カロリーは美味しい
ハチャメチャな夏休みから、一ヶ月後。
日が落ちるのは少しずつ早くなってはいるが、まだ残暑は厳しい、ある日の夜。
蝙蝠柄のパジャマを着た、千恵子、アカーシャ、アラクネの三人は、リビングでそれぞれの時間を満喫していた。
「あー、お酒の飲みたいー!」
ソファーに座ることなく、冷房でひんやりしたフローリングに腰を落として、ジタバタ。
その姿はまるで、欲しいおもちゃを前にして駄々を捏ねている子供。
もはや、社会で理不尽と戦う女性ではなく、おもちゃ屋で大人と戦う駄々っ子である。
その大きな駄々っ子を化した千恵子にピッタリくっ付いているのは、蜘蛛っ子アラクネだ。
「ちえちえさん……アイスいりますか? おいしいですよ? クッキー&クリームって味……元気になると思います」
などと言いながら、最近ハマっている飲むアイスを千恵子に差し出す。
対して、千恵子は虚ろな目で、
「ギルティ……」
ボソリと呟いた。
首を傾げるアラクネ。
「ギルティ……?」
「あ、いや! なんでもないよ! 独り言だから気にしないで!」
(はぁ……このままじゃぶくぶく茶釜一直線だよ)
千恵子は自身のお腹を擦りながら、心の内でため息をつく。
それは罪。
こんな時間にアイスを食べるなど、自ら休日出勤を望むのと変わらない。
忙しくても会社側からは代休を取れと言われる、だから従う。
結果、有給放棄となり人事から説教、そして口煩い部長に怒鳴られる。
それなのに、自ら休日出勤をしたことで、いの一番に声をかけられるようになってしまう――そんな理不尽ループの犠牲者が千恵子である。
(あー……ちょっとムカついてきた……マジでなんなんだろう……色々とさ、理不尽過ぎない?)
過去にあったことを思い出し、やや憤慨する千恵子。
(でもなー……どうしても食べて欲しいんだろうね)
アラクネの持つアイスは、お風呂上りの自分用にとっていたものであろう。
まだ封は開いておらず、パックには霜が付着している。
アカーシャとは違う真っ新な好意。
(ここで食べるって言ったらアラクネちゃんは喜ぶよね……)
目の前では、自分の反応を心待ちにしているアラクネが首を傾げながらじーっと見つめている。
いつもなら例え罪、そしてギルティ時間であってもこんな可愛い人外を前にして断ることはない。
けれど、この一回を断れないと、いずれ蓄積されていき、第二、第三の新たな”ふにょ”なるもの――罪の証であり、幸せの証である脂肪を生み出してしまう。
だから、それが好意であっても、自らの考えがあるなら、相手にちゃんと伝えないといけないのである。
でないと――。
(太るよね……間違いなくさ)
それは約束された未来である。
(はぁ……仕方ない、ここはしっかりと――)
千恵子は少しばかりの申し訳なさを抱きながらも、
「あ、うん……ありがと。でも、明日にするね」
決心した自分を裏切らない為、優しく断った。
対して、アラクネは差し出した手をゆっくり戻し、視線を落としたかと思えば、
「そうですか……美味しいのに。残念です」
霜の付いたパックを小さな手でギュッと握る。
(どうしよ。めっちゃ落ち込んでいる)
心なしか、瞳が潤んで見える。
ふいに自身のお腹をさわさわ。
摘まめる幸せの証(脂肪)は、1センチほど。
何を根拠に思ったのか、本人すらわからないが、
(アイスの一口くらい……大丈夫、うん大丈夫!)
ひとりでに納得して、アイスを受け入れることにした。
「で、でも! 一口くらいなら大丈夫かも」
目を泳がせる千恵子が心配になったのだろう。
アラクネは口元をキュッと結んで様子を伺う。
「大丈夫です……? 無理させてない……ですか?」
対して千恵子は120%の作り笑いで返した。
「大丈夫、大丈夫!」
と言いながらもピクピクと眉が動く。
(やばい、顔が攣りそう)
慣れないことはしない方がいい。
これがアカーシャやキルケーであれば、嘘だと見抜かれてしまう。
けれど、純粋なアラクネには通用したようで、返事に微笑むと、
「そうですか……じゃあ、どうぞ」
その体温で霜が無くなったアイスを差し出す。
アイスを渡せたのが、よほど嬉しいのか、アラクネは蕾が花開くような優しい笑みを咲かせた。
(ああ、もう! こんなの耐えられるわけないじゃないっ!)
千恵子はリビングに咲いた可憐な花に悶絶しながらも、再度差し出された飲むアイスを手に取って、
「い、いただきまーす」
キャップを開けて吸った。
「これ、凄く美味しいよ! なんか元気出てきたかも!」
確かに美味しい。
クッキーのサクッとした食感に、ココアを感じるほろ苦さ、そして全てを纏め上げるバニラの芳醇な香り。
これを美味しく感じない生物なんていない。
現に、人外である蜘蛛っ子アラクネも虜になっている。
しかし――。
(なんか、いつもより美味しく感じる……? なんで?)
慣れ親しんだアイスの味。
が、今までより何倍も美味しく感じたのだ。
それは目の前の可憐な花を前にして、人間の舌、味覚を司る蕾――味蕾が開いたからである。
要は、幸せで楽しい気持ちが美味しさを向上させたわけだ。
「えへへー、そうですか……それなら良かったです」
「あははー……うん! ありがとうね」
千恵子は頬を紅潮させるアラクネを前に、反射的にお礼を言ったが――。
(ダメだ。痩せるなんて、無理だ)
ほろ苦クッキーとバニラアイスの甘さと共に押し寄せるは、とんでもない罪悪感であった。
理不尽にも屈さず、数々の仕事を捌いてきたし、今に至っては同僚から、「話し掛けやすい」や「雰囲気が変わった」と言われるほどに成長した。
自分では気付かない、心の奥深く――深層心理でそう自負し、アイスクリームを断るくらい余裕。
それは見事な自惚れであった。
忘れていたのだ。
自分が人外に弱いことを。
すると、キッチンから声が響いた。
「旦那様ー! キンキンに冷やしておいたぞー!」
(ほーら、今度はプリン体のダメ押しだよ)
真夏のビーチで、お互いの気持ちを確かめてから数日間は晩酌禁止令にスナック禁止令が山本家に発令された。
そして、当然のようにカロリーの高い物が食卓に並ぶこともなかった。
(まぁ……私が音を上げちゃったからなんだけど)
そうなのだ。
先程、駄々っ子モードになったように、「糖が足らない~! 脂質を細胞が欲しているよぉ~!」などと叫び続けたのである。
結果、アカーシャが折れること(このままではアラクネに悪影響を与えかねない)になり、晩酌は許可されたわけだ。
つまり、ただの甘えである。
「おっ! 気が利くー! って、それ――」
千恵子がアカーシャの声に振り向くと、その手には血のように赤い何かが注がれていたグラスがあった。
(まさか……血なんてことはないよね? 血を好んで飲むなんかはないって言ってたけど……でも、アカーシャはヴァンパイアだし? もしかして、痩せる時に血を飲むとか、そんな習慣があるとか?!)
さすがにそれはないであろう。
いくら常識がないとは言えど、もう何ヶ月もこちらで生活をしているのだから。
そう思いながらも吸血鬼≒ヴァンパイア→血という長年刷り込まれてきた固定観念は拭えない。
自然と顔が引き攣り生唾をゴクリ――喉が鳴る。
「なにをそんなに青い顔をしているのだ?」
アカーシャはそういうと千恵子の顔を覗き込んだ。
「いや、だってそれ――」
「ああ、これはトマトジュースなのだ! 旦那様の気持ちを汲んで、晩酌を許可していたが……そう! よくよく考えてみると、夜の方が問題だと気付いたのである!」
「でも、トマトジュースってさ、お茶とかでも良くない?」
「お茶ではだめなのだ!」
アカーシャはムスッと頬を膨らせる。
「そうなの?」
「そうなのである! 旦那様は、血を飲むことはないであろう?」
「そらね。私、人間だし」
「であろう? だから、トマトジュースを選んだのだ!」
「へぇー、そうだったんだー。トマトって血液と同じ赤色だしねー! って、どういうことよ?!」
今日もツッコミが冴え渡る千恵子である。
少しばかり、アカーシャのことが気になっていても、そこは外さない。
「うむ、わからぬか?」
「わかんないよ!」
(あれか……もしかして、同じ釜の飯を食うのは的なやつ? いや、いつも同じ釜の飯を食べているし! というか、アカーシャって料理上手いんだよねー! 口調はちょっと偉そうだけど、まぁ……気遣ってくれるし……)
たぶん、違う。例えも微妙にズレているし、ただ、アカーシャを褒めているだけになっている。
けれど、彼女の心の内を知る者はここにおらず、顔を緩ませる千恵子と、それを見てニマニマするアカーシャ。
今もなお、千恵子の手の中にあるクッキー&クリームを、チラチラ見つめるアラクネという、謎の三角関係が成立しただけ。
だが――。
(って、私……ちょっとやばくね? 痩せるどころかカロリー祭りじゃん)
トマトジュースと飲み干し、クッキー&クリームを完食してから、ようやく客観視できる千恵子であった。




