わたしの幽霊
タクシーで駅前に戻ると、路地裏の狭苦しい立ち食いの「関東煮」とのれんが掛かる。秋瀬が大阪に来た頃には、もうこの「かんとだき」という呼び名ではなくおでんと呼んでいた。
「おでん?」
秋瀬は高浜を覗いた。
「飲んだ後はここやねん。適当に頼めや」
「ちくわ、大根、ごぼ天、たまご、はんぺん」
「はんぺんないわ」
丸い顔のお婆が笑った。
「ちくわぶ」
「何やねん。おまえはセンスないな。たまごなんて後で頼まんと冷めるやんけ」
「おでんの具でセンス言われたくない。そもそも何なのよ、あのキャバ嬢」
「何とかは突然にや」
「死?」
「キャバ嬢に恨みでもあるんか」
冷や酒を頼んだ。枡に入れたグラスになみなみと日本酒が注がれた。浜岡のマネをして口からグラスに近づけて腹の前に引き寄せた。三分の一ほど飲んでから、枡に溜まった酒をグラスに戻して普通に飲んだ。華やかなキャバクラと場末の居酒屋の雰囲の落差は興味深い。他にも数人客がいたが、秋瀬と浜岡は若いくらいだ。
「キリキリが胃まで落ちてくる」
「内臓荒れてない?」
秋瀬は仕事でも華やかなところで飲食することも多い。業界御用達の個室レストランやバーなどで、芸術論や文学論や音楽論など散々聞かされてから、たまに口説かれることもある。
秋瀬は適当に頼んだネタをつついた。大根は関西風の出汁が効いていておいしい。今浜岡が語るのは関東と関西の「おでん論」だ。いつも彼は芸術のことなど話したことはない。何とか論について尋ねても「わからん」と一言。
「田楽は食べたことあるか」
「焼いた豆腐田楽、茄子田楽。東京にある京料理のお店で食べたことがある」
「あれは京料理なんか。食べたいな」
「あれはあれでおいしいんだけど。来たら紹介するわ。一緒にいる人によるんだけどね」
秋瀬は卵を半分に割ろうとしたとき、
「ちなみに幽霊と飲む酒はうまいか」
箸から卵が逃げた。
秋瀬の酔いが一気に冷めた。
浜岡は卵を割ると、片割れの一つを半分に引っくり返して黄身を出汁に浸した。
「もう一杯飲めよ」
「もう……」
「出汁割り」
浜岡が勧めてきた。おでんの出汁に日本酒を注いだものだ。秋瀬は口をつけると、出汁の匂いと日本酒の匂いが上顎から抜けた。シメのお茶漬けみたいなものだなと思いながらほとんど一人で飲んだ。浜岡は見届けるとジャケットの内ポケットに入れて勘定を済ませた。
「久々に楽しめた気がするわぁ」
店を出た浜岡は空に腕を伸ばした。焼き鳥もキャバクラも浜岡は連れて行かれていた。どこに行きたいとも言わないし、何を飲みたいともリクエストもしていない。相手に言われたまま座らされて、頼まれたボトルを降ろし、かわいそうな子を指名して支払って帰ってきた。
「ほんまにわざわざ東京から来たんか」
「うん」
秋瀬は駅を指差した。コインロッカーに荷物を預けてある。大きめのロッカーから旅行鞄を取り出した。ビジネスホテルもインバウンドで高いとのことだが、予約しておいた。
「朝十時くらいに電話する」
秋瀬はコンコースから立ち去る浜岡の後ろ姿を眺めていた。すぐに仕事の帰りで行き交う人々の群れに消えた。まさかここから飲みに行くとかあるのだろうか。ビジネスホテルにチェックインしてから浜岡に電話をしてみた。
「帰った?」
『どういう意味やねん』
「亜美ちゃんと再会してるかと」
『しばらくええ夢を見せてもろたわ。二度と会わんやろうな。そこそこ楽しんだよ』
「楽しんでるように見えないんだけど」
すでに電話は切れていた。秋瀬は風呂の扉を開けて、シャワーからお湯を出して、湯気が部屋の中へ導いた。腰を掛けてピンクのセーターを脱いで、ベッドに転がりつつジーンズを床に蹴落とした。やってしまった。酔いの勢いで正論を吐いたが、かけ直すと出てくれた。
『何やねん。まだ何かあるんか』
「明日行く前に連絡する」
『おやすみ』
「おやす……」
即切られた。秋瀬はベッド脇のコンセントに充電器を差し込んで風呂に浸かった。
翌朝、八時に起きて鏡を見た。しこたま飲んだ三十路女そのものだ。廊下に出て数本のスポーツドリンクを買った。ちゃんとケアをして寝たのに、朝の肌はこんなものか。込み上げてくるものがあるので、便器に顔を突っ込むようにして吐いた。消化されていないおでんのカケラが出てきた。たまに飲みすぎると二度と飲むもんかと思うが、夕暮れになれば、また不思議と飲める気がする。何とかして浜岡とランチを食べられるまでに復活したい。浜岡は食べられるのか。お互いに食べないならありがたい。
秋瀬は電話をかけると、
『コンペの作品できたから送る』
「寝てないの?」
『酒の力で夢うつつで書くほど落ちぶれとらん。スマホに打ち込んでないから写真で送る』
「直接見たい。駅のカフェで」
『何であんなやかましいところで』
「もうホテルも出ないといけないし、帰る前に会いたいし。ごめん。だからどこかで」
『四天王寺の南門で待ってるわ』
「一時間後で何とか。女は出かけるにしても化粧とか身だしなみとかあるの」
『何も言うてないやん』
四天王寺と一心寺というお寺がある。四天王寺は聖徳太子由来の寺で一心寺は無縁仏を弔ってくれることで信頼を得ていた。
秋瀬が行くと、浜岡は赤い南門の前の階段に腰を掛けていた。ジャケットこそは着ているが昨日のものとは違うし、なかなか洒落たサスペンダーで吊るすズボンを履いていた。
「髭は剃らないのね」
「ここから伸ばす気はない。剃るのが面倒やから生やしてるだけや。誰にも会わんしな」
「意外にその服似合うわね」
秋瀬もVネックのラフなニットと昔で言うところのマキシ丈のエンパイアスタイルのワンピースを珍しがられた。女らしい姿を見たことがないと言うので、スカートを履いていたら女らしいわけなのかと尋ねると、俺がワンピース着たら女らしく見えるのかと返された。
要するに意識してくれてるのかなと、どちらともなく四天王寺の南門から入った。改めて入ったことがないので、広くて驚いた。
中門、五重塔、金堂、亀の池がある。亀が甲羅干ししているのだが、手を叩くと亀が餌を求めて寄ってくる。西の大門を外に出ると義経の鎧掛け松がある。西の休憩所から学校が見えるところで、二人はベンチに腰掛けた。
いつものB5のコピー用紙に右斜上に上がる細くて丸い字が記されていた。まるで鉄筆で削られたように書かれたラブソングだ。
「わたしには判断できないわね」
「今のおまえは判断せんと渡してるんか。好きな歌や絵や人を紹介しとらんのか」
「そんなに責めないでよ」
「偉うなったもんやな」
依頼は本格派に転身する予定のアイドル向きということだった。女の子目線の三角関係のせめぎ合いの歌詞が描かれて、負けてしまい立ち上がる女の子の気持ちが描かれていた。
「あれは妙なメロディやな。これくらいシビアな詞がいると思うよ。神様へ捧げるのか」
「たかが恋愛くらいで?」
「たかが恋でお七も江戸に火ぃつけたやん」
「送ってみるけど。確かにそうよね」
「気に入らんだら送らんでええわ」
「怒らないで」
好きなものでも嫌いなものでも、自分の琴線に触れたものを売ろうとしていたのに、いつの間にかカネに変わるかどうか嗅いでいた。
「どうせ売れんよ。くそ暗い曲になる。作曲した奴はバッハにでもなりたいんか」
「こっちは?」
「特に誰かのために書いたもんやない」
「片思いのくせにやけに強気ね。誰かこれ歌える人いるのかな。曲探していい?」
「任せる。売れたら言うて」
秋瀬は数人の若手を思い出した。芸能事務所や他でくすぶっているバンド、歌手、作曲家作詞家、バンド、AI、シンガーソングライター、芸人でも考えつつ、ひとまず一枚目の歌詞を売れかけの某アイドルグループを統括するプロデューサーに送ると、すぐ既読がついて、しばらくして電話がかかってきた。
『待たされただけある。まだ決まってなくてね。ちゃんと曲のこと理解してくれて救われるよ。個人的にはこれで決定したいな』
秋瀬はスマホを手にしたまま、浜岡のもう一枚の歌詞を鞄の手帳に丁寧に挟んだ。
浜岡は自販機でブラック、秋瀬のためにミルクティを買ってきた。今でも覚えていてくれているだと思うと少しうれしい。
「わたしたち歪な関係になったのかな。あなたは死にかけたわたしを蘇らせてくれた。でもわたしはあなたを幽霊にしちゃった」
「俺、昨夜何か言うたか?」
就活をしているとき、小学生と中学生と高校生では何とか生きてきたのに、社会の壁に押し潰された。中学受験のストレスにも耐えてきた秋瀬だが、まさかこんな言葉一つで潰されるなんて想像もしていなかったから、だから余計に苦しくて、あの飛び込んだバーで泣いた。
『そんなもの趣味だと言われたんです。どこの誰かわからないおじさんに好きでやってきたこと否定されたんです。気にしてないけどね』
『不浄観やで』
よくわからないことを言われて、秋瀬は残ったショットを干した浜岡を睨み据えた。
『コーランを空で読めるのよ』
『美しいね』
『読んであげないわよ。あなたにコーランの美しさなんてわかるもんですか』
『日本語も美しいんやで』
高浜はストレートを飲んだ。
『おじさん嫌いだわ。関西弁嫌いよ。わたしのしてきたこと否定したのよ?キズついた!』
『これからは素人が発信できるようになる時代が来るんや。作詞も作曲もライブも自分の部屋で自分でやるようになる』
浜岡は豆をつまんだ。
『いい時代よね。すべて一人か』
『そうでもないと思うで。守ってもらえんようになる。人気の出る作品は群衆に骨までむさぼり尽くされるか、誰にも見向きもされんまま片隅で骨になるまでほっとかれる。ずっと聴かれることはない。どちらにしても骨になる』
『もうわたしは人と話さない。ボンベイサファイアください。おじさんも飲んで。わたしの酒が飲めないなんて言わないでね』
『飲むもの拒まず吐くもの止めずや』
『汚い。これでも華の都の女の子よ。青春を大都会!東京で過ごしたんだからね」
『都落ちやんけ』
「都落ちなんて思わないけど」
秋瀬は砂利の音を聞いて呟いた。
「誰とも話さんと聞いてたけどな」
「わたしは言葉の美しさを学んだからこそあなたにも会えた。あなたはわたしを蘇らせてくれた。あれで救われて生きてきたのに」
へべれけに飲んでいたのに、あんなことを覚えているなんて不思議だ。もうあれから十年になるのか。途中他の人とも何人かお付き合いはしたが、いつも相談していたのは浜岡だ。
やがて秋瀬にも転機が訪れた。
会社でライブ会場を押さえたとき会った作曲家に、浜岡から奪うように持ってきていた詞を見せた。まさか売れるなんて。そこから秋瀬の趣味が始まる。今でも浜岡の詞はいろいろなアルバムの一曲か二曲を埋めている。
それぞれの別名義で。
秋瀬は浜岡のような人がたくさんいることに気づいて、ネットを中心にして彼らを束ねる活動を始めた。暇を見てはあちこちの芸能事務所やライブハウスやレコーディングスタジオ、作曲家などに足を運んだ。どれもが自分の創作でもないし、特に思い入れもない人を「熱意を込めて」売るのは自分がキズつかなくて楽だ。
わたしは卑怯だ。
「東京にこない?」
「いらん。東京は東京でやれ。福岡でやる奴もおるやろう。俺は大阪でやる」
「じゃあ(わたしがこっちに来たら?)」
「どぶ川やからこそビー玉でもキラキラ輝いて見えるんや。でも泥に沈んだ髑髏は小さな釣り針で引き上げられるのを待っとるんかもな」
「覚えてたんだ」
「飲んで忘れたことはない。俺は幽霊みたいに生きるのが性に合うてるやろう。言葉が俺を溶かして削いで、身も心も骨にしていく」
「ずっと釣り針を垂らしているわたしに気づいてほしい。わたし幽霊に憑かれてるの」
おわり