作は、まるで外科手術のような精密さを要求された 。パワーを断続的に、そして滑らかに後輪に伝える。これらの技術は、通常のバイクライディングの常識を覆すものだった。速く走るための技術ではなく、極限まで遅く、安定して走るための技術。箱根駅伝の先導という、最も華やかな舞台に立つために、最も地味で忍耐のいる訓練をマスターしなければならないという矛盾が、そこにはあった 。

そして、最大の難関が「鏡の中の亡霊」との戦いだった。後方の対象を監視する際、決して振り返ってはならない。頼りになるのは、左右の小さなバックミラーだけ。歪んで見える小さな像から、対象との距離、速度、動きのすべてを正確に読み取らなければならない 。最初は、振り返りたい衝動と、見えない前方への恐怖で体が硬直した。

しかし、教官は言った。「ミラーを信じろ。お前のもう一つの目だ」。美紀は、来る日も来る日も、ミラーに映る目標物だけを頼りに走り続けた。それは、自分自身の感覚を捨て、機械が映し出す情報だけを信じるという、新たな信頼関係をバイクと築くための訓練でもあった。次第に、ミラーの中の景色が、肉眼で見るのと同じ解像度で頭の中に描けるようになっていった。


第三部:約束の道


第5章 指名


白バイ隊員になって数年が経ち、美紀は27歳になっていた。彼女は、もはや訓練所で泣いていた新人ではなかった。ある時は、危険な暴走車両を冷静な判断と卓越した技術で追跡し、検挙した 。またある時は、交通事故の現場で負傷者を励まし、二次被害を防ぐために的確な交通整理を行った 。かつて交番で学んだ対人スキルと、訓練所で培った運転技術が、彼女を一人前の隊員へと成長させていた。

その日、美紀は上司である隊長室に呼ばれた。緊張した面持ちで入室すると、隊長は一枚の書類を手に、静かに告げた。

「田中、来年の箱根駅伝、往路1区の先導を命ずる」

一瞬、言葉の意味が理解できなかった。耳鳴りがして、心臓が大きく跳ねた。隊長は続けた。「全国白バイ安全運転競技大会での成績もさることながら、お前の日々の勤務態度、特に冷静な判断力と、何事にも真摯に取り組む姿勢を評価した。あの舞台を任せるには、技術だけでは足りん。知識、そして人格が問われるからな」 。

交番時代からの自分のすべてが見られていたのだ。大きな声で返事をすることも、喜びを爆発させることもできなかった。ただ、幼い日の夢が現実になったという実感が、静かな、しかし圧倒的な感動となって胸の奥から込み上げてきた。それは、警視庁初の女性先導員という栄誉以上に、自分の歩んできた道が間違っていなかったと認められた瞬間だった 。隊長室を出た美紀は、誰にも見られないよう、そっと目頭を押さえた。それは、夢のような、幸せな時間だった 。


第6章 二十メートルの壁


指名を受けた日から、美紀の特別訓練が始まった。課せられた任務は、ただ一つ。先頭を走るランナーとの距離を、常に完璧な15メートルから20メートルの間に保ち続けること 。

その訓練は、精神的な持久戦だった。前方の安全を確保し、沿道の観客にも注意を払わなければならないため、後方を振り返ることは絶対に許されない 。頼りになるのは、あの「鏡の中の亡霊」だけだ。

先輩隊員がランナー役となり、意図的にペースを上げたり、急に落としたりして美紀を揺さぶる。彼女はミラーに映る、小指の先ほどの小さなランナーの姿から、その動きを予測し、半クラッチとリアブレーキ、そしてスロットルをミリ単位で調整し続けなければならない。

指導教官は、美紀のバイクのミラーに一本のテープを貼った。「本番では使わん。だが、このテープの位置に常にランナーの足が収まるように走れ。20メートルという距離を、理屈ではなく、身体に染み込ませるんだ」 。

訓練は過酷を極めた。一日中、神経をミラーに集中させることで、勤務が終わる頃にはヘトヘトになった 。これは、単なる運転技術の訓練ではなかった。ランナーの苦しみやペースの変化を、機械越しに感じ取り、共鳴しながらも、決して感情に流されず、冷静な守護者であり続けるという、精神的な訓練でもあった。ランナーと一心同体でありながら、決して交わることのない、絶対的な20メートル。その見えない壁を完璧に維持することこそ、彼女に与えられた使命だった。


第四部:襷を繋ぐ


第7章 号砲


1月2日、早朝。東京・大手町の空気は、新年を祝う華やかさと、これから始まる死闘の緊張感で張り詰めていた。美紀は愛車であるCB1300Pの前に立ち、最後の運行前点検を行っていた。タイヤの空気圧、ブレーキの効き、オイル量、灯火類。指先で一つ一つ確認するその作業は、高鳴る鼓動を鎮めるための、神聖な儀式でもあった 。

スタート地点にバイクを移動させる。沿道を埋め尽くす観衆のざわめき、上空を旋回する報道ヘリのローター音、そしてスタートラインに並ぶ選手たちの、静かだが燃えるような闘志が肌を刺す。

とてつもないプレッシャーだった。自分のほんの僅かなミス、例えばエンストや立ちごけ一つが、全国に生中継され、大会の進行を妨げることになる。過去には、交通規制の連携ミスで、選手と車が衝突しかけるという重大なインシデントもあった 。自分に課せられた責任の重さを、改めて痛感する。

大丈夫。今日この日のために、何年も、何千時間も訓練を積んできた。あの転倒の痛みも、ミラーと睨み合った日々も、すべてはこの瞬間のためだった。

美紀は深く息を吸い、ヘルメットのシールドを下ろした。視界が狭まり、外界の音が少し遠くなる。聞こえるのは、自分の呼吸音と、アイドリングを続ける相棒の規則正しい鼓動だけ。

午前8時。

パンッ!

乾いた号砲が、冬の空に響き渡った。

美紀は、まるで体の一部であるかのように滑らかにクラッチを繋ぎ、アクセルをわずかに開けた。巨大な白バイは、微かな振動さえ感じさせずに、静かに、そして力強く前へ進み始めた。

二十年越しの夢が、今、走り出した。


第8章 白銀の舞


美紀の意識は、三つに研ぎ澄まされていた。

一つは、前方。路面に引かれたコースライン、メディアの中継車、そして何よりも、熱狂する沿道の観衆。コースに身を乗り出しそうな観客を見つけると、左手を軽く上げ、無言で制止する 。その動きに無駄はない。

二つ目は、彼女自身と一体化した機械。左手はクラッチを繊細に操り、右足のつま先はリアブレーキに常に触れている。右手のスロットルは、ほんの数ミリ単位で開閉を繰り返す。エンジンの回転音が、彼女の意図を忠実に反映するフィードバックとなる。

そして三つ目は、バックミラーの中の小さな世界。先頭を走るランナーの姿が、まるで精密な心電図のように、彼の状態を伝えてくる。わずかな上り坂で、彼の肩が揺れ始めた。フォームが乱れる兆候だ。美紀は、彼との距離が開くよりも一瞬早く、スロットルをほんのわずかに緩める。反応ではない、予測だ。

その時、沿道の観衆の中から、小型のドローンがふわりと浮かび上がった。危険な低空飛行。選手の集中を乱し、最悪の場合は接触事故に繋がりかねない。美紀の判断は一瞬だった。左手で鋭くホイッスルを吹き鳴らし、車体をわずかにコース中央に寄せることで、ドローン操縦者に無言の警告を送る。すべてが、ランナーのリズムを一切乱すことのない、流れるような動きの中で行われた。

彼女は、ただ機械的に先導しているのではなかった。ミラー越しのランナーと共に走り、共に戦っていた。心の中では、彼に声援を送っていた。「頑張れ、あともう少しだ」。決して届くことのない、しかし確かな繋がりが、そこにはあった 。

技術と精神が完全に融合し、意識がバイクと任務そのものに溶け込んでいく。それは、長年の厳しい訓練の果てにたどり着いた、完璧な「フロー状態」。傍から見ればあまりにも簡単に見えるその走行は、彼女の技術と魂のすべてを注ぎ込んだ、白銀の舞だった。


第9章 繋がった襷


鶴見中継所が近づくにつれて、沿道の歓声は轟音へと変わっていった。美紀は、最後の力を振り絞るランナーを、ゴールラインへと導く。

次の区間の走者が、身を乗り出して待っている。先頭ランナーが、汗に濡れた襷をその手に託した。

美紀の任務は、終わった。

彼女はコースから静かに離脱し、後続の任務を引き継ぐ別の白バイとすれ違う。指定された待機場所でバイクを止め、エンジンを切った。

次の瞬間、世界から音が消えた。

圧倒的な静寂の中で、初めて感情の奔流が彼女を襲った。安堵、疲労、そして胸の奥から静かに湧き上がる、深く、温かい喜び。ヘルメットの中で、涙が止めどなく頬を伝った。それは悔しさや悲しみの涙ではない。七歳のあの日、テレビの前ではなく、沿道で本物の輝きを目にした少女の夢が、二十年の時を経て、今、確かに果たされたことへの、感謝の涙だった 。

彼女は、ただ静かに泣いた。誰に褒められるでもなく、誰に知られることもない、たった一人の、世界で最も満たされた瞬間だった。


エピローグ:新たな地平線


箱根駅伝から数週間後、美紀はいつものように都内の幹線道路をパトロールしていた。新年の熱狂は過ぎ去り、日常の交通が戻っている。彼女は交通違反を取り締まり、事故を未然に防ぐ、名もなき一人の警察官だ 。

信号無視をした一台の乗用車を停止させる。運転手に冷静に状況を説明していると、ふと後部座席に座る小さな女の子と目が合った。

その少女は、美紀の顔ではなく、彼女の背後にある純白のバイクを、憧れに満ちた、キラキラした瞳で見つめていた。

その眼差しに、美紀はかつての自分を重ねていた。

美紀は、職務用の厳しい表情をほんの少しだけ緩め、少女に小さく、優しく微笑みかけた。

再びバイクに跨り、走り出す。箱根駅伝の先導は、ゴールではなかった。それは、長い道のりの上にある、一つの大切な通過点。

彼女の心には、新たな目標が芽生えていた。いつか指導員となり、自分と同じ夢を抱く後輩たちを育てること。特に、まだ少数である女性白バイ隊員が、もっと活躍できる道を切り拓くこと 。

かつて無名の隊員が自分に夢を与えてくれたように、今度は自分が誰かの道標になる。

繋がれた襷は、また次の走者へと受け継がれていく。美紀の行く先には、新たな地平線がどこまでも広がっていた。


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