26章③『この町で最も長い30時間』〈一日目〉
***26-3
今、この建物内にいる者たちは非常時のために食堂に集まっている。
全ての窓は固く閉められ、容易に打ち破れない様になっている。
その為、外の時計塔の様子を窺い知ることは出来ないが……
懐中時計の文字盤は、20:50
ヤツらの攻撃は町の中心街が主と考えられる。だから、ミリーや家族のいる郊外は安全なはずだ。そう、信じるしかないのが現状だが。
聖十字騎士団が時に外を見張りに出るも、町で起こっている戦闘は夜になっても未だ終わりを見せていないらしい。
だが、黒マントに協力した近衛連隊があたり一帯を制圧しつつあるのは、間違いない。
僅か半日で港町クロノクル市は壊滅的な状況に陥っていた。
食堂の片隅、俺はただ、地面に座り膝を抱えていた。
ついこの間までの平和な日常が、まるで砂のように手の平の隙間からこぼれ落ちていく。
俺の大事な人——レイチェル。
大切な仲間達。バル、ユリウス。
皆、俺を置いて……。
まるで悪夢のように。
ふと自身の左手に目をやる。
——紅玉石の指輪。
“アッシュ……良かった……私も、アッシュを守れた……”
何も良くない……何も良くないのに……
なんで、なんであの時、レイチェルは微笑んだんだよ。なんでなんだよ……。
「それは、愛する人を守れたから、じゃないかしら」
え?
隣に佇んでいたのはセレスさんだった。流石にこの一連のことで、その表情には疲れが色濃く滲む。
「……レイチェルさんのこと、考えてたんでしょ?」
「ああ。なんで、それが?」
「わかるわよ。曲がりなりにも好きになったんだから」
そういうと、隣に同じく腰を下ろす。
「トライド君や、キケセラちゃん、ミゼル君も応急処置はしておいた。命に別状はないわ」
だが、傷は深く戦闘は無理だ。
そして、二人の間にしばしの無言の時が流れる。
セレスさんには分かられているのかも知れない。
俺は、結局は何も出来なかった。
守ると約束していたのに、レイチェルを守れなかった。
何が、『英雄』だ!
もう、分かっている。
あの手紙はレイチェルの筆跡を真似た罠だった。俺を待ち伏せする為の。
だから、戦闘力の高いセレスさんを連れてこないように指示していたのだ。
レイチェルはどこかで、あの手紙のことを知り、先回りしてたのだ。
そして……身を挺して、俺を守った。
俺が、レイチェルに守られたのだ。
「いいのよ、アッシュ君。今だけ、存分に泣きなさい。そう、そんな感じでね」
え?
ああ……俺は自分が泣いていることすら気付かなかったのか。
うぁぁ……くぅ……
「それでいいの。思う存分に泣いて……そして、立ち向かいなさい」
「ウワアアァァァァーー!」
レイチェル、レイチェル!
俺は、俺はッ。
俺の泣き声は食堂内に響き渡り、皆の耳に届いていただろう。
しかし、誰も俺を止めることはしなかった。
セレスさんが、俺の隣でじっと見守っていてくれたから。
泣いて泣いて、それでも俺の中にあるモノは出し尽くせない。
俺の中に残るものはやはり同じ。
『この現実を認めない』
それは絶対に変えられない。
「セレスさん」
ひたすら泣き尽くして、少し掠れた声でセレスさんに呼び掛ける。
「どうしたのかしら」
「俺はこの『現実を認めない』」
「……認めなければどうするの?」
「『刻戻り』で、過去を改変する。『今』を修正する。絶対にだ」
ジッとセレスさんの瞳を見つめる。
彼女は今まで一貫して『刻戻り』を肯定しなかった。見逃すことはあっても、自ら良しとはしていない。
だが、例えそれであっても……。
「アッシュ君の想いはわかってる」
そう呟くセレスさん。
「ソリスト教国の司祭にとって『過去改変』は禁忌なのよ。人々を『刻の輪廻』に陥らせる悪魔の誘惑。もし『今』を変えられるのなら、という甘い誘惑に耐えられるほど人は立派なものじゃないわ」
だから、その誘惑を戒めるのが司祭の教え。
「それでも……私自身がキミを、『英雄』を信じたい。今はそう思ってる」
セレスさん……。
ならば。
「ええ、私に聞きたいことがあるのよね。『刻戻り』の事について」
その言葉に頷く。
ああ。失敗は許されない。
だからこそ、俺は今、手元にある唯一の武器、『刻戻り』について知らなければならないのだ。
司祭としての禁忌も恐らくはあるのだろうが、それさえも踏み越えた質問をさせてもらう。
「『刻戻り』ですけど、セレスさん達『天使似』が『刻戻り』が生じた事、つまり『刻の揺らぎ』について認識するのは『刻戻り』が終わった後、現実世界に戻ってからになる、と考えて良いんですよね」
「ええ、そうね」
「ということは、『刻戻り』中に、それを察する事は不可能……」
「残念ながらその通りね。但し、現実世界に戻ってからは『刻戻り』中の出来事も『刻の揺らぎ』の一部として認識できるわ」
やはり、か。
これまでの観察の結果から、推定された通りだな。セレスさんだけで無い。シクルドも『刻戻り』中に、そうであることを察することはなかった。
これで、『刻戻り』中のセレスさんが現実(『刻戻り』中では未来の事だが)を認識して行動してくれる、という事は無さそうだ。
罠に誘われた裁判所の倉庫。
レイチェルは俺を守る為に、先に赴いたのだ。そして、『敵』に出くわした。
あの部屋での最初の一撃を避ける事は、そう難しい事では無い。
だが、その後、黒マント達が襲いかかるあの場所では残る15分をやり過ごす事は不可能だ。
セレスさんやワルターさんが訪れるのは15分後の13:30。
もし、あの無数の可能性の世界線が交錯する『刻戻り』の中なら、『刻の揺らぎ』でレイチェルの危機を認識してくれて、いち早く駆けつけてくれる可能性はあるのか、と思ったのだが、そう上手くはいかないようだ。
ん?
……無数の可能性の世界線?
「一つ、聞きますが『天使似』でない普通の人は過去改変で自身が変わっても、改変された認識は無いんですよね?」
「ええ、そうよ。その人にとって、確定した世界線の中ではそれが一本の道。何も分岐のないものだから」
確定した世界線では一本の時間の道。
では、確定していない状況下では?
「一度、過去改変された人が、その改変前、改変後に重なる時間帯、つまり二つの時間軸の道が存在する時間帯において、更に『刻戻り』を行った場合は?」
「え? 過去改変したのに、更にまた過去改変を重ねるって言うの? ……それは……ちょっと待ってね……」
流石にややこしい事を言いすぎたか。
だが、過去改変された人が、己の分岐点にもし再び出会うことになるのならば。
「……無数の可能性の世界線。あの世界なら、時の分岐点、更に己の別の時間軸を認識しても不思議では無い、かもしれない」
やや時間を置いて、セレスさんが出した解答は俺の求めるものだった。
となると、前提条件はあるが、一つの問題はクリアされる。
あとは、その前提条件をどうするか、だが。
ここからは一手たりともミスは許されない。
ならば——
俺は、静かに考えを深める。
今までの全てを思い起こす。
あの書庫室で得た『刻戻り』。そしてミリーの家での最初の『刻戻り』、バルのアジト。そして——
最初から考えるのだ。
『観察』し、『分析』し、『推定』しろ、アッシュ!
一つの引っ掛かりがあった。
そうだ。
あの時、俺はその疑問を考えようとして、遮られ、つい置いてしまったのだ。
だが、今、考えると、ある疑問に辿り着く。
“ミリーのピクニックを、そしてそれにリアンが参加することを、ヤツらはどうやって知り得たのだ?”
そして『ギアス』。
相手の自我を奪い去り、操り人形にしてしまう狂気の技術。
しかし、自我を奪い去ったはずのシクルドは己の自我を隠し持っていた。塗り潰されたはずの自我を。
よく考えるとこれもまたおかしな話になる。
塗り潰されたのなら、もう取り戻すことは出来ないはずだ。
であるなら——元々、シクルドの自我は塗り潰されておらず、残されていた?
それが意図的かそうでないのかはさておき。
シクルドとそれ以外の黒マントとの違いはなんだ?
そして、今回のジーグムントの指示。
ただ選挙で不利になったから、無理矢理、黒マントと近衛連隊で町の内乱を図った。
いや、そんな単純な話か?
思えば、アルサルトの裁判の時から、そうだった。
あの時も近衛連隊を動かすなど、敢えて大袈裟な動きをしていた。寧ろ、それが却って不利になるにも関わらず。
結果、教授との対立構造がより際立ち、選挙の不利に。
これを失策と見るのか、それともこれこそが狙いだったと見るのか……
——少しずつ、見えてきたかもしれない。
俺はこんな『現実』を決して認めない。
必ず、『刻戻り』でお前を取り戻す。例え、何を犠牲にしようとも。
絶対に。
だから——
明日の『刻戻り』で必ず、必ず全てを変えてやる! 本当のあるべき『今』——レイチェルのいる現在にするんだ!
レイチェル——お前がいない『今』なんて……俺には耐えられない。
レイチェルが身を挺して俺を守ってくれた。
だから、今度は俺がレイチェルを守るんだ!
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