第8話
「奥様……」
リンジーも何と私に声をかけて良いのか分からない様だった。
「これから……どうしたら良いのかしら?」
正直、まだこれが現実だとは思えず私は何も考える事が出来なかった。
とにかく、旦那様の帰りを待つしかない。
「レオンさんは何と?」
レオンとは、うちの執事の名前だ。
「気を落とさない様に……って言われたけど、落ち込んでいるのかそうでないのか……それすらも自分で分からないの。ただ……混乱していて」
「そうですよね……」
部屋で悶々としていても、どうしようもない。
「ちょっと庭を散歩してくるわ」
私は気分転換をしたかった。……いや、少し一人になりたかったのかもしれない。
「私もご一緒しましょうか?」
私の気持ちを汲んでくれているのだろう。リンジーは控えめにそう言った。
「ううん、大丈夫」
私は庭に出た。既に日が暮れて庭も所々に置かれた灯りのみ。私は薄闇の中を歩く。
旦那様は何処へ行ってしまったのだろう……もしかして私の事が嫌で、帰って来ない……なんて事はないわよね?
考えれば考える程、思考というのは悪い方へ向かってしまうようだ。
「部屋に戻ろうかな……」
一人になりたかったが、一人は心細い。部屋へ戻ろうと踵を返した瞬間、
『ガサガサガサガサ』
と木の根元の草を掻き分ける様な音がした。
振り返った私の目に、
「あら……可愛いワンコ……」
白に近い銀色の毛並みの犬が草むらから出てきた。
後ろ足をぴょこぴょこしているのが、直ぐに分かった。
「怪我をしてるの?」
そのふわふわの毛並みを持つ犬を抱き上げる。両手で抱えられる程度の大きさだ。私は引き摺っていた後ろ足を調べてみる。
「うーん……暗くて良くわからないけど……怪我をしている様には見えないわね……」
私は元の草むらに、その犬をそっと戻した。
「部屋できちんと診てあげたいけど、旦那様にもう動物は拾ってくるなって言われているのよね……」
そう言いながら、胸が少し痛んだ。このまま旦那様が見つからなければ、もうあの長ったらしい説教を聞くこともないかもしれないと思うと、急に寂しさが込み上げる。
「ごめんね」
私はその犬の頭を撫でる。犬が私を見上げた……目が合うと拾って帰りたくなる。私は思い切って犬から目を離すと、部屋の方へと……
『おい!待て!』
足を向けた瞬間、どこからか声が聞こえてきた。
私はキョロキョロと辺りを見渡す。薄暗いが人の気配はない。
空耳か?私は首を傾げながら、もう一度部屋の方へと向かう。一歩を踏み出した瞬間、
『おい!!待てと言っているだろう!!』
とまた声が聞こえた。さっきよりはっきりと聞こえる。
またキョロキョロしていると、
『こっちだ、こっち!君の足元だ!!』
その声に私は自分の足元を見る。さっきのもふもふワンコが……二本足で立っていた。
「ヒッ!!」
私は驚いてドシンと尻もちを付いた。
その犬は私に向かってポテポテと二本足で歩いて近づく。私は怖くなって尻もちをついたまま後へ後ずさるが、ワンコはそのままズンズンと近付いたかと思うと、
『いつもは注意しても動物を拾って帰るくせに、どうして今日に限って私を拾わない!!』
なんだろう……この話し方。誰かに似てる。……ってそんな事じゃなく!!
「い、犬が……犬が喋ってる!!!」
『シーッ!煩い!!落ち着け!!』
『落ち着け』
あぁ、何度も何度も言われた言葉だ……旦那様に。
私は恐る恐るその犬に近づくと顔をまじまじと見た。銀色の毛並み、青い瞳……まさかね。
「な、なんで犬が……」
声が震える。私がそっとその犬にもう一度手を伸ばそうとした瞬間、
「奥様?!大丈夫ですか?!」
とリンジーの心配そうな声が聞こえた。
目の前の犬は、
『チッ!君が大きな声を出すから!いいか。私の事は内緒だ。上手く誤魔化せ』
そう私に釘を刺すと、四つん這いになった。そう……普通の犬の様に。
「奥様?……あぁ、こんな所に。昼間は暖かいとはいえ、夜は冷えます。そろそろお戻りに……なんですか、その犬は?」
リンジーは私の腕の中に居る犬を見てそう言った。
「あ?えーっと……何でしょう?」
ちなみに私は嘘が苦手だ。咄嗟に上手い言葉が出てこない。
「何でしょうって……犬ですよね?」
「そ、そうそうそう!犬!犬よね……多分」
腕の中で犬が睨む。可愛らしい顔なのに……何故か怖い。
「奥様……旦那様の件で混乱していらっしゃるのは十分に分かっております。奥様は疲れていらっしゃるのです。さぁ……今日はもう休みましょう。カモミールティーを飲まれますか?あれは安眠に効果があるので」
「い、いえ!大丈夫!こう見えて神経は図太いの。うん!今日はもう休む事にするわ」
私はリンジーの顔をまともに見れなくなり、足早にその場を去った。
「奥様?!」
リンジーの戸惑う声が聞こえるが、振り返る事は出来ない。何故なら……
『とりあえずさっさと部屋へ戻れ。誰も部屋に入れるなよ』
と私の腕の中で唸る犬がいるからだ。
「ところで……あなたは?」
部屋に着き、扉の鍵を閉める。犬をそっと絨毯に下ろすと、その犬は途端に二本足で立った。
『私だ。君は自分の夫の顔も忘れたか?』
旦那様の顔はもちろん覚えている。でも私の目の前の犬は旦那様の顔とは大違いだ。
「落ち着け……私」
呪文の様に唱えてみるが、目の前の出来事がどうにも信じられない。私は自分の頬を抓る。
「痛い!」
『君は馬鹿なのか?頬を抓れば痛いのは当たり前だ』
「夢じゃないか確かめたかったんです!」
こういう場合、頬を抓るのって定番でしょう?
『残念ながら、夢じゃない。夢ならどんなに良かったか』
もふもふワンコは前足をまるで腕を組んでいる様に重ねる。まぁ、短すぎて組めてはいないが。
「確認なんですが……旦那様なんですか?」
『いかにも。私はこんな形をしているが、コーネリアス・ガードナーだ』
「でも……どうして犬に……?」
『そんな事より。君に頼みがある』
犬になった事が『そんな事』で済まされるのだろうか?
「はい、何でしょう」
『私に今直ぐ口づけしろ』
……空耳かしら?
「今、何と?」
『何度も言わせるな。口づけだ、口づけ』
口づけ?ってキスよね。今の今まで旦那様とキスした事もないのに?犬になった旦那様に?
私が躊躇っていると、イライラしたワンコ……元い旦那様は私の唇目掛けてジャンプした。
「『チュッ』」
ワンコ……元い旦那様と私の唇が軽く触れ合う。
あぁ……私のファーストキスが……。
『な、何故だ?!!何故戻らない!!』
シュタッと絨毯に着地した旦那様が動揺している。私も同じく動揺している。ファーストキスが何の情緒もなく奪われた事を。