ド修羅場
「だ、旦那様……?」
現れた人物はそう言い、バサリと、その手に持っていた買い物袋を落とした。
(アカーシャだ、助かったぁー、これでこの地獄が終わるよー)
助けてほしいタイミングで現れたヒーロー(アカーシャ)の存在に、千恵子は心から安堵した。
していたのだが……振り向くと、ダボダボパーカー姿の子供アカーシャではなくて、艶やか黒の翼を生やし、真紅の鎧と赤いオーラを纏った大人アカーシャが立っていた。
しかも、その表情は芳しくなくて、ゴロツキ集団に見せた殺気よりもっと鋭く、千恵子の周囲にはギリギリと締め付けるような空気が漂う。
「あ、あれ? なんか怒ってる?」
思い当たるようなことはない。
確かに、炊事洗濯掃除、お世話になりっぱなしだった。
(い、今になって……嫌気が差したとか?)
熟年離婚……そういったワードが千恵子の頭に浮かんだ。よくある夫婦生活のもつれである。
尽くされる側は当たり前になり、尽くす側は愛想を尽かし……ある日突然、爆発する。まるで休火山のように。
しかしながら、千恵子とアカーシャの場合は……決して、熟年でもない。
というか、
(いや、そもそも籍入れてないんけどね!)
その通り、籍すら入れていない……けれど、とにかく時代は多様性なのである。
自身でも気付かぬ内に、夫婦関係を連想してしまった千恵子に対して、アカーシャはゆっくりと近付きながら呟いた。
「……なのだ……」
初めの数歩では、耳を傾けても聞こえず、「ど、どうしたの?」と千恵子が聞き返しても応じない。
(やっぱり、凄く怒ってるよね……)
無視は今まで一度もなかった。
不安が渦巻く。
そして、また一歩近づいたことで、聞こえた。
「――相手は誰なのだ……」
決して大きくはない声、しかし、重く心臓を掴むかのような凄みのある声、だというのに。
(あれ、唇を噛んでる? なんかかなしそうだし……泣いては――いないっぽいけど……)
少し前に目撃した、ただの怒りとは、また違う。
千恵子の後ろに居る、フリーディアに向けられる視線は、物凄い迫力がある。
しかし、千恵子に向けられるのは……また別のなにかであった。
その様子に、千恵子が気を取られていると、アカーシャの姿が消えて……気が付いたら、頭上に鋭い眼光を放つアカーシャがいた。
「な――っ」
声を漏らす千恵子。
直後、先程まで彼女が立っていた場所に、様々なことが巻き起こる。
窓ガラス、通路の壁にはヒビが入り、踏み込んだであろう床にも、その足跡がくっきりと残っていた。
あまりの速さに、千恵子の周囲ではゆっくりとした時間が流れる。それはまるで、コマ送りの世界、絵に描いたようなスローモーション。
視線は宙に浮くアカーシャ、その後ろで起きた現象を交互に移って、
(この……一瞬でここに来たってこと?! じゃなくて、止めないと――)
ようやく、千恵子は何が起きたのか把握し、アカーシャとフリーディアとの衝突を止めよう咄嗟に手を伸ばす。
(ま、まずいっ! 間に合わ――)
だが、時すでに遅し……止めに入ろうと動いた瞬間、元通りの流れになり、アカーシャの拳は切腹しようとしていたフリーディアを撃ち抜いていた。
「旦那様を惑わした者には、制裁を下すのだー!」
少し涙目なアカーシャ。
その叫び声からほんの数秒遅れて、腹に響く強烈な打撃と、コンクリートの割れる音が千恵子に襲う。
(ゔ――っ)
思わず、その場で膝を着く。
(え……)
そして、その音が止んだ時には……アカーシャから渾身の一撃をくらったフリーディアは、そのあまりの威力にコンクリート製の床を抜けていき、一階の踊り場に落ちていった。
「フッ、我の旦那様に手を出したからである」
その撃ち抜いた本人はというと、空中で黒き翼を羽ばたかせてながら、してやったりという様子である。
何も知らない&恋に盲目状態は何よりも恐ろしいのかも知れない。
「ア、アカーシャ……? 仲間じゃなかったの?」
千恵子は思考を放棄し、あるがままの惨状を問う。
「仲間……? 我の旦那様と逢瀬を重ねていた輩なぞ、仲間などではないっ!」
アカーシャは頬をプクッと膨らませる。
「逢瀬って……どこで覚えたんだよ……というか、違うからね? 今日初めて会って、話してたところだから!!」
そんなことを口にしながら、自分に問題がなかったことにホッとする千恵子である。
「そ、そうなのか? 逢瀬ではないのか?」
「だから、違うって!」
(あれか、まーた、知恵袋とかで聞いたやつか……)
「であれば、殴った者には、可哀想なことをしたな……もう命はないであろう……」
「えっ……奪ったの……?」
「うむ……」
(異世界の人っていうか、人外の命を奪った時って、どうなるの? もしかして……向こうの法律があって裁かれるとか? いや、でも……アカーシャに仕えているとか言ってたし……じゃあ、このままでいい? というかこれ修繕費どうしよう……あ、でも、アカーシャなら直せるし……やっぱり、いいのか?)
良くはないし、間違いを正すのが君の役目だろう? 千恵子! とツッコミ待ちなことを心の内で呟きながら、千恵子は空いた穴を覗き込んだ。
そんな彼女を見ていたアカーシャも、どうやらやりすぎたと感じたのか、子供の姿に戻ると、千恵子の隣でそっと穴を覗き込む。
二人して肩を並べ、穴の向こうを見下ろす様は、傍から見れば妙に間の抜けた光景だった。
なんともカオス極まりない状況ではあるが、ひとまず互いの誤解は解けたようである。
が、次の瞬間。
「アカーシャ様ったら、ひどいですよ!」
割れた床の向こうで、フリーディアは何事もなかったかのように立ち上がって、
「私でなければ、防げなかったですよ?」
右腕に頭部を抱えたまま、左手でコンクリートの欠片をパンパンと払いながら、こちらを見上げてきた。
「あ、生きてる! 良かったぁ……」
千恵子は安堵の息を漏らし、その場にへなへなと崩れ落ちる。
すると、その姿を見たアカーシャは一瞬ぽかんとした後、パァッと花が咲いたように表情を明るくさせて、
「あっ、お主は!」
嬉しそうに声をあげた。
そして黒い翼を広げ、千恵子に「旦那様よ、ちょっと待っておれ」とひと言残して、フリーディアの元へと飛び立っていった。




