27章①『この町で最も長い30時間』〈二日目〉
***27-1
“……本当に幸せ……夢みたいで怖いくらい”
レイチェル……
“あまりに幸せすぎるの……アッシュと過ごせるこの日々が”
俺もだ……レイチェルとの日々、この当たり前が、こんなにも……こんなにも貴重で幸せだったなんて。
彼女は隣でつぶらな紅玉色の瞳を輝かせて微笑む。
ああ……この笑顔が、俺の望む全て……
長い長い夜が明け、翌日となってもまだ街からは戦闘の名残りが聞こえていた。
懐中時計は9:50。
軍靴の音と、どこかで火事が起こっているのだろう、煙の匂いも漂う。
“ボスはオイラとキケセラに逃げろって……オイラの力じゃヤツらに対抗出来ないから……オイラじゃ……”
悔し涙を見せるミゼル。
だが、お前がその足で連れ出したから、今、キケセラはここに居てる。
そう言っても己を責める事は止められないのだろう。
ミゼルから聞き出した、黒マントが本部にいるバルやユリウスへ行った襲撃の時刻は12:50。
つまり、『刻戻り』が成立するのは今日の18:50。
聖十字騎士団からの調査では最初の襲撃は黒マント達が主体だった。当初の奇襲に気押された憲兵隊だったが、すぐに陣を立て直し、更にバル達『バルスタア団』の援護もあり、逆に黒マントどもを押し返すほどに。
しかし、その憲兵隊の背後から襲いかかったのが近衛連隊だった。まさか同じクロノクル市民である近衛連隊が敵方に回るとは予想もしていなかった憲兵隊はあっと言う間に陣を崩し、そこに黒マント達の付け入る隙を与えてしまったらしい。
バルも奮闘したが、子供達や民間人の記者達を護る中、自分たちを犠牲に脱出させたのだ、と。
……アイツやユリウスは、家族や正義の為には決して逃げ出さない。最後まで守り抜こうと……
その報告を受け、俺は考える。
ということは、最初の黒マントの襲撃時間、12:50、その時間帯にはまだ近衛連隊は動き出す手前の状況のはず。であるならば……
徐々に自身の行うべき作戦が形を成していく。
が、その前に問題がある。
「ワルターさん、ヤツらの動きはどうですか?」
大使館の正門前、扉を薄く開けて外を警戒するワルターさん。外の様子を聞いてみる。
「アッシュ君か。良くはないな。一晩過ぎて、辺りに静けさが増している。だが、却って気配は濃くなりつつある」
つまり、ヤツらは俺たちがここに潜んでいるのを知って、その包囲網を完成しつつある。それが今の現状。
そうでなくても、あからさまにこのソリスト教国大使館には、今まで攻撃が仕掛けられていない。
恐らくは、ここに俺たちが集う事を知っていてわざと放置。集まりきった所に襲撃を掛けるつもりなのだろう。
ここには俺以外にも侍従さん達や料理長など、多数の非戦闘員が避難している。
逃げ切る事は不可能だろう。
「もはや、絶体絶命のピンチ、てことね」
いつの間にか背後にいたセレスさんが苦笑いする。
普通に考えれば、そうなるな。
「……何か手があるのかしら? アッシュ君」
しかし、セレスさんは俺の方を見て、余裕有り気に問うてくる。
その言葉に反応するのはワルターさん。
「この状況下でまだ何か手があると言うのか。是非とも聞かせてもらいたいぞ。アッシュ君」
ここを守る聖十字騎士団の団長としての焦りなのだろう。こんな余裕のないワルターさんは初めてだ。
ただ、そんなに期待されても……大した話では無いからなぁ。
恐らく今から来る襲撃者は黒マントのみ。表向きは国内問題で動いてるという立場の近衛連隊は、大使館に対して自らは攻撃を仕掛けては来ないだろう。
そして、ヤツら黒マントはただの操り人形。臨機応変な自立した意思は無い、と見た方が良い。
それは今まで戦闘指揮は、自立した思考を持つシクルドのみが行っていたことから考えても、まず間違いない。
であれば、作戦目標には分かりやすいようそれぞれ優先度が掲げられているはず。そうしなければ、ヤツらは混乱するのだから。
それを逆手に取れば。
「一つ、お願いしたいことがあります」
黒マント達は、曲剣を掲げながらソリスト教国大使館の鉄製の大扉の前に張り付く。
先ほどまで薄く扉を開けて、外を警戒していた聖十字騎士達の姿は無い。……建物の奥に潜んだのか。一体、どこへ?
しかし、彼らにはそんな疑問は浮かばない。
姿の見えない敵の動向を考える思考は無いからだ。
ただ、下された命令を遵守するのみ。
その命令は——
ガチャ……
先頭の黒マントが慎重に、その鉄扉を開け放つ。
その瞬間、
ヒヒーン
彼らの頭上を、部屋の中から飛び出した影が、飛び越えた!
初めて馬とやらに乗ることになったが……振り落とされないようにするので必死だ。
もう一度、自分の格好を確認する。
ソリスト教国の紋章が描かれた白銀のフード付きマントに真っ赤な手袋。
……今後絶対、着ることはないと思われるな、こんな派手な格好。
「アッシュ君。突っ切るから、ちゃんとしがみついてて!」
慌てて、手綱を握るセレスさんの腰に手を回す。
セレスさんの操る馬が駆ける。
大使館を包囲しつつあった黒マントたちは、その鉄扉を開け放った瞬間、部屋から飛び出した俺とセレスさんの乗る馬がその頭上を飛び越えるのを、呆気に取られて、見ているしかなかった。
「お嬢様を支援する!」
開いた扉からワルターさん達、聖十字騎士団が一斉に外へ飛び出した!
俺とセレスさんを乗せた軍馬は包囲しつつあった黒マントの陣を切り裂く。
黒マントたちは馬上の俺の姿を見つけた瞬間、迷うことなく俺達を追い始める。
まぁ、フードを外してこちらの顔がはっきりわかる様にしてたからだが。
俺たちを追おうとして崩れた陣を縫うようにワルターさん達聖十字騎士団が襲い掛かる。
……大丈夫。これで大使館の皆は助かる。
「計算通りね、アッシュ君」
「ええ、あいつらは俺を優先する。これで大使館は安全です」
だが、その代わり、目の前のニンジンとして俺と……セレスさんまでがそこに巻き込まれることとなった。
……ああ、これが負けられない鬼ごっこの始まりだ!
自我を無くした、ただの操り人形である黒マント達には単純な指令しか入っていない。戦闘中、罠に誘導するなどの組み合わせた行動は可能だが、状況が変化した際に自立して思考することは出来ないはず。
そして、その指令の優先順位は、俺こと『アシュレイ・ノートンの抹殺』。
大使館の襲撃よりもこちらが優先になる筈なのだ。
なので、人員を分けることすらせず、全員がこちらに向かってくる。優先度が高い指令の為に。
しかし、こちらの馬の速さに追いつく訳がない。
俺が囮となってヤツらを惹きつける。
それしか打てる手は無かったのだが……うまくいったようだ。
だが、事はそう簡単には行かない。
何せ、黒マントだけでは無い。近衛連隊もまたクロノクル市に陣を張っているのだ。
「そこの二人! 今は戒厳令である。我らの命に従い馬上から降り、投降せよ!」
近衛連隊の警戒線に引っかかったか。黒マントと違い、全身、重厚な鎧と鉾槍——ハルバートというらしい——で横一列に隊列を組んで、そこから一歩も通さないという覚悟が見えている。
これは、流石に突破不可だな。
「……じゃ、アッシュ君、次の手を」
いや、そんなポンポンと簡単に出ませんって。
「出し惜しみは無しなんだから」
そう言いながらセレスさんの横顔に流れる冷や汗。
反対方向からは追ってきた黒マントも見える。
挟み撃ち、か。
一番、まずいパターンになりそうだ。
「いちかばちか、あの鉾槍を越えれるか、やってみるかしら」
それは、流石に……
その時だった。
「ここは我ら10番隊が引き受ける!」
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