21章①『それはヘズィタントな刻戻り』
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医務室の少しだけ空いた窓からの風がレイチェルの栗色の髪を揺らす。
「ぐすッ…………」
その目の縁に涙を滲ませながら、レイチェルはそっと俺を見上げた。
俺の右手の小指と薬指を、その手でギュッと握り締めたまま。
「あ、ありがと……アッシュ……」
「いや、無理はするな、レイチェル」
「……そんなこと、言ってられない……ッ!?」
そう言いながら、上体を起こして俺に近づこうとした瞬間、全身をビクッと震わせる。
再び細かく震え出す。
「こ、これは……違うからッ!」
「わかってる。女医先生が言っていた。“意思とは別に身体が反応してしまうんだ”って。レイチェルの想いは、俺がわかっているから」
だから——自分が悪いと思うな、レイチェル。
「うん……うん、ありがと。アッシュ……」
そう言いながらもシーツの上に零れ落ちたのは、一筋の涙。
レイチェル……
「少し、待っててくれ」
レイチェルが頷くのを待って、医務室の出口へと。
扉前で待っててくれていたのは、やはりセレスさんだった。隣には女医先生と看護師さん。
そして、セレスさんの背後にはバルやユリウス、ワルターさんまで、皆が待っていてくれた。
「レイチェルさん……大丈夫?」
セレスさんの問いに、俺はゆっくりと首を横に振る。
「そう、よね……」
セレスさんは、唇を固く結んで声を漏らす。
…………申し訳ないが、またしてもお願いするしかない、か。
「セレスさん、すいません。少しの間、レイチェルをみてあげてもらえませんか? 男性だと怯えてしまうんで」
「分かってるわ。あと、馬車の用意も、でしょ?」
……言う前から、セレスさんはわかってくれていた。
乗り合いの辻馬車では男性も乗ってくるため、今のレイチェルでは乗ることが出来ない。郊外にあるサファナ家に帰るためには、セレスさんのソリスト教国大使の専用馬車をお願いするしかなかった。
「フフフ……アッシュ君のお願いだから、仕方ないわね」
いつもありがとう、セレスさん。
そう、心の中で感謝したのだが、
「でも、アッシュ君もイイ性格してるわよねぇ〜?」
え? 何の話?
「……フッた直後の女の子に、本命彼女の世話をさせるんだから。中々の性格してるわよー、キミ!」
グガッ!! そ、それは…………ドア越しに俺らの話、聞いてましたねセレスさん……
「冗談よ! …………ま、それぐらいの嫌味は言わせてよね、せめて」
少しだけ、セレスさんは目線を落とし、そう呟いてから医務室に入っていった。女医先生、看護師さんと共に。
すみません……セレスさん。
本当に、俺は彼女の世話になりっぱなしだ。
この御礼はいつか、必ずしなければ。必ず。
セレスさんが医務室に去った後、残ったバルやユリウス、ミゼルやワルターさん達に向き合う。
皆が、不安げな表情で俺を見ている。
レイチェル……。
ヤツは……シクルドは、『俺の大事なモノを壊す』と。
狙いはリアンではなく、レイチェルだったのだ。
それも、『俺を苦しめるため』に。
——その為にレイチェルが襲われたのだ!!
だから、
「皆に、『チーム・アッシュ』に頼みがある」
そう言って、俺はその場で皆に深く頭を下げてお願いをする。
そう。
レイチェルの頭を撫でてやりながら、俺は頭の片隅でずっと、今回の襲撃について観察・分析・推定を繰り返していた。
ヤツらは通常、知り得ない隠し部屋の存在を知っていた。厳重な警戒網の中にあっても黒マントどもが陣を敷ける場所。
警戒網はリアン中心に張られていたため、公判前、主要な戦力は裁判所内には少数しか居なかった。
そして脱出方法まで用意されていた。
逆に俺たちはあんな隠し部屋の存在など知らなかった。憲兵隊の警戒作戦の中にも入っていない。
それは、裁判所が旧・古クロノクル城の外郭であることを利用しているから。恐らくは、クロノクル城に元々用意されていた仕掛けなのだろう。
セレスさんが色々と解説してくれていたように、このクロノクル城は戦いの為に様々な対策を講じていたのだから。
その盲点を突かれたのだ。
ならば——
頼む、レイチェルを救わせてくれ。
俺のせいであんなに傷ついてしまったレイチェルを!
その為に、力を貸してくれ!
「リーダーの頼みなら当然なのだなー」
「フッ、アシュレイよ。我らは同じ『チーム・アッシュ』なのだろう? ならばその頼みを聞き入れるのは騎士としての正義となる」
「兄ちゃんの頼みならオイラもお手伝いするし!」
「アッシュ君の頼み、自分も力になろう」
皆……ワルターさんまで!
俺は心の中で皆への感謝の言葉を述べるのだった。
そして、俺は皆に具体的な『お願い』を伝える。
セレスさんの手配でソリスト教国大使館の専用馬車にてレイチェルと共にサファナ家に戻ることに。
時計塔の時刻は、
16:20
出迎えたサファナおばさん、それにおじさんもレイチェルの様子にただただ驚き、そしておばさんはレイチェルを優しく抱きしめる。
まず、俺から公判前に起こったこと——ヤツの襲撃についてを説明し、そして防げなかったことを二人に謝罪する。
そして、一緒に付き添ってくれた女医先生から“男からの暴力未遂で男性全体への恐怖心というトラウマになっている”ことを説明される。
それを聞いたサファナおじさんは、複雑そうな表情で、頷く。
というのも、レイチェルはサファナおじさんですら近づくと全身を震わせ泣き出してしまったからだ。
“ゴメン……パパ……違うの、これは……でも、止められなくて!!”
そう言って涙をこぼすレイチェルの頭を俺はゆっくりと撫でてやるしかなかった。
“ありがと……アッシュ”
その紅玉色の瞳から涙を溢れさせながら、レイチェルはそう言って何度も礼を言うのだった。
「レイチェル……レイチェル! どうして、レイチェルばかり……」
サファナおばさんも泣きながら、レイチェルを抱きしめる。
「ゴメンなさい、ママ……ママ……」
レイチェルの謝罪にサファナおばさんは首を振る。しかし、言葉は続かない。ただレイチェルと二人、涙するのであった。
俺はグッと奥歯を噛み締める。
……俺は守れなかった。それがこの有様だ。
「すみません、サファナおじさん。俺が付いていながら」
しかしサファナおじさんはその俺の言葉を否定した。
「いや、アシュレイ君のせいでは無いよ。娘の、レイチェルの心の傷は犯人のせいなのだから。君はレイチェルを守ろうとしてくれたのだろう?」
だが……守ろうとして、俺は守れなかったのだ。結果として。
「全てを君が背負い込むことはないんだ、アシュレイ君」
その言葉を告げたサファナおじさんの目はどこか遠くを見つめていた。彼もまた、自分の無力さに苦しんでいるのかもしれない。
完璧など、絶対など決してない。そして、全てミスが無いなど。
それは、普通の事なのかもしれない。
普通なら——人は過去をやり直せないのだから。
『刻戻り』が無ければ……
例の時刻は10:35
ならば、タイムリミットは……16:35!
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