軍団長クロベエの決意
リビングに小さな支配者が降臨してから数週間の時が流れた。
茹だるような暑さは遠のき、夜風には金木犀の匂いがほのかに香り、どこからか心落ち着くような虫の音が聞こえてくる。
そんな秋の夜長。
ベランダの手すりから満月を眺めながら、カラスの集団小烏丸の軍団長であるクロベエは一人、いや一羽で自身の身に起きたこと思い出していた。
「カァー……」
(なんとも奇妙な感覚だ……俺が人間と共生するのも悪くはないと感じるとは……)
いくら目を凝らそうとも、姿を捉えることができない。
それでも飢えから、仲間たちを救う為、ただひたすらにいい匂いのする何かを追いかけた。
すると、どういうことか、突如として何もない空間から、背中から翼を生やした人間の少女が現れたのである。
(フフッ、あの時、俺はあのお方を変な技術を身に着けた人間と思ったのだったな……)
だから、即座に仲間たちへ伝達し、取り囲んだ。
けれど……
(とんでもない圧だったな……今思い出しても、背筋が凍る……)
敵として、対峙した瞬間に空間を支配するほどの圧が放たれて――気が付いたら、アカーシャが作り出した血の牢に捕らえられていた。
そのあまりにも異質で異常な光景に、クロベエはブルッと身震いしてしまう。
(それなのに――)
夜空に浮かぶ満月から、千恵子たちのいるリビングの方へと目を向ける。
(……ごく一般的な人間の家族と変わらない……)
家主千恵子がソファーでお酒を飲み、膝の上にはアラクネ、その少女アカーシャはキッチンに立っていた。
とても幸せそうな満ち足りた顔で。
(いや、一般的ではないか……俺の言葉を理解しているように見えるしな……ん? ということは、この家で一番恐ろしいのは、千恵子殿ではないか……?)
あのアカーシャを叱ったり、その言動で一喜一憂される。アカーシャに劣るとはいえ、間違いなく強き者、アラクネを膝に乗せて平然としている。
千恵子と接すること、数週間。
クロベエは、山本家の真理(クロベエの考えでは)に触れようとしていた……その時、顔を真っ赤にした千恵子がベランダに繋がる窓を開けた。
☆☆☆
「クロベエくん、ちょっとこっちきなひゃい! ヒィック……」
眼鏡越しでもわかる鋭いジト目、プラス酒瓶を片手といった仕事終わりのおじさんも二度見するほどの迫力……つまりは――。
(……酔っているな……完全に)
ここに来て何度も目にしてきた光景。
刹那――クロベエの脳裏に疑問が生じる。
(本当に、この人が一番恐ろしいのか……?)
とてもじゃないが、凄みなんてない。
というか、どちらかというと、軽蔑してきた人間そのものでしかない。
虫の居所が悪い時に、動植物たちに当たり散らす存在。
その全てがそうではなかったが、結果として……自分たちの住処を潰したのだ。
開発という人間の都合で。
だというのに心の中では、また違った感情が渦巻いていた。
(ふふっ、嫌ではないな……)
そう、嫌ではない。
今だって自分の都合を押し付けてくる状況だというのに、嫌悪感がなかったのである。
あるのは、耳を傾けてもいい。時間を共有するのも悪くはない。そんな心地よい不思議な感覚。
「カァー……」
思わず声を漏らすクロベエ。
対して、なにも知らない千恵子はスリッパを履いて、
「ま、まぁ……ヒィック……そう警戒すんなっての……ヒック! 一緒に飲もうよ!」
などと、ブツブツ言いながら千鳥足で一歩、ニ歩、三歩とクロベエに近寄る。
警戒するなという方が無茶である。
しかしながら、この壁を感じさせない彼女の振る舞いこそが、クロベエの胸にあった人間に対してのシコリをゆっくりと確実に取り除いていった。
(仕方ない御仁だ……)
そう胸の中で呟くと、ベランダの手すりから千恵子の前に降りた。
「ニヒヒ〜♪ 話が通じるカラスだな〜!」
千恵子はだらしなく笑みを浮かべる。
「カー!」
「うん、ちょっと……待ってよ――」
そういうと千恵子は、振り返って、
「アカーシャ〜! 魚肉ソーセージちょーだーい!」
と叫んだ。
分かり合えないと思っていた。
一方的に奪われると考えてきた。
それはどれだけ優れた者であっても、逃れることのできない弱肉強食という自然界の摂理。
それを経験し、見聞きしてきた。
だというのに、圧倒的強者のアカーシャはおかしなことを提案してきて、この何の変哲もない人間千恵子は受け入れた。
(……これが幸せというものか……)
ふと右隣を見る。
そこには孵ったばかり子供たちと一緒に眠りにつく、妻のてるの姿があって、遠くの裏山には、アラクネの結界が張られた彼らの住処が約束通り用意されている。
(こんな穏やかな日々が訪れるとはな……)
奇跡としかいいようがない状況である。
クロベエが、幸せを噛み締めていると、千恵子が声を掛けてきた。
「ほい! どうぞ! お酒は無理だろうからさ……ヒィック……魚肉ソーセージで乾杯ね……って、ヒィック……みんな寝てたのか! ご、ごめん……」
「カー」
(大丈夫だ。熟睡しているからな)
「あはは……ありがとう。そう言って貰えると罪悪感は減るかな……」
――ペリペリ。
千恵子からもらった魚肉ソーセージを器用に脚を使い開けて、彼女が差し出したもう一本の魚肉ソーセージに当てた。
「かんぱ~い!」
「カァ!」
「あ、ごめん……静かにしないとだね」
酔いによって大きな声を上げてしまう千恵子に注意してひと齧り。
(旨いな……)
力での支配ではなく、お互いに理があるような相互関係。でも、利用し合うだけではなくて、そこにはちゃんとした絆がある。
リビングから聞こえる少女たち賑やかな声、目の前では酔っ払いが永遠と愚痴をこぼしている……今まであったなら、疎ましく微かに聞こえただけで、その場をあとにしただろう。
けれど、今やそのどれもがないと足りないと感じてしまう。
(どんなものでも変わることができるのかも知れんな……)
そんなことに思いを馳せていると、
「カァ……クゥ……」
後ろから眠りにつく妻、てるの寝息が微かに響いた。
(ふっ、幸せそうだな……)
彼らに関わった者たちは、穏やかな表情を浮かべて緩やかな時の流れ、心からの安堵できる場所を得る。
(大切にせねばな……この縁。何があろうとも――)
これが当たり前ではないと知っているからこそ、クロベエは心に誓ったのであった。




