26章①『この町で最も長い30時間』〈一日目〉
***26-1
何だ、コレは……
「アッシュ……良かった……私も、アッシュを守れた……」
嘘だ。こんなの、あり得ない!
「アッシュ、逃げて……」
俺の腕の中で流れ出す。レイチェルの血と体温が……
俺は……俺は、こんな現実、認めない! 認めてたまるか!!
窓から見える時計塔の文字盤は、
13:30
変えてやる!
「アシュレイを殺せ! ヤツこそが最大の障害」
「ワルターッ、何とか持ち堪えなさい」
「しかし、数が多過ぎます。一旦、退かねば……」
「!? アッシュ君、待ちなさいッ。ここで『刻戻り』を行うのは……」
今から30時間前は昨日の7:30、レイチェルは俺と馬車の中だ。
何かを言おうとしたセレスさんがその動きを止める。
周囲の黒マントも黒フードのリーダーも、全てが灰色のモノクロームに。
《ウフフ》
《アハハ》
天使達が舞い降りる。
何かを囁いているが、もう俺の耳には届かない。
早く、早く過去を、いや、『今』を変えるんだ!
『レイチェルの死』など、俺は絶対に認めない!
無音の世界にノイズの如く響く天使達の呟きを耳にしつつ、『刻戻り』は再び生じる。
そうだ。
これで過去を、いや『今』を変えてやる。いつもの様に。無かったことに!
リーンゴーンリーンゴーン……
鐘の音が彼方から聞こえる。
ああ……何故なんだ。
俺の目の前に広がるのは、動かないレイチェルとその胸から広がる血の海。
どうしてだ!? 俺は……『刻戻り』をしたはずだ!
昨日の朝の7:30。
『刻戻り』で戻った俺は、辻馬車で共に居たレイチェルに『絶対に裁判所に行くな!』とあれほど、念を押した筈なのに。
なんで……なんで、変わってないんだ!?
「うわああああッ」
もう一度だ! もう一度……いや、何度だって繰り返してやる!
俺はこんな現実を認めないのだから。
「アッシュ君!」
不意に頬が焼けぐしに当てられたように痛みが走る。
遅れて、セレスさんが俺を平手打ちしたんだ、と理解する。
「やめて、アッシュ君! キミまで……キミまで『刻の輪廻』に囚われないで! キミまで、死なないでよぉ」
あのセレスさんが泣いていた。俺を背中から抱き締めて。
俺は……
「クッ、お嬢様! どんどんとヤツらの援軍が増していきます。限界が来ますぞ!」
ワルターさんの悲鳴。
黒マントどもがどこに潜んでいたのだろうと思うぐらい、部屋にある二つの入り口から次々とやってくる。
「お願い……『今』を変える為にでもいい、今は逃げて。アッシュ君!」
セレスさんの泣きじゃくりながら懇願する言葉が辛うじて脳に届く。
“アッシュ、逃げて……”
レイチェル……
紅玉石の、俺たち二人で選んだ婚約指輪を震える指先で、そっと外して俺自身の左手に嵌める。
鮮血に染まる胸元には昔、俺が手作りした紅玉石のネックレスも輝いていた。
俺は……何を……しようとしているんだ……?
「ワルター! 私がしばらく引き受ける。その間に突破口を!」
「承知」
セレスさんが、前に躍り出て黒マントどもの曲剣の嵐を細剣片手に躱し続ける。
俺の背後にひいたワルターさんはその巨大な長剣を大きく振り翳し、
ドカッ
倉庫の石壁を突き破る。
そして、崩れ落ちる音と共に、石壁の倉庫に今、第三の出口が現われる。
「アッシュ君、申し訳ない」
ワルターさんは、茫然とする俺をその背中に抱き寄せると、そのまま開いた壁から外へと躍り出る。
その後を続くセレスさん。
倉庫のあった2階から飛び降りた先は例の噴水のある庭園だった。
しかし、
「そんな! こんな街中にまでヤツらは堂々と入り込んでるなんて!?」
そう、そこにも無数の黒マント達が控えていたのだ。
当然、黒マントだけではない。
逃げ惑う普通の市民に、彼らを守ろうとする憲兵達。
憲兵へと襲い掛かる黒マント。
あちこちで剣戟の金属音と悲鳴がこだまする。
「お嬢様、これは一体……!?」
「分からないわよ、私にも! こんな……こんなにも多くの敵がどうして? 一体、どこから!?」
悲痛なセレスさんの叫び。
——考えろ、アッシュ。
俺が出来るのは……何なのだ?
そうだ、俺はこの現実に抗わなければならない。俺は『今』を認めない。
ならば、俺がやるべき事は?
レイチェルが、その身を挺して守ってくれた俺が何をすべきか。
思い出せ。
「『英雄』……」
レイチェルは俺の事を何時でも信じてくれていた。
だからこそ、取り戻すんだ。
その為にこそ、
考えろ——考えるのだ。俺にできるのはただ、それなのだから。
「アルサルトの持つ船は3隻」
「え?」
俺の口からこぼれ出た言葉に、二人は振り返る。
そうだ。
最初から、蒸気船を含むあの3隻はずっとクロノクル市の港に停泊を続けていた。いつまでも。
今までだってそうだ。
ヤツら、黒マントは何処から来ていたのか?
これだけの人数を収容できる、それはあの船だ!
これまでも、ずっとあの3隻が隠れ蓑となっていたのだ。
「あの中にずっと隠れ潜んでいたっていうわけ? そして、今、市長はヤツらを使って街を襲ってるっていうの? おかしいじゃない。自分の街を襲わせるだなんて」
ああ、これでは内乱状態だ。
だが——それを狙っている?
「……まずは、我らの大使館に向かいましょう。ここを抜けて」
迫り来る黒マントの曲剣を捌きつつワルターさんが指示する。
確かに、それが今は一番確かな場所か。
そうして、向かおうとした時だった。
こちらに迫る足音。……追っ手か!?
「アシュレイ兄ちゃん……良かったッス、無事で……」
「トライド! お、おい、どうしたその姿は……」
黒マントどもの群れを俺たち同様、縫って現れたのは全身ボロボロのトライドだった。
頭や腕など数箇所の傷から血が流れ出ている。
こ、これは一体……
「ごめん、……バル兄ちゃんに……伝えて欲しいんだ……リアンちゃんがヤツらの手に……俺のせいで……」
「お、おい、トライド!」
傷だらけで息も絶え絶えなトライドはその中でも俺たちに伝える。
リアンと共に居たのに、守れなかった事を。
ヤツらの手にリアンが落ちてしまったことを。
深い後悔とともに。
全てを話したあと、既にトライドは意識を失っていた。
「……大丈夫。出血は多いけど、これなら何とかなるわ。でも、急ぎましょう」
非戦闘員である俺がトライドを背負う。
悲鳴、叫び声、そして血の海。
あの平和な中心街の広場と思えない惨劇の様子だった。
これが俺たちの長い30時間の始まりだった。
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