すっかりとけ込んだ? ヴァンパイア
時刻は17時半、千恵子は愛美のおかげで一週間振りに、定時退社していた。
少し前なら日が落ちていた時間帯だったが、まだ落ちることなく、周囲は明るい。
(明るい時間に帰るのは、久しぶりだなー)
一階の扉を開け会社から数歩、歩みを進めて、
「んんーっ! むはぁー」
凝り固まった腰を伸ばし息を吐く。
見上げれば、青い空に大きくて白い雲が浮かんでいて、
(なんだろう、空気が美味しく感じる……)
解放感が凄い。
しかしながら、まるで監獄に入れられていた囚人のようなセリフである。
(って、ふふっ、私は囚人か!)
駅へ向かいながら、心の中で自分にツッコむ千恵子であった。
☆☆☆
私鉄を乗り継ぐこと、四十分。
千恵子は駅近くの公園を通り抜けて、アカーシャが普段利用しているアーケード商店街に立ち寄っていた。
夕飯時ということもあって、人通りは多く、自転車のベルや香ばしい揚げ物の匂いに、焼き魚の食欲を唆る匂いも漂う。
(なんというか、活気に溢れてるなー。明るい時間帯の商店街ってこんな感じなんだ……じゃなくて、今日は早く上がれたし、アカーシャになにか買っていくか……まずは――)
周囲を見渡す千恵子。
その視線の先には、ガラガラの声で集客をする【鬼灯丸】という魚屋があった。
(あ、そういや……ここで魚を買うとか言ってたなー、アカーシャは肉より魚好きだし、魚にしよっか!)
「そうだ、そうだ! 確認しないと!」
千恵子はスーツの内ポケットから、スマホを取り戻し、アカーシャに電話する。
買っていいのかの確認である。
これはかなり重要な意味を持つ。
もし、ここで確認せず購入することがあれば、ほぼ間違いなく、アカーシャの機嫌を損なうことになるのだ。
言うなれば、夕飯の準備をしていたのに、良かれと思いお惣菜を買ってくる世のお父さんといったところだろう。
つまりは、すっかり尻に敷かれた千恵子ということだ。
「もしもし」
《どうかしたのか? 旦那様》
「ううん、ちょっと早く終わったから、商店街に寄ってるんだけど、何か買ってこようか?」
《おお、今日は随分と早いのであるな! お勤めご苦労なのだ!》
「うん、ありがと。で、何かある?」
《ふむ、何かか……あ、そうであった! ちょうどラップが切れたのだ! あれがないと、食材を適切に保管出来ぬからな! どんな時も備蓄は大切である》
「いや、備蓄って……まぁ、いっか。とにかく必要なのは、ラップね。お惣菜とかはいいの?」
《うむ、大丈夫なのだ! 今日は金目鯛の煮付けを作ったので、必要ないのである》
「おお、金目鯛の煮付け! 日本酒も合うやつじゃん! って、もう作ってたの?!」
《フフーン、当然である! 我はアカーシャ・ロア・山本、ちえこの嫁だからな! そ・れ・にだ! 旦那様がそういうと思ってだな、辛口の日本酒をキンキンに冷しておるぞ! あ、冷凍庫に入れてたの思い出したのだ!!》
どちらかというと、山本アカーシャって呼ぶのが正しい。
大きな声をあげたかと思えば、プツリと通話をきる音が聞こえて、
「もしもーし?」
と呼び掛けたが……。
――ツーツーツー。
やはり聞こえるのは、通話を終えた時に鳴る音のみ。
「って、切れてるし……」
(しゃーない! ドラッグストアに寄って帰るか)
呆れそうになりながらも、電話の向こうでミスを挽回しようとしているアカーシャを想像して、自然と顔が綻ぶ。
そして魚屋の横を通り過ぎようとした。
(少しゆっくりめにね)
――その時。
ガラガラ声で呼び止める人物がいた。
「おっ、山本さんじゃあねぇか! 今日は早いなー!」
魚と書かれたエプロンに鉢巻を巻いた魚屋店主であった。
「はい、今日は巻けたので、ちょっと寄り道でもと思って」
「そうか、そうか! いつもご苦労さんなこってぇ! っと、アカーシャちゃんは……いねぇのか、じゃあ留守番かー!」
アカーシャがいないことを知った瞬間、残念そうにする店主。
(アカーシャ……魚屋のおっちゃんにも気に入られてるの? コミュ強すぎるよ)
自分よりも、この世界に馴染み始めているアカーシャのポテンシャルに呆れて視線を落とす。
(てか、私ってアカーシャに負けてる? もしかしてさ……)
そして、そこにプラスして何とも言えない敗北感が押し寄せ、自然と顔が引きつる。
すると、店主のガラガラ声が響いた。
「――よぉし、これでも持っていってやれ」
千恵子が目線を上げると、棒状の何かが入ったビニール袋が店主によって放り投げられた。
宙を舞うビニール袋。
慌てふためきながらも、それを何とかキャッチして、
「わ――っ! あ、ありがとうございます! あ、でも、代金は?!」
社会人として、対応した。
(タダは、さすがにねー……後々揉めたくもないし)
心の内で呟く千恵子。
そう、タダほど高いものはないのである。
「んなもんいらねぇよ! いつも買ってくれる大事な常連さんだからな」
「いや、でも!」
「大丈夫だ! タダってわけじゃねえ、また今度寄ってくれたらいい! アカーシャちゃんにもそう伝えといてくれ!」
(タダじゃないなら、まぁ……好意だし――)
「……は、はい。わかりました」
「おう、じゃあ、気を付けてな」
「はーい」
手を振って魚屋を離れた千恵子は、歩きながらちらりと袋を確認する。
「これって……」
その中身に固まるしかなくて、苦笑いするしかなかった。
「あははー……って、魚肉ソーセージだよね?」
そう、その袋の中には【魚肉ソーセージ】と書かれた紙袋が入っていたのである。
(って、ことはさ……魚屋さんにも、アカーシャの好み伝わってるってこと?! なんていうか……うん、完敗だわ)
などと、ひとりごちる千恵子であった。




