第10話
瞼が限界を迎えそうだ。目を開けていられない。
「ちょっと!」
女が私の肩を揺さぶる。誰のせいでこんな風になってると思っているのだ。だが、その抗議ももう出来ない。こんな所で寝てしまってはこの女に何をされるか分かったもんじゃないと思いながらも、私は深い眠りに落ちていった。
目を覚ました。見慣れぬ……『床』が目に入る。床?私は床に寝っ転がっていたのだろうか?急激に昨晩の事を思い出した。あの女!!
私は勢い良く起きた……つもりだった。だが私の視界がおかしい。テーブルも椅子も……全て見上げなければならない。まるで体が縮んだ様だった。しかも……何故私は四つん這いなんだろう。
今の状況を何とか整理しようと考えていると、
「あら?起きたの?」
と昨日出会った女が私を見下ろしていた。服は着ているようだ。
『お前……!昨日は私に何を飲ませたんだ?!』
「フフフ。その姿で凄まれても可愛いだけね。文字通り『吠えてる』だけだわ」
女は可笑しそうに笑う。
『私の体に何をした?』
立っている筈なのに、視界が一向にもとに戻らない。私はずっとこの女を見上げている。
「はーい、じゃ、これ見てみたら?」
女はしゃがんで私に手鏡を見せた。その顔は悪戯が上手くいった子どもみたいだ。
『い、犬??』
鏡に映るのは白っぽい毛並みのフワフワした……犬だった。
『な、な、な、な、何だ!こコレは!!!』
「アーッハハハハ!何これ面白い!!」
『お、お前の仕業だろ?!』
するとその女は大笑いを止めて私を睨んだ。
「だって、私は薬を間違えたわけじゃないのに、私に欲情しないで寝てしまうんだもの。私の魅力が分からない奴は犬の姿で十分よ」
『い、今すぐ元に戻せ!』
「あら~ざーんねん。実はそれは呪いなの。だから私にもそれは解けないわ。でも解く方法はある」
『呪い?なんで私が呪われでなければならないんだ?、解く方法は?』
「そう慌てなさんな。その呪いは魔女の呪い。魔女の言う事を聞かないから、呪われたのよ」
『魔女……ってまさか。そんな者いるわけ……』
「居るじゃない、ここに!あんたそんな格好になっても信じないの?そんな事が出来るのは魔法使いや魔女くらいなもんよ」
その女はゆるりとキセルをふかした。昨晩道端に蹲っていた時の弱々しい雰囲気は消し飛んでいる。……詐欺だ。
『じゃあ……呪ったのは……』
「私。あんたが私と楽しいことしないからよ。『妻が』なんて言うからムカついちゃったの」
『お前が呪ったんなら、解ける筈だろうが!』
「うるさいわね、キャンキャンと。私を拒絶したあんたにはね、ちょっと趣向を凝らした呪をかけたの。それは術者以外でしか解けない呪よ」
『じゃ、じゃあ誰なら解けるんだ?』
魔女なんてお伽噺の登場人物だと頭では分かっているのに、思わず私は素直に尋ねていた。
「それはねぇ、あんたの事を心から愛してくれる人のキスで解けるのよ。ね、ロマンチックでしょう?奥さんいるんでしょう?なら簡単かしらね」
なんだそんな事か……と安心した。むしろ困難なのは、どうやって帰国するかだと、私はそればかり考えていた。
◇◇◇◇◇◇◇
『とまぁ……そういう事だ』
旦那様は大きくため息を吐いた。
「では……その助けた女性は魔女だったって事ですか?」
『そうなるな』
「ほら!!やっぱり魔女は存在したじゃないですか!!私の勝ちですね!」
私が興奮してそう言うと、
『今はそんな事を議論している場合じゃないだろ!!とにかく、もう一度だ、もう一度口づけを……』
そう言ってにじり寄る旦那様に私は小さな声で言った。
「それならば……何度やっても意味はないと思います……よ?」
語尾がどんどんと小さくなるのは許して欲しい。たとえ姿は変わっても、旦那様は旦那様。何となく威圧感は感じ取れる。
『な、何故だ?!』
「何故って……それは私が旦那様を心から愛していないからです……けど……」
怒られると思った。私は怒鳴り声がするのではないかと肩を竦めて目をギュッと閉じ、嵐が過ぎるのを待つ。しかし一向に旦那様からは声が聞こえてこない。私は恐る恐る目を開けて旦那様の様子を窺った。
……目を見開いて、口をポカンと開けたまま固まっている。
「……旦那様?」
『そ、それは君が私を愛していない……そういう事か?』
そんなに驚く事だろうか?夫婦になったからって、自動的に愛情までおまけで付いてくる筈はないのに。
「では逆に訊きますけど、旦那様は私を愛していらっしゃいますか?」
『…………』
ほら、答えられない。
「私達は確かに夫婦ですが……実情は教師と生徒のようです。私は怖い先生に愛しいという感情は抱きません。……別に嫌いなわけでもないですけど」
『教師と生徒…………なるほどな』
旦那様は納得したのか、ペタンと床へ座り込んだ。フワフワの尻尾もしょんぼりして見える。……ちょっと可愛い。ただ、ちょっと沈黙に居た堪れない。
私は話題を切り替えた。
「旦那様はどうやって帰国を?」
『宿に戻った時には既に大騒ぎになっていた。まさかこの姿で殿下達の前に現れる事は出来なくて……帰りは荷を積んでいた馬車に紛れて帰って来たんだ』
「そうでしたか……で、これからどうしますか?」
捜索はまだ続いている。皆、旦那様を心配している事だろう。安否だけでも知らせた方が良いのではないか。
『辺境伯騎士団と共に捜索に残った近衛もいると聞いた。このままでは皆に迷惑がかかる。だが、これじゃあ……』
と旦那様は自分の姿を確認する。相変わらず可愛いワンコだ。