気の迷いではなくて、本心で
「うん、そこは私的に凄く重要だから覚えていて……って、待ってどういうこと?」
千恵子は固まっていた。
目は白黒とさせてはいるが、固まっていた。
聞き捨てならない言葉が、間違いなく、目の前にいるアカーシャから発せられたからである。
(この子、おかしなことを言った……よね? あれ? 聞き間違いかなー?)
千恵子が思い出すは旦那様という、とんでもパワーワード。
これが、イケメン獣人であったならばその場でホップ・ステップ・ジャンプして喜んでいたのかも知れない。
いや、冷静でなかったら、IQ3となって喜んでいただろう。
オタクとは、女性とは、そういう生物なのである。
けれど、今はすっかり落ち着いて、更にその言葉を口にしたのは、性別は間違いなく女性。
そして推しの人外ではあっても、子供だ。
多様性が広まりつつある世の中であっても、さすがにこれはない。
つまりはまたもや、焦る状況に陥ったのである。
(どう指摘しよう? いや、どうやって訂正してもらおう……)
千恵子は頭を抱える。
その時、アカーシャが声を掛けてきた。
「うむ? どうしたのだ?」
顔を上げると、アカーシャが首を傾げていた。
その顔はわざと惚けているような様子も見受けられない。なんだったら必死に思い出そうと眉間にシワを寄せているくらいだ。
(この表情……無自覚なパターンか……)
千恵子がそんな予想していると、アカーシャは何やら思い当たることがあったようで、パアアッと笑顔を咲かせて自慢げに答えた。
「フフーン! 我にはわかるぞ! さては魔法だな? 旦那様もなかなかに強欲よなー! 我を妻にしただけでは飽き足らず、魔法までその手に収めようとは……フフフ、実にいいではないか!」
完全な勘違いである。
一つの解釈としては間違ってはいない。
魔法の類であったり、異類婚姻譚が綴られた読み物は枕元にも、自室の本棚にもたくさんある。
けれど、
(身から出た錆だけどさー……今回は違うんだよー)
そう、今回は違うのだ。
単純に、自らのことを旦那と言ったこと、その意味を聞きたいだけなのである。
日頃の行いというか、来客を想定していなかった諸々のレイアウトを後悔。
せめてカーテンを付けておけば良かったとか、特殊な趣向な物は後ろ向きすれば良かったとか、色々なことが頭をよぎる。
「あ、血を吸ったおかげでガンガン使えるぞ? あ、さっき隠行の術を失敗したのは、まだこの体に慣れておらんかったからで――」
そんなことを知る由もない、アカーシャは席を立ち、先程失敗した隠形の魔法を使い、姿を消したり現したりしてアピールしていた。
(あれだ、ちゃんと言おう! ドストレートに)
一念発起した千恵子はダン! とテーブルを叩いて勢いよく立って、
「私は、君の――だんなひゃぬ――っじゃない!!」
部屋に響き渡る自らの声。
言った。とうとうその本音を。
だが、意気込み過ぎたせいであろう。
肝心の言葉を噛んだ。
(ここで、しくじるってなに?!)
盛大に噛んだことで顔が熱くなる。
それを復唱するアカーシャ。
「だんなひゃぬ……だんなひゃぬ……」
そして、ひとりでに頷いて、
「我は旦那様とは言ったが、だんなひゃぬなぞ、言っておらぬ!」
千恵子の言い分を真っ向から否定した。
「って、違う違う!」
千恵子は勢いよく首を振った。
「なにが違うのだ?」
アカーシャは不思議そうに首をかしげる。
その反応を見て、千恵子はさらに困り果てた。
(間違えたのは悪いけどさ、これでも伝わんないのかー……もう一回言うの? もう嫌だなー)
繰り返し、改善して、ミスする。
トライアンドエラーというよりは、ループエンドエラーとなったことで、とうとう訂正することを諦めようとした。
その時――。
「あー! 旦那様と言ったことか!」
アカーシャがようやく気づいたらしく、声を上げる。
「そうそれ!! なんで私が君の旦那になっているの?! てか、私、女だし! そもそも力が戻っているなら、元の世界に戻った方が良くない?」
気付いてくれたことで、自然と語気に気持ちが乗る。
だが、千恵子が指摘すると、アカーシャは急に黙り込んだ。
表情もわずかに陰って、どこかかなしそうにも見える。
「我は……人間が嫌いだ」
その言葉に、千恵子は少しだけ息を飲んだ。
「だったらさ、なおさら帰る方がよくない?」
千恵子の言葉に、アカーシャは視線を落とす。
彼女は何かを考えているようだった。
やがて、ぽつりとつぶやくように言った。
「出来たら……その――我と一緒に居て欲しい」
その言葉が、千恵子の胸に妙な重みを持って響いた。
「一緒にって……私、人間だし……君にも生活があるでしょう?」
千恵子はなるべく冷静に言葉を選んだ。
アカーシャの真剣な表情が、なんとなく気になった。
「……フハハハハハーー! た、確かになのだ! すまぬ、すまぬなっ! 旦那様……いや、ちえこ。 あれだ、少しなんというか――気の迷いである!」
急に大げさに笑い出したアカーシャに、千恵子は一瞬ぽかんとする。
(なに、その急なキャラ変……?)
「ではな……」
アカーシャは一言告げた後、すぐさま魔法陣を展開し、この場から去ろうとした。
その瞬間――。
「待って!」
気づけば、千恵子はとっさにアカーシャの手を握っていた。
(って、何で止めたんだ……けど――)
千恵子は人生を諦めた時のような独特のさみしくて、どこか儚げな雰囲気をアカーシャに感じたのである
「うちに居てもいいよ? 大したことなんてできないけどさ」
一人はさみしい。
そのことは誰よりも知っている。
好きな物に囲まれていても、共有できる誰か居ないと。
気を許せる相手がいないとやっぱりさみしい。
その姿に仕事に熱中し過ぎて、学生時代の友達は疎遠になってしまった自分を重ねていた。
それによく見たらアカーシャは、その小さな肩を震わせている。
(私も、一人より二人がいいかな……)
千恵子は、心の内で呟いた。
アカーシャは理解が追いついていないようで、呆然としていた。
そこから目を見開いて瞬きを数回、なにを言われたのか伝わったようで、真紅の瞳を潤ませて、
「……居ていいのか?」
優しい、とても優しい上目づかいをした。
その表情は花が咲いたように、とても柔らかくて、幸せに満ち溢れていた。
「いいよ! 一緒に暮らそう」
――ブブッ、ブブッ、ブブッ。
「まーた鳴った! 今度はなに?! えーっと、ごめん! ちょっと待ってね!」
千恵子はそう言って、握っていた手を離して、テーブルに置いたスマホを取った。