アラクネの願い
千恵子が1センチの脂肪を倒す決心して数日後。
残念なことに、目に見えてを人外たちの中でダイエットという言葉だけが一人歩きしていた。
けれど、その渦中の人間である千恵子、そしてその新妻(仮)くらいにはなったアカーシャも、2LDKの住まいにはいない。
いない理由は、シンプル。
アカーシャが夕飯の買い出しに付き合ってほしいと懇願したからである。
それに、少し怪訝そうな表情を浮かべながらも、千恵子は付き合うことにしたのだ。
なんとも、夫婦らしくなってしまった二人である。
「……二人とも、上手く……やっているかな……」
そんな二人を心配するのは、蜘蛛っ子アラクネ。
彼女は、二人のことを思い浮かべながらも、窓際の日当たりがいい場所で千恵子のほつれた服を直していた。
(二人のことも気になるけど……こっちも気になる……)
アラクネは、縫い針を片手に黒のサマーセーターを見る。
「この生地には、どんな糸が使われているのかな……」
声のトーンもいつもより、たどたどしくなく、落ち着いていた。
それはまさしく匠、職人としての姿勢だった。
生地、いや繊維の一本、一本を逃さまいとする視線。
震えることなく、迷うことなく、的確に素早く通される糸。
誰がどう見ても、別人のような集中力を発揮しており、他のことは目に入っていない。
さらには、その弊害で自然と背中から蜘蛛の脚が、一本、また一本と出てくる。
ちなみに、これはキルケーから貰った薬の効果が切れているわけではなく、裁縫をすると勝手に出てしまう生理現象のようなものだ。
(縫い目が見えないくらいに、細かく縫っているんだ……凄い……)
大きなアメジストのような瞳を、キラキラと輝かせる。
なにも押し付けられたわけではない。
ただ縫うことが好きだから。
決して、鮮血公に、ウラド王に恩を感じていないわけではない。
しかし、人間だった頃の思い出、港町で過ごした実父との日々も、アラクネにとって大切な日々だった。
彼女は、この世界に来て、それを知った――いや、正しくはそれを思い出した。
「そう言えば……お父さんのお洋服も……縫ってあげたな……」
だが、もう……その顔をはっきり思い出すことはできない。
けれど、上手く縫えたことを褒めてくれた。
誰よりも喜んでくれた。
「手は特徴的だった……よね?」
アラクネは靄がった記憶を手繰り寄せながら、問い掛けて、自分の手を見つめる。
やはり顔は出てこない。
でも、同時に差別を受けた日々も出てこない。
僅かに思い起こせるは、手の感触と機織り機の前に座るシルエット。
大きくて職人特有の皮脂が少なくて、糸の摩擦で指紋も消えたシワシワな手。
ハンチング帽を被り、どこへ行くにしてもつなぎ姿だった。
「そうだ……そんなだった……今も、褒めてくれるかな……? 私、上手くなったかな?」
誰もいない部屋での二度目の問い掛け。
ただ、当然誰も応えず、アラクネの声だけが響く。
「応えてくれない……よね……」
胸がチクリと痛む。
返事なんかないのは、当然。
けれど――。
(ちえちえさん、みたい……だったのかも……)
ここには同じように頭を撫でてくれる千恵子がいる。
妹と言ってくれるアカーシャがいる。
この世界に連れてきくれたキルケー、忠臣フリーディアに、平等に接してくれる愛美、裁縫仲間になれそうな猛がいる。
(私も……なにかしたい……な)
千恵子は今を生きることに必死。
雨の日も晴れの日も毎日、毎日、仕事に向かう。
アカーシャも同じ。
炊事洗濯、千恵子の好きなアニメやスマホにネット。
元の世界ではなかった色んな文化を吸収し、千恵子と一緒に生きようと努力している。
愛美も人間でありながら、フリーディアを受け入れて今を楽しんでおり、一緒に暮らしているフリーディアもその刺激を受けて変わって、今はカレー屋で汗水流している。
それはあの人間を避けてきたキルケーであっても同じだった。
チンピラ集団、独走蝙蝠と仲良くし、猛とオンラインショップを運営している。
(みんな、やっぱり、今を生きているんだよね……それが、きっと”自分”を生きるってこと……なのかな?)
三度目の問い掛け、もちろん応える者はいない。
けれど、答えを導き出す式はアラクネの中にあった。
この世界に訪れた人外たち全員が、人間たちから刺激を受けて成長し続けている。
これは、人間側も一緒。
異なる種族がお互いに認め合って高め合う。
そして――今では自分たちの居場所を見つけているのだ。
(みんなみたいに、私も……変わりたい! 変わって……今度こそ生き抜きたい……)
と、胸の内で決意する。
それは半人外であるとか、元人間であるとか、関係のないアラクネ自身の心の声。
だから――。
「……学校に……行ってみたい……」
ひとりでに呟く。
それは小さな一歩、そして大きな変化。
人間の醜い部分を目にしてきた、アラクネが真に呪縛から解き放たれた瞬間だった。
「帰ってきたら……ちえちえさんと、アーちゃんに相談してみよう……」
ギュッと小さな拳を握り締めたアラクネであった。




