不穏な気配
「私の仕事は、もう終わりかなー」
(旦那様の仕事……ああ、そうであったな!)
コミケにおける千恵子の役割は、印刷所の手配や当日の動きを纏めた資料の作成である。
つまりは、やっていることは日頃の業務とそこまでの差はない。
だからこその人選であったのだが……。
「でも、あの様子だと、他がまだだねー」
首を傾げる千恵子の右隣では、オーバーサイズのニット地のセーターに膝上くらいのスカートでポージングを決めるキルケーが。
その動きに呼応するように見事な連携プレーで写真を撮る+αの独走蝙蝠の面々がいた。
ちなみにほんの数ヶ月前までは、口にピアス、鶏もびっくりなモヒカンといった尖りまくった外見であったが、今ではピアスもモヒカンもやめて、人当たりまで柔らかくなっている。
1つも文句をいうこともなく、元鼻ピアスの村田はキルケーがポージングをキメる度、その動き合わせて写真を撮る係をし、元モヒカンの田口は反射板を使って陰影を調節する係とスカートなどに動きを出す為、扇子で風を起こす係を兼務するほどに。
(こやつらも変わったのだな……いや、変わったのはここにいる全員か……)
楽しそうにやり取りを交わすキルケーと独走蝙蝠の面々の後ろでは、ヴァンパイアとOLとの恋愛をテーマにした薄い本を制作中の愛美、フリーディアの臣下組が和気あいあいと語り合い、その後ろでは猛とアラクネ、そしてその友達の西園寺くれはが、それぞれ意見を出し合いながらフェルトの人形を作っている。
(楽しそうであるな……)
自分の正体を明かしても好意を向けてくる人間、小さい子供の姿をしていても、バカにすることなく個として扱う人間。
この日本という国が平和だからこそ、千恵子の人間性がいいからこそ、その周囲に心根の良い者が集まったのだろう。
初めの頃、アカーシャはそう考えていた。
けれど、この地で暮らすほどにそれだけではないことに気付いたのだ。
それは夜の国で過ごしていたら、間違いなく気付くことはなかったこと。
(……人間はきっかけさえあれば、変われるのだな)
人は、変われるということ。
もちろん、性善説なんて甘い考えを信じているわけではない。
それは身をもって理解している。
物心ついた時には、人間はヴァンパイアの血や不死性、知り得ぬ文化や技術のある夜の国を求め、争いを吹っかけていたのだから。
でも、アカーシャはふと疑問に思った。
それを自ら父、ウラドは弱い種族だからといって相手にしなかったのかを。
(そうか……父上が相手にしなかったのは、もしかしたらそういった部分を知っていたからなのかも知れぬな……)
父ウラドが即位している間にも、何度も人間との衝突があった。
しかし、下等な生物、弱き者と評し敵として考える必要すらないと、矛を交えようとする臣下たちを諌めた。
納得していたわけではない。
ただ、当時はそれがウラドの本音だとそう考え、それを信じ。
強き国、強き王として歩むことを決めた。
だから、当然のように自らが即位してから、アカーシャは、人間という存在はどの種族よりも自らの地位名誉を優先する種族であること。
話せる者がいても、正体を明かせば態度は急変する存在ということ。
そういうことを頭に置いて、色々なことに取り組んできたのである。
例えば矛を向ける者には容赦なく力をふるい、命を奪うことも躊躇わなかった。
だが、今思えば……その結果、両国で恨み辛みが積み重なり、対話する機会は徐々に失われていった。
だからこそ、ふとした時に考えてしまう。
(……もう少しやりようがあったのではないか)
と、さらには自らが居なくなってしまったことで、人間に無関心だった父ウラドに良くない影響を与えてしまったのではないかと。
「もう……父上とぶつかることは間違いなく避けては通れぬのだろうな」
そう呟いた瞬間、胸の奥になんとも言えない痛みが走る。
少し前に考えていたこと。
自分には、世界を変えてくれた千恵子がいて、もしかしたら、また同じように解決してくれるのかもしれない。
人間を憎んでいるであろう父ウラドであっても。
今だって、千恵子を信じる気持ちは揺るがない。
けれど、全ての原因は自分にあって、今まで屠った者の中にも家族やこういった関係を育める人間がいたかもしれないのだ。
「……我も屠った者と、なにも変わらぬのではないか?」
たまたま力があったから、負けることはなかった。
たまたま力があるから、一方的に侵略されることもなかった。
たまたま不死のヴァンパイアであったから、寿命で死ぬこともなかった。
だが、逆であったなら、自分たちが人間の立場であったなら、同じことをしていたのかもしれない。
(我も視野が狭かったということであるな……あの時、あの瞬間にもっと柔軟であったなら――)
そう、もし今のように対話をしていれば、戦場で命を落とした夜の国の民たちも救えたかもしれない。
想像するだけで、胸の辺りが苦しい。
アカーシャが過去のあった自らの行ないを振り返っていると、千恵子がグイッと肩を掴み引き寄せた。
「こらこら! アカーシャ? まーた変なこと考えていたでしょう? 過ぎた日々を反省することも大切かもだけど……今を生きないとダメだよ?」
ここで生きている自分を捉えて離さない瞳。
どんな姿を見せても受け入れてくれる存在。
考えていることを察して、こうして声を掛けてくれた。
(……カッコ良すぎるのだ……)
そんな溢れ出そうな想いを抱きながら、アカーシャは笑みを浮かべた。
「ニヒヒ♪ そうであるな!」
「そうそう! じゃないと推しの一番いい時を見逃しちゃうからね!」
全てを理解した上で屈託なく笑う千恵子。
その姿に、きゅんときてしまうアカーシャ。
(ふふっ、やはり旦那様は素敵なのだ!)
その時だった。
明らかに木枯らしとは違う、低く重い風音が窓ガラスを叩いた。