第14話
──バタンッ!
私は勢い良く旦那様の部屋の扉を閉めると、、ヘナヘナと長椅子に倒れ込んだ。
最近、散歩も畑仕事もおざなりだった為か、少し走っただけで息が上がる。
王宮で働く人達に、爆速で走る私はチラチラと見られたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
「ハァハァ」
息苦しいのは走ったからだけじゃない。涙を流しているからだ。
『ヴィヴィアン……』
ネルが私の倒れ込んだ長椅子にジャンプして上がって来た。
「ヒック、ヒック、皆……酷いです」
涙が止まらない。
『王宮で働く様に頼んだのは私だ。すまない』
「ヒック……私、王太子妃になんてなりたくあり……ヒック、ません」
『わかってる。全て私のせいだ。だから泣くな』
ネルは前脚で突っ伏している私の頭に触れた。
「が……頑張っている……ヒック、だけなのに」
『君が頑張っている事は私が知っている』
ネルの温もりに、ますます涙が止まらない。
「でも……う、うわぁーん」
子どもの様に泣きじゃくる私にネルはオロオロし始めた。
『そ、そんなに泣くな!』
「だ、だって……ヒック!」
『そんなに辛いなら……辞める……か?』
ネルの言葉に私は顔を上げた。
「ヒック……だってそうなると旦那様の立場が……」
『呪いを受けたのは私の不注意だ。自業自得。宰相になれないのなら、私の実力がそごまでだったと諦めるさ。君は十分頑張った。……ありがとう。そしてすまなかった』
いつになく素直なネルに私の涙はいつしか止まっていた。
「旦那様が……謝ってる……」
『私だって自分が悪かったと思う時はきちんと謝る。今まで君に対して謝るべき事がなかっただけだ……アッ!』
ネルは『アッ!』と言ったまま固まった。
「どうしました?」
『いや……謝る事が……あったなと思って』
「旦那様が私に……?」
『そ、そうだ』
そう言ってネルはモジモジし始めた。可愛い。
「旦那様が私に謝らなきゃならない事……考えつきません」
私が首を傾げると、ネルは大きく息を吐いた。
『……よ、夜の営みの事だ』
「は?へ?」
ネルがモジモジと言いづらそうに言葉を続ける。
『わ、私は……その……そういう知識が乏しくて。その行為が君に苦痛を与えているとは、思ってなかったんだ』
ネルは俯いてしまっていて、全く目が合わない。まぁ……旦那様の姿でこんな事を言われるよりは衝撃が少ないが。
「誰がそれ……を?」
思い当たる人物は一人しかいないが、私はあえて尋ねた。
『侍女のリンジーだ。彼女からは……その……技術を学べと』
『技術を学ぶ』そう聞いて、私は思わず頭に血が昇る。
「そ、それは他の女性とことを致すという事ですか!?」
『ばっ、馬鹿!違うっ!君の侍女に渡されたんだ!』
「何を?」
私が尋ねると、ネルは長椅子を降りて、トテトテと本棚の前に歩いていく。
『私の首にかかっている鍵を取ってくれ』
ずっと気になっていた。長い毛に埋もれてあまり見えないが、ネルの首にはネックレスの様な細い鎖がかかっていたのだ。てっきり首輪かと思っていた。
「これ、鍵なんですね」
私はそれをネルの首から外す。
『この本棚の下の棚を開けてみろ』
私がそこを開けると重たそうな鍵付きの金庫が現れた。
「金庫?」
『君の手に持っているその鍵はこの金庫の鍵だ。開けてみろ』
私はネルに言われるがまま、ネックレスの先に付いていた鍵でその金庫を開ける。そこにはちょこんと一冊の本が置かれていた。物々しい金庫にたったこれだけ。とても不釣り合いに見える。
「本が入ってますけど?」
『……それをお前の侍女から譲り受けた』
私はその本に手を伸ばす。本のタイトルはこうだ。
「『閨の指南書~これで初心者でも安心!~』って……これは?」
『それを熟読して、技術を学べと言われた。自信がつくまで、君に指一本触れるなとも。……エスコートしなきゃならんのに、無理だろと思ったが、君の侍女の剣幕が凄くてな。頷くしかなかった』
私は旦那様が何故かリンジーの顔色を窺っていた事を思い出す。
「す、すみません。私の侍女が……」
私はその本を手に持ったまま、頭を下げた。
『君が謝る必要はない。リンジーに言われたよ、女性の扱いもこれで学ぶ様に……と』
ネルの耳はペタンと折れている。……反省しているらしい事が私にも理解出来た。
「ところで……ネルはこれを読んだって事ですよね。どれどれ私も……」
私は手の中の本をパラパラと捲って……パタン!と閉じた。
「こ、こ、これ……皆さんこんな事をしていらっしゃるのですか?」
指南書には挿絵がたくさん描いてあったのだが、どれもこれも……皆、裸だ。私は恥ずかしくなって直ぐに本を閉じてしまった。
『どうもそうらしい。私はとにかく不勉強だったのだ。もちろん子作りが何たるかは理解していたつもりだったのだが……それだけではダメらしい』
ネルが難しい顔をして唸っている。私はもう一度その本の表紙を捲る。一頁目。そこにはこんな事が書いてあった。
【女性の体はデリケートなもの。まずはリラックスさせる事が大切です。緊張を和らげる為、お部屋に香を焚くのも良いでしょう。自分が興奮しているからといって、事を急いてはいけません。まずは愛の囁きから……】
私はそこまで読んで、また本を閉じた。
「ネル……これって……」
「君の言いたい事は分かっている。……私がやっていた事は真逆だった」
確かに何の語らいもなく、お互い下着を取って旦那様の旦那様を入れる。私達の行為はただそれだけ。
「……私も不勉強でした」
『いや、女性はそれが普通だろう。基本は男性に身を任せる。だから、私も自分さえ動けば良いのだと思っていたのだが、その本を読むとどうも違うらしい。私は任せるの意味を履き違えていた。すまなかった』
ネルが二足歩行で頭を下げる。
旦那様はもふもふ姿の方がどうも素直になれるらしい。
「ここは……お互い様という事で。だって、私も閨が何たるかを理解していませんでした。周りの数少ないお友達に『素晴らしいものだ』と曖昧な事しか聞いていませんでしたし、旦那様にそれは違うって教えてあげられませんでしたもの」
『女性に教わるのは些か格好悪いな』
ネルが前脚で器用に頬を掻いた。
その様子がおかしくて、私はつい笑ってしまう。
「フフフッ」
『泣いたカラスがもう笑った……というのは今の君を指すのだろうな』
ネルはそう言うと、私の頬にペタンと触れた。
さっきまでわんわん泣いていた私だが、今はもうすっきりしている。
「周りの言葉は気にしない事にします」
『それが良い。周りは君に嫉妬しているだけだ。言いたい奴には言わせておけ』
「嫉妬?殿下の側で仕事してるからですか?」
『それもあるが……』
ネルはそこまで言うと、前脚を離してまた自分の頬を掻く。
『君が美しいからだろう』
そう言ってネルは恥ずかしそうに俯いた。