00章②『先んじるビタースウィートな初恋』
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そこからはぐちゃぐちゃだった。
地図と睨めっこしながら、『こっちだ』と思って曲がる度、別の道が現れる。何度もそれを繰り返して、やっとたどり着いたのはエルム草原ではなく、苔むした山小屋だった。
フラフラしながら扉を開ける。
ここならゴロー爺が居るはず……。
そう思って中に入るもそこには誰も居なかった。
「ゴロー爺? 居ないの?」
声を張り上げても誰も返事がなかった。
日が落ちつつある。
カナカナカナカナ……。
遠くでヒグラシの鳴く音が響き渡る。
どうしよう……。アシュ兄ちゃん……。
もうやだよ……。
小屋のスミで膝を抱えてうずくまる。
これ以上、外に出て抜け道を探す勇気は私には無かった。
ここにいて、アシュ兄ちゃんが来てくれるのを待つんだ。
そんな都合の良い期待を持ちながらジッと待つ。
と、遠くでゴロゴロと雷の鳴る音がした。
——光った。
数瞬、遅れて、
ドーーンという雷の音がすると共に、
ザザザザザー
急に大雨が降り始めた。
大丈夫。小屋に居て良かった。大雨でもやり過ごせる。
と、安堵したが、それは間違いだった。
ザザザザザー
天井から滝のように雨が室内にまで垂れ落ちる。
なんでなんで!?
あっという間に私はずぶ濡れになってしまった。
嫌だ嫌だ嫌だ……
もう、どうしたら……アシュ兄ちゃん……
「……アシュ兄ちゃん」
無理だ。アシュ兄ちゃんはエルム草原にいる。私がそうしたんだ。
でも、私は、
「嫌だよ、来てよアシュ兄ちゃん! アシュ兄ちゃんー!」
「ごめん、遅くなった」
え! 本当に?
夕立の音と共に扉を開けて入ってきたのはアシュ兄ちゃんだった。
「……どうして……?」
「そんなことより、早くここに」
アシュ兄ちゃんは羽織ってたマントを広げ、その中に私の身体を招き入れる。
厚手のマントは天井から垂れ落ちる雨も弾いてくれた。
と、
ガラガラガラ、ドーン!
「いやぁッ!」
近くで雷が落ちた。
思わず悲鳴をあげた私をアシュ兄ちゃんが抱き寄せてくれる。震える私の頭をずっと撫で撫でして落ち着くまで待っててくれていた。
ゴロゴロ、と音が響きつつ遠くに離れていく。
「……」
側に、隣にアシュ兄ちゃんが居てくれる……思わず涙が溢れ出しそうになるのを必死に堪えた。
「ちょっと待ってて」
アシュ兄ちゃんは、私をマントの中に入れたまま、部屋の隅にあった黒いストーブの蓋を開け、隣にあった薪と千切った新聞を放り込んでいく。
胸元から四角い箱——ライターをとりだし千切った新聞に火を点ける。
徐々に火が回ってきた。
「ほら、寒かっただろ。温まりな」
マントで上からの雨を防ぎつつアシュ兄ちゃんは私をストーブの正面に座らせる。
「あ……アシュ兄ちゃん……また隣に来て、よ」
苦笑して、彼は隣に座ってくれた。
「ふふ……」
「……なんで笑うのよ」
「いや、昨日のレイチェルもこんな風に隣でいたな、と思って」
昨夜も隣で震えてたけど、それは理由が違う。
「昨日はアシュ兄ちゃんが、幽霊の話をするからじゃない。すっごく怖かったんだから!」
「……幽霊は怖いかい?」
「当たり前よ!」
……幽霊は何をするかわかんないんだもん。
そう思ってまたベソをかきそうになっていたら、アシュ兄ちゃんがまた頭をゆっくりと撫で撫でしてくれた。
そして、
「大丈夫。幽霊が来ても、僕がレイチェルを守ってあげるから」
…………。
どうやって、守ってくれるの?
多分、疑問が顔に出たのだろう。
「どうやっても、だ。アシュ兄ちゃんが信じられないかい?」
違う、と首を振る。
アシュ兄ちゃんが『守る』と言ってくれたなら、それは絶対だ。
だから、
もう私は『幽霊』は怖くない。アシュ兄ちゃんが守ってくれるから。
雨足は、まだ降ってはいるも先程よりは弱まってきている。
「夏は夕立が来やすいからね。すぐに上がるとは思うんだけど」
……だから、マントやライターを持ってたのか。万が一の為に。
すぐ側の彼の顔を見上げる。
彼は、窓越しに外の雨の様子をジッと見ていた。
アシュ兄ちゃん……。
「……どうして、私がここにいるって分かったの?」
「ああ、それは……」
エルム草原に着いたアシュ兄ちゃんは私がまだ着いてないことを確認したら、来た道をすぐに取って返して私と別れた分岐道に戻ってきたらしい。
——僕が来た時点でレイチェルが居ないってことは、何かあったってことだからね。
……てことは、アシュ兄ちゃんは何も無ければ、私が言ってたように森を突っ切った方が遥かに早いって思ってたってことなんだろうか。
で、森に入ったアシュ兄ちゃんが言うには、
——多分、この前の嵐で四つ辻に落石があったんだよ。それでレイチェルは間違えたんじゃないかな。
だとしても、どうやって私がこの小屋にいるって知ったのだろう。
「ああ、レイチェルは困ったら『左』を選ぶ癖があるからね。お菓子でもトランプでも。左を選んでたらこの山小屋が見えたからきっとここにいるに違いないって」
……そんな私の癖、自分でも知らなかったのだけど。
でも、アシュ兄ちゃんは私以上に私のことを知っててくれた。
そして、私が一番来て欲しい時に、私を助けに来てくれた……
「こっちにおいで。互いにこうやって側で触れ合えば温まるのも早いよ」
「……」
ストーブの火が大きくなり、雨で冷え切った身体は徐々に温まりつつあった。
夕闇が訪れつつある中、ストーブの灯りに照らされるアシュ兄ちゃんの横顔、その姿から目を離せなくなる。
私なんかよりも、すっごく頭が回って、先の状況も予測して……そして私がピンチの時には必ず駆けつけてくれる。
私を、どんな時でも助けてくれる、私の英雄。
そう。
私は…………アシュ兄ちゃんが好きだ。
今、はっきり自分の気持ちを自覚した。
その横顔を見つめながら…………わかった。
私は、この人の隣にいたい。
でも、今のままじゃダメだ。こんなワガママで彼の足を引っ張ってる今の私じゃ。
ただ、守られてるだけの彼の『妹』じゃ。
それだと、ミリーちゃんと私は一緒。
そんなのは嫌。
私は彼の側にいたい。
彼の隣にいたい。
いつか…………いつになるかわからないけど、私が彼を支えたい。
そんな存在になりたい。
……どうしたらなれるかはわからないけど……
いつの間にか、私は疲れ果てて寝てしまっていたらしい。
雨が上がり、泥濘んだ森の小道を、彼——アシュ兄ちゃんは寝てしまった私を背負って町に連れ帰ってくれたらしい。
着いた時は既に日は暮れておりパパやママ、クリエッタおばさん達が慌てていたらしい。
山小屋が荒れ果てていたのは去年の嵐で元々古かった山小屋の屋根がもうボロボロになってしまって建て直しが必要なら状態にまでなっちゃったから。それで、今年の夏、ゴロー爺は森に行かなかったらしい。
あの山小屋は捨て置かれていたのだ。
そして、そこに私が迷い込んだわけだ。
こうやって、全て、『らしい』、というのは、私は気づいたら翌朝、家のベッドで寝ていたから。
起きたらパパとママにすっごく怒られるかと思ったのだけど、パパとママはため息をついて『もう無茶をしちゃいけない』と注意してくれるだけだった。
これも後から聞いたのだけど、アシュ兄ちゃんが、私を連れ帰って来てくれた時に、
『僕がレイチェルだけを森に行かせてしまったのがいけないんだ。だからレイチェルを責めないで欲しい』
と、言って、パパやママに私を叱らないよう懇願したらしい。
代わりに、ノートンおじさんにアシュ兄ちゃんは一晩中、怒られていたみたいだけど。
でも、次の日のアシュ兄ちゃんはそんなことはおくびにも出さず、
『どうかな? レイチェル、風邪は引いてないかい? 大丈夫なら今日はどうしよう? またエルム草原にミリーちゃんの花輪を作りに行くかい?』
と、苦笑しながら、昨日のことなんて何も無かったかのように話すのだった。
辻馬車は私とアッシュ、そしてミリーを降ろして次の終点へと向かっていった。サヨナラしてミリーもアッシュも自分の家に帰っていく。
いつものお隣さん同士。
幼馴染みの仲。
妹分。
でも、私は、いつか必ずあなたの側に行くから。
それまで、この想いは絶対に表には出さない。
アッシュ自身に私を認めてもらうまで。
だから。
この言葉はそれまで封印しておく。
自分からは決して言わない。
『好きよ、アッシュ』
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