第21話
「それでお父様との約束とは?」
私は流れる涙を拭いた。そして自分が旦那様から離縁を申し出られたことに泣くほどのショックを受けたのだと自覚する。
『結婚の話があったときに必ず宰相になれと言われたんだ。だが犬の姿じゃな……』
「お父様がそんなことを?」
『心配だったんだよ、君のことが。うちは代々公爵としてある程度の役職には就いてきたが、父はそういうのに無断着でな。領民さえ幸せならそれでいいじゃないか、そういうタイプの領主だった。私はそんな父を尊敬しつつも、少し反発する気持ちもあった。やはり祖先と同じように大臣や宰相になるべきだ、とね。だから君のお父上に言われたから……というだけじゃない。気にするな』
「だから旦那様は宰相に拘っていらしたのですね」
『父のこともあったし、君のお父上との約束もあったが、単なる自分のちっぽけな虚栄心だ。だが、もうそれも果たせそうにない。……最近自分が四つ足で歩いていることに不自然さを感じなくなった。君と喋らない間なんて……言葉を忘れそうだったよ』
旦那様の寂しそうな表情に胸が痛くなる。
「だ、旦那様、やっぱり今すぐ── 」
私は意を決して旦那様にキスを提案しようと思ったその時──
コンコンコン
扉をノックする音が聞こえた。
「は、はい!」
「辺境の河川工事の資料をお持ちではないですか?貴女が戻ったら聞こうと思っていたんです」
ウォルター様の声が廊下から聞こえた。
「河川工事……」
私が考え込んでいると、旦那様がトコトコと机に向かい引き出しを開けた。
『ここだ』
と私にだけ聞こえる程の小声で言った。
「あ!あります!あります!」
「そうですか。ならば、それを財務大臣の所へ持って行ってもらえますか?予算組みに必要だと言ってましたよ」
「分かりました!直ぐに!」
扉から遠ざかる足音。ウォルター様はそれだけ言って戻って行ったようだった。
私は資料を抱え、大臣の元へと向かう。旦那様も私と共に中庭を通る回廊を歩いていた。
『ちょっと……』
旦那様がソワソワしている。ワンコになってしまってからというもの、人間のご不浄は使えないため、旦那様は庭へ用を足しに行っているのだ。どうりで、私と一緒に部屋を出たがると思った。
「待っていましょうか?」
『いや、君は大臣の所へ行け』
「分かりました。帰りに迎えに来ますね」
流石に王宮の中をワンコ姿で一人歩かせるわけにはいかない。あくまで旦那様……いやネルは私のペットだ。
そうして私と旦那様は中庭で別れた。
大臣に資料を渡し、中庭へ急ぐ。部屋に戻ったら、旦那様にキスをしようと私は決意を新たにする。きっと今なら……。私は自分の心の声に耳を傾ける。さっきの涙が私の答えだ。
中庭がもう少しで見える。早足の私はやる気持ちを抑えながら中庭に目を向ける……と、そこには信じられない光景が私の視界に飛び込んできた。
「ジェ……ジェシカ王女……」
そこには旦那様いやネルを愛おしそうに抱きかかえ、満面の笑みなジェシカ王女と、今にも死にそうな顔をしている旦那様がいた。
私はジェシカ王女に駆け寄った。
「ジェ、ジェシカ様、もしや私のネルが何か粗相を……?」
私の言葉に項垂れていた旦那様が顔を上げた。『粗相』という言葉に反応したのかと思いきや、その目は私に助けを求めているようだ。
「ネル?お前ネルっいう名前なの?」
ジェシカ王女は旦那様を高々と自分の頭より上に掲げ、下から顔を覗き込む。
「そ、そうなんです。すみません……この子甘えん坊で、王宮に連れてきているんですけど……ちょっと中庭を散歩させてて……」
こんな所に犬なんて……そう怒られると思ったが、ジェシカ王女は嬉しそうな声で言った。
「お前、甘えん坊なのね?大丈夫よ、私がずっとそばに居てあげるからね」
「え??」
私は王女の言っている意味が分からず、聞き返した。旦那様はジェシカ王女の手から離れたくて、脚をジタバタさせている。
「この子、気に入ったわ!連れて帰るから!」
王女は笑顔でそう言うと、ジタバタしている旦那様をまたもやギュッと抱きしめた。
「そ、それは!ジェシカ様、ネルは私の……」
「ペットだって言うんでしょう?でも私気に入ってしまったんだもの。貴女には他の犬を買ってあげる!だからこの子を譲ってちょうだい」
『私の旦那様です』とは言えず、私はオロオロしてしまう。
「そ、その子はもうあの……家族同然でして」
『家族同然というより家族なんです!』と言えたら良いのだと思うが、相手は隣国の王女。しかも殿下の婚約者候補。失礼があってはいけないので、なんとももどかしい。
「大丈夫!私も家族と同じように大切にするから!それに、うちにもたくさんの動物達がいるの。だからきっとこの子も寂しくないわ」
「へ、へぇ~それは凄いですね。で、でもネルだけは譲るわけにはいかなくて……申し訳ありません」
私は勢い良く頭を下げた。
「えーっ!!それは困るわ。だってもう一目ぼれしてしまったんですもの。この美しい銀色の毛並みが珍しいし。ねぇ、ヴィヴィ、いいでしょう?」
「いえ……あの、その子だけは!その子だけはダメなんです。さ、探してみます!他の銀色の毛並みの子犬を!ですからっ!」
いつもはヘラヘラと笑っているだけの私の真剣な様子に王女は少し面食らっていたが、直ぐに口を尖らせて言った。
「ヴィヴィ……私は王女よ?欲しいものは必ず手に入れるの。でも私、貴女のことも好きだから、猶予をあげる。私は明日の昼に此処を発つわ。それまでに代わりの犬を探せるなら……考えてもいいわよ?」
「明日の昼?」
もうすでに日が傾き始めている。
「そうよ。それまでこの子は私が預かっておくから。じゃあね~」
「ちょ……ま、待ってください!」
そんな私など無視して、ジェシカ王女は旦那様を抱っこしたまま、私に背を向けた。旦那様もジタバタはしているが、相手が王女ということもあり、怪我をさせない程度に手加減しているようだ。王女の肩越しに情けない顔をする旦那様。
「絶対代わりを見つけてくるから!」
私は不安そうな旦那様に向かって大声で叫んだ。




