吸血衝動
冬だというのに、見上げれば、ジリジリと照り付ける太陽。
アスファルトからの照り返しも相まって、とにかく暑い。
工場が近づいてきたことで通り抜ける風にも、機械油の臭いや廃棄ガスの臭いが香って、より不快感が増す。
「昼から気温が上がるって言ってたけど、ここまでとはねー」
そういうと千恵子は着ていた上着を脱いで、ポケットからハンカチを取り出して、
「あっちー」
額、首元の汗を拭う。
彼女は日陰であった路地裏から、スタスタ歩みを進めて、会社と工場のある表通りに来ていた。
もちろん、アカーシャも一緒に。
アカーシャは目にする物、全てが新鮮なようで、千恵子の隣をルンルン気分で歩いている。
(親子出勤みたいになってるよね……)
人手不足なこのご時世、預け先が見つからないというニュースはよく耳にする。
でも、まさかまさか、それを疑似体験する日が来るなんて……そういったことで頭をいっぱいにしているとアカーシャが声を掛けてきた。
「旦那様、大丈夫か?」
「ありがとう。もうすぐ会社だし、大丈夫だよー―んっ?!」
ついさっきまでは、周囲の建物や車などに目を輝かせていた。
送ってもらったことだし、これくらいは気分転換になるならいいかな? とも考えていた。
今だって暑かったから、それを心配してくれた。いい子だなーとも思っていた。
けれど、これは――。
(な、なんで、涎を垂らしているの?)
まるで、仕事終わりのビールを前にしているかの如き、熱を帯びた視線。
息は荒く、心なしか見える犬歯も鋭くなっているようにも見える。
(これって、完全にあれだよね。吸血衝動ってやつ)
漫画やアニメ、小説、サブカルチャーから、遺伝子に刻まれるほどにこういった場面は摂取してきた。
だが、実際にされる時の対処なんて知らない。
大体の物語は、ちょっぴりえっちな感じで吸血行為を描写していたり、吸われた方は色っぽい表情になったりする。あとは……
(眷属だ……って、落ち着け私。一度、吸われた時は眷属とかにならなかったし、後遺症もなかった。つまり、吸われても平気)
知識量が多くても活用できる能力がなければ、こういったことに陥るいい例である。
「んなわけあるかぁぁぁーーーー!!!」
千恵子は叫んだ。
思考が限界にきたことで叫んだ。
もう周囲の目など、すっかり忘れている。
アカーシャは千恵子の読み通り、近づいて手に触れたり触れなかったりを繰り返す。
「うむ、そんなにも暑いのか……ど、どれ我がどうにかしてやろう」
(やっぱり、完全に血を吸おうとしてる)
「いや、いい。なんか手つきがいやらしいし」
手を振り払い、顔を背けた。
だが、千恵子が静止しても、アカーシャはグイッと距離を詰めた。
「そう言わずにだな、グヘヘー」
(ダメなやつだ……)
恋が引き金となったのか、千恵子の持っていた読み物がきっかけとなったのか、それとも元々、特殊な性癖の持ち主だったのか。
真実はわからない。
だが、誰がどう見ても吸血鬼……いや、ヴァンパイアらしい衝動に駆られているに違いなかった。
アカーシャのギラリと獲物を狙う狩人の如き鋭き視線と、下品極まりない涎にドン引きした千恵子は、数歩後ろに下がって、
「絶対に! や、やんないからね!」
首元を手で隠す。
――が、初めての純粋な欲望に、アカーシャは逆らうことが出来なかったようで襲い掛かる。
「す、すこすこすこ、少しだけでいいのだぁぁーーーーー!」
これが日本に訪れる前のアカーシャであったなら、到底避けることなど出来なかったであろう。
けれど、対峙するのは背丈は子供、心も何故か子供っぽくなったまさにThe子供である。
なので、何の考えもなく千恵子へと一直線に飛び込む。
「あまい!」
案の定、千恵子は右に半歩動いて紙一重で躱す。
傍から見れば、最小限の動きで、とんでもない速さで突っ込んできたアカーシャ躱したと映ることだろう。
しかし、それは全く違う。
ただ単に右へ半歩動くので精一杯だっただけである。
それでも躱した千恵子、本人は満足気な笑みを浮かべていた。
「うふふ、今なんか達人っぽかったよね」
小さな頃からインドア、外で遊ぶことによって、ときめくことなんて、ほぼ一度もない人生だった。
でも、だからこそ、人知を超えた存在からの一撃を躱せた喜びったら、一般人の何倍もあった。
いわゆる、ゲームやアニメなどの戦闘シーンを再現できたんじゃね? 私? みたいなやつである。
そして、紙一重で躱されたアカーシャはというと。
「うわぁぁぁーーーーーーー!」
勢い余って、歩道から車が走る道路へと勢いよく転がっていった。




