第12話
馬車に戻ると待ちくたびれた様子のワンコが椅子に寝そべっていた。
「旦那様、上手くいきましたよ……多分」
旦那様は私の声に耳をピクリと動かして顔を上げた。
『旦那様と呼ぶなと言っただろう?もう忘れたのか』
「あ……すみません。えっとネル」
『ネル』は昨晩私が考えた旦那様の呼び名だ。流石に他人の前で旦那様とは呼べない。旦那様の名前のコーネリアスをもじって付けた名前だが、呼ぶのに何故か勇気が必要だった。
『で、殿下は信じてくれたのか?』
「ちょっと疑ってる素振りはありましたが、何とか」
『仕事の方は?』
「そっちも……了承してくれました。旦那様を同伴させる事も」
『何故そんなに不服そうなんだ?君は私がウォルターに負けても良いと思っているのか?』
「別に勝ち負けの問題じゃあ……」
『勝ち負けの問題だろ?!宰相の椅子が懸かっているんだ!』
「そんなになりたいですか?宰相に」
『もちろん、な、なりたいさ!』
「旦那様は公爵としてのお仕事があるじゃないですか?それだけでも十分お忙しいし、お金だって……困る事はないじゃないですか?その上宰相になりたいんですか……私には分かりません」
私は旦那様の考えが分からず首を傾げた。
『私は……自分の可能性を信じているんだ。自分は出来る、まだやれる、と』
「可能性……。確かに旦那様なら上手くやれるのかもしれません。じゃあ……旦那様は何をしている時が楽しいですか?幸せだって思えるのですか?」
私の問いに旦那様は目を閉じてたっぷりと思案した後で答えた。
『……仕事だろうな』
旦那様は根っからの仕事人間らしい。やはり私と旦那様は水と油。混ざり合う事が難しいようだ。
屋敷に帰った私をリンジーと執事が出迎える。
「おかえりなさいませ」
「それで……殿下はなんと?」
執事は今朝からずっと顔色が悪い。殿下と同じ手紙を私は執事宛にも書かされた。執事は何度も何度も手紙を読み返して「信じられない」と呟いていた。
どうしても旦那様からの手紙だとは思えないと言う執事に肝を冷やしたが、旦那様が事件に巻き込まれた……という最悪な状況でなかった事に感謝しましょうという私の言葉に渋々納得してくれた。
「捜索は打ち切り。そして私が……旦那様の代わりに仕事する事を許されたわ」
全然嬉しくないのだが、執事も旦那様の今の立場を十分に理解しているからか、私の答えに少しだけ微笑んだ。
「左様でございますか。奥様、私にお手伝い出来ることがあれば何なりと。困った事があればすぐに相談してください」
「ええ……その時はよろしくお願いします」
気は乗らないが仕方ない。もう殿下にも許可を得てしまったのだ。後戻りは出来ない。
「ところで……奥様、その犬はやはり飼うのですか?」
私と執事の会話が一段落したところで、リンジーが私の足元を見て言った。
「そ、そうね。ほら……だってひとりぼっちは可哀想じゃない?」
「でも旦那様が帰ってきたら……」
『怒られますよ』とリンジーの目は言いたげだ。
「その時は……その時よ!その時考えるから!」
だから!私は嘘が下手なんだってば!上手い言い訳なんて考えられない。もうあまり突っ込まれて訊かれたくない私は会話を切り上げた。
「で、殿下にお会いしてちょっと疲れちゃたわ。少し部屋で休むわね」
私は足早に自室へ向かう。旦那様はその後ろをポスポスと歩いて付いて来た。
翌日から、私と旦那様……もといネルとの二人三脚が始まった。
王宮では旦那様が使用していた部屋でネルが私に指示をする。
『これと、これ。資料はそこだ、取ってくれ』
「はい」
机にネルに言われた通り資料を広げ、書類を置く。ネルは前脚で器用にそのページを捲っていた。
『じゃあ、今から私が言う事を書き留めてくれよ?』
「分かりました」
私はネルの傀儡となって、手足を動かす。旦那様の正体がバレるわけにはいかないので、この部屋には何人たりとも立ち入り禁止だ。部屋に鍵をかけ、私はネルのしごきに耐える。
『ここ、書き損じてる。やり直しだ』
「え~っ!どこ?どこ?どこですか?」
『ここだ、ここ!』
可愛い前脚が指し示す場所に目を凝らす。
「えー!これぐらい良いじゃないですか!」
『良いわけないだろ!ほら、やり直し!』
犬の前脚がペンを握れる様に進化したら良いのに……と心から思う。
『ボーッとするな!早くしろ!!』
私はネルに急かされながら、書類を前に溜め息を吐いた。これからこれが毎日続くのかと思うと頭が痛い。
ネルの厳しいチェックをクリアした書類の束を殿下に持って行く。ネルの監視の目から逃れられる、僅かな自由時間だ。
「これを……君が?」
殿下は書類を捲りながら、目を丸くした。
「はい……一応。あとこちらが今度予定されている護岸工事の日程表です」
「……凄いな。まるでコーネリアスみたいだ」
まぁ……仕事しているのは旦那様なので……と心の中で呟く。
殿下は笑顔になると机の前の私に言った。
「君にコーネリアスの代わりを頼んで良かったよ。これなら……コーネリアスが帰って来なくても問題ないな。妖精姫が側に居てくれるなんて、逆にラッキーじゃないか」
旦那様が聞いたら嘆き悲しむ事間違いなしだ。それに、私だってこんな毎日、真っ平御免。
しかしそれを殿下に言う事も出来ず、私は曖昧に微笑むだけに留めた。
すると、ウォルター様がやって来て、殿下が先ほどまで確認していた書類を机の上からサッと取り上げた。
「……本当にコーネリアスの作成した書類みたいだ……言い回しの癖もそっくりだなんて」
ウォルター様は納得いかない表情だ。
「ハハハ……ほら夫婦は似てくるって言いますし……ハハハ」
乾いた笑いしか出てこない。あーこんな時に上手く誤魔化せるスキルがあったなら……と心から思った。
そんな毎日が続く。今日は待ちに待った休日だ。
私は息抜きとばかりに、畑仕事に精を出した。
「奥様、最近お忙しそうですね。大丈夫ですか?」
庭師のスティーブが苗に水をやりながら、心配そうにそう言った。
「うーん……正直疲れてる。けど旦那様が戻るまでは仕方ないわ」
そう『人間の姿に戻るまで』だ。しかし……私が旦那様を心から愛さなければ何度キスをしても旦那様にかけられた呪いは解けない。
自分が旦那様を心から愛する姿が想像できず、私はまた溜め息を吐いた。