石の王女が、存外に柔らか思考だった件について
婚姻してから始まる恋もある。
アンブロシウス大陸の内陸部にあるハバトムート王国では、夜から始まる婚姻の儀が二日間に渡って続く。ハバトムート王国のデミアン・オースティ公爵とキキッシュ王国のナリア・キキッシュ王女が夫婦となる。二人は、ハバトムート国王の許可を得て祭壇に拝礼する。並んで歩く僅かな時に、隣から明朗に呼び掛けられた。
「石が好きだとアンブロシウス大陸でも知れ渡っている。石の王女様。可愛い呼び名だね」
ナリアの評判を知っているなら、口さがない噂も耳に入っているだろう。敢えて傷つく言葉を投げてみる。
「石女とも呼ばれます。意味は御存じですよね」
子供が産めない女を呼ぶ、辛い言葉だ。ナリアは二十二歳になるまで、結婚の申し込みがなかった。
音高く柏手を打って、祭壇に頭を下げる。
「問題ないよ。石が好きだから、石女とは限らない。俺は気にしない。噂になるほど好きな物があると知って、ナリアに興味を持ったんだ」
名前を呼ばれて、ナリアは夫となったデミアンを見た。
軽快と軽薄の間で揺らぐような声だ。柔和な印象は、目から鼻筋にかけての線が優しく笑んでいるからだ。黄金に染まる意味に沈む夕陽に似た髪が、猩猩緋だ。デミアンは両親を亡くし、若くして公爵家を継承していた。
「石好きが嵩じて、お菓子もパンケーキよりカントゥチーニを勧められます」
隙のない所作で拝礼を続けながら、デミアンが笑んだ。柔らかく上がった口角に僅かな色香が滲む。ナリアよりも十三歳年上の為せる技だ。
「アーモンドの風味がする硬い焼き菓子だね。美味しくて直ぐに食べたくなっちゃうな。でも固い藁座よりクッションがナリアには似合う。ねえ、遠くから嫁いでくれたんだ。何かしたいことはあるかい?」
祭壇の前では、洞窟神殿から出向いた司祭が寿ぎの祈りを捧げている。
問われるままに口にしたのは、婚礼の儀が執り行られる王城に流れる穏やかな音楽の所為だろうか? 猩猩緋が軽やかに揺れた所為だろうか?
「真水が、欲しいです。石に必要なんです」
口を手で覆った時には、もう言葉は零れ落ちていた。
「ハバトムート王国の何処でも、真水がある。石に必要なら、俺がナリアの真水になる。必ず、用意する」
デミアンとなら、穏やかに石を積み上げるような落ち着いた結婚生活が出来るかもしれない。激流を転げる恋や、揺蕩う水に溺れる愛も知れるかもしれない。
ナリアは、伸ばされた手を取った。始まる結婚生活を想って、頬に熱が集まる。デミアンの声が耳朶に掛かる。
「銀髪も、潮風に鍛えられた肢体ブルーブラックの瞳も、ナリアは存外に柔らかい。きっと唇もだ」
祭壇に向き合い、誓いのキスを交わした。
―――☆彡☆彡☆彡―――
嫋やかな夕陽が差し込む柔らかな光を浴びて、目の前で赤髪が燃えるように揺れた。婚礼の儀を終えて、オースティン公爵家の邸に到着した。目の前には、見上げる階段が続いている。
嫁いだハバトムート王国で、最初の夜をナリア・オースティンとなって迎える。
春の初めは、陽が翳ると肌に触れる空気に冷たさがある。ナリアは、エスコートを受けて階段を一段を上がった。
トラウザーズを皺を伸ばしてながら、デミアンが夕陽を背に口角を上げているのが分かった。
「ナリアが二十二歳って、本当なのかな? 十三も年下とは思えないほど落ち着いている。十代の肌とは違って深みがある。やっぱり婚姻を結んで正解だった」
「はあ」
褒められたのか? 貶されたのか? 所々に挟まれる言葉でナリアの胸が傷つかないように、襟を掻き合わせた。
「海風に洗われた色の淡い銀髪も、零れそうな大きな灰色も、珊瑚のように薄く赤い唇も、ハバトムート王国では見ないよ。背も高くて、海で泳いだ身体は引き締まっている。年季の入った妻を娶ったんだ」
ナリアより頭一つ分大きなデミアンは、首を揺らして笑った。
まだ、夫となって僅かな時を共に過ごしただけだ。大胆過ぎる無礼な男だと判断するには、早いだろう。顔を上げると、翠玉の瞳が典雅な弧を描いた。デミアンは歩みを止めることなく、ナリアの手を引いていく。
「考えたんだけど、急いで、カトリーヌの所に行ってくるよ。婚礼の式典から二日も王城に籠ったいたから、心配が尽きないんだ」
顔から滑り落ちる笑みを、ナリアは懸命に張り付けた。だが愕然とした身体は、ナリアの思いに合わせて固まってしまう。胸が冷たくなってきた。
デミアンは、女の所に出向くと言っている。
「今からですか?」
「早いほうが良いだろう?」
やはり酷い男だった。うますぎる婚姻の話しには、裏があったのだ。
ナリアは、アンブロシウス大陸から船で一か月かかるキキッシュ王国の第一王女だった。母国は小さな島国で、大した産業もない。活火山を有し、様々な石を細々と輸出している。嫁ぐには若干年を重ね過ぎたナリアに、大国のハバトムート王国のオースティン公爵家からの婚姻が舞い込み、キキッシュ王国は沸き上がった。
今思えば、出来過ぎた話だった。会った覚えもないデミアンの元にナリアは出向き、到着した日に婚礼の儀に望んだ。
デミアンの見目の良さに、ナリアは驚き、幸せを嚙み締めた。キキッシュ王国の海で育った男達とは違う、洗練された所作に惹きつけられた。
ハクハクと口を動かしても、続く言葉は出て来なかった。正しい返事が分からない。言葉をなくしたまま、ナリアは婚礼の式典でもこの瞳を近くに見たと思った。翠玉に焦点を合わせる。
廻らない頭を、二回三回と横に振るった。出て来た断片を寄せ集めて、言葉を紡いだ。
「洞窟神殿の聖女のカトリーヌ様は、十七歳でしたわ。お若いですね」
ハバトムート王国には、聖女がいると知っていた。この世に魔法はなく、聖女も勿論、魔法は聖女も使えない。神聖なる洞窟で神に祈り、癒しの御業をハバトムート王国に行き渡らせる存在が聖女だ。聖女も婚姻できるとは知っていたが、まさか、赤子がいるとは知らなかった。
深く頷いて、デミアンは猩猩緋の髪を手櫛で掻き上げた。秀でた額が見えた。
あの額も知っている。婚礼の式典で、美しいと見惚れた場所だ。
「カトリーヌは三日前に赤子が生まれて、一人でいるんだよ。今が一番忙しい時だもんねえ。様子を見てくる。駿馬で駆ければ、半刻も掛からない」
増え続ける情報で、ナリアの頭が飽和する。零れたのは、思いがけないほど毅然とした声音だった。
国境にある洞窟神殿は、オースティン公爵家より海に近い場所だった。ならば、カトリーヌは出産や子育てに適した邸を与えられているのだろう。
「お世継ぎが、もういるのですね。お近くの場所で、行き来がし易いですわ」
「ナリアは常に平静かつ沈着だね。柔軟に現状を受け止めて、先を考えて夫に声を掛ける。石じゃなくて、海綿並みの吸収力だ。確かに嫡男で、目出度い話だ。オースティン公爵家の別邸にいるんだ」
階段の踊り場で、デミアンはナリアに向き合った。ナリアの肩に触れるかのように伸ばした手を、デミアンは拳を握って下におろした。
ナリアも一歩後ろに下がって、デミアンから距離を取る。これからカトリーヌに逢う前に、ナリアに触れないだけの誠実さがあると思い、薄い笑みが零れた。
「いってらっしゃいませ」
「寛容な妻に感謝する。ナリアも好きに過ごしていて欲しい。ハバトムート王国でしたいことがあるんだろう。ほら、婚礼の儀で沢山の話をしたから知っているよ。遠慮は要らない。この邸で、ナリアを妨げるものは何もない」
「覚えていてくださったんですね」
「真水への憧れの話は、興味が尽きなかった」
海に囲まれたキキッシュ王国は、井戸にも微かな潮が混じる。塩分のない真水は、貴重だった。
一昼夜に渡った婚礼の儀では、二人で食事をし、生い立ちや夢を語り合った。望みを聞かれて、ナリアは真水の話をした。今となっては、遠い昔の出来事のようだ。望みを叶えると誓ったデミアンが、背を向けた。
「行ってくる」
デミアンは脱兎のごとくの勢いで階段を駆け下って行った。
走り去る勢いにナリアが驚いて口を開いた時には、姿は見えなくなっていた。
世継ぎも本当の妻も要らない故に、反抗すらできない小国から形ばかりの嫁を迎えたのだと理解した。
胸に広がる冷たさは、海から離れた寂しさだとナリアは結論を出した。決して、夫の不実を詰らない。理解しがたいが、デミアンに確かに誠実さは見えた。
「私には、石あるから楽しく過ごせます。遠慮も要らないようです。驚きましたが、重荷もなくなって、すっきり――」
階段を上がりきると、扉の前にメイドが並んでいた。
ナリアより十歳は年嵩のメイドが進み出た。
「メイド長で、ナリア様付きになりましたシーナです。驚かれるのも無理はありませんわ。邸の使用人一同、こんなに早く出産があるとは思いませんでした。デミアン様も随分と心配しておいででした。何しろカトリーヌ様は初産です。お目出度いことが続きます」
出迎えたシーナの挨拶に、さらに驚愕した。聖女の出産は公然の事実で、邸の使用人は喜んでいる。偶々、婚礼の儀と出産が重なっただけのようだ。とりあえず、今は一人の赤子の存在が明らかとなったが、他にも婚外子がいるのかもしれない。ナリアは、オースティン公爵の正妻として事実を把握する必要があるだろう。あからさまに、他の愛人の存在を問い難い。濁した言葉を選ぶ。
「他にも、連なる子供がいるのでしょうか?」
部屋に入りながら、何気ない調子で聞いた。
「まあ、ナリア様はお優しいですわ。公爵家に関わるのは、カトリーヌ様の他にはおりません」
僅かにほっとして、シーナに促されるままに私室を見分した。居間の西側の扉はナリアだけの小さな寝室とバスルームに続いていた。東側には大きな衣裳部屋と夫婦の寝室があった。
東の扉を静かに扉を閉めた。夫婦の寝室を今夜は使う必要がないと分かって、胸が小さく凍り付いた。
「朝になりますと、南のバルコニーから庭が見えます。バルコニーには泉から水を引いております」
慌てて、ナリアはバルコニーに出た。バルコニーの半分を埋める形で、坪庭があった。木の柵で結われた場所に、低木や花が植えられて、石が積んであった。小さな水盤が重なるように三つ連なって、水が流れている。
「真水だわ。柔らかくて、手に馴染む水よ」
「デミアン様が拘ってお造りになりました。どうしてもバルコニーに、泉を作るのだと婚礼の儀の最中に伝令がありました。使用人一同が全力を尽くしました。ナリア様のお喜びになった姿を見て、シーナはやっと安心いたしました。公爵夫人を邸に迎え入れましたことは、この上ない喜びです」
シーナを筆頭に、メイドが首肯する。涙を浮かべるメイドもいた。デミアンの嫁捕りは、よほど難航したのだろう。カトリーヌの妊娠が判明した後なら、さらに条件は難しくなる。
礼を伝えるべきデミアンはいないが、大した問題ではない。この真水を存分に使うために、沢山の石をナリアはキキッシュ王国から持って来た。
「荷解きをします。シーナ、手伝ってください」
夜更けまで、荷解きをしてバルコニーの泉に石を浸して、ナリアは夜明け前に小さなベットへ入った。
階段の踊り場で別れて以来、デミアンは一週間、帰って来なかった。
―――☆彡☆彡☆彡―――
赤子を抱き上げて、小さな背を指で叩く。身体に似合わぬ大きなげっぷを聞いて、デミアンは笑いを零した。
「可愛いなあ、名前は決まったのかい?」
腕の中を覗き込んだカトリーヌが、首を振るった。
「まだです。デミアン様にお出で頂いて、助かりました。一人で赤子の世話は難しいです」
「初めての出産だったからなあ」
「まるで、自分が子を産んだかのようですね。デミアン様ったら」
互いに笑い合った。それほどの出来事だった。聖女カトリーヌの妊娠は、ハバトムート王国を挙げての慶事だ。洞窟神殿とも協力し、デミアンも万全を期して出産に備えた。
同じ頃、ハバトムート王国の念願だったキキッシュ王国との婚姻も進んでおり、デミアンは多忙を極めた。婚姻承諾の知らせと共に出向いたナリアの美しさに、デミアンは胸が震えた。
階段の踊り場で抱き締める腕を下げたのは、デミアンにとって最大の忍耐だった。あのまま手を伸ばしたら、ナリアの元を離れられなかった。
ナリアは察したように身を引いたが、後退って空いた二人の距離が、デミアンにはもどかしかった。
「本当にな。カトリーヌには辛い思いをさせて、すまない。婚礼の儀と重なったから、使用人も忙しいんだ。でも、ナリアは立派だ。俺たちの我が儘を受け入れてくれた」
「早く御礼を私からも伝えたいです。今から本邸に行きましょうか? 一週間も経ってしまいました」
「そうだな。ゆっくり馬車で移動すれば、昼前には着く。赤子の沐浴も済んだし、乳もたらふく飲んだ。今なら、行ける」
カトリーヌの手を取って、デミアンはナリアの顔を思い浮かべた。
婚礼の儀の間、ナリアは落ち着いた様子だった。母国から離れた気落ちもなく、デミアンは安堵していた。
「バルコニーの真水を見て、喜んだだろうな。赤子を見れば、もっと喜んでもらえる。でも真水を何に使うのかは、まだ聞いていないんだよ」
ナリアは、多くの嫁入り支度と共に輿入れした。重い荷物が多く、私室に運び入れるのは、困難を極めたと報告が来た。
「一人でも、ちゃんと待っていてくれる。ナリアは素晴らしい」
使用人の話は、分からないことばかりだったがナリアは沢山の石を私室に運び込んだらしい。
「真水を好んでいたが、石との関連は不明だ。帰ったら、教えてもらおう。カトリーヌもきっと仲良くなれる」
「楽しみです」
ゆっくり進めた馬車は、二刻をかけて邸に着いた。
邸には、多くの人がいた。裏門に向かって列ができ、領民の男たちが溢れている。それぞれに包丁やナイフを陽に翳して、盛んに議論をしていた。珍しい光景だった。
「騒がしいな。危ない刃物を持っている。ナリアが心配だよ。だが表門は静かだ。此処からなら、問題なく入れる」
カトリーヌと赤子を邸に招き入れた。初めて聞く多くの足音や息遣いに、赤子がむずかり出した。カトリーヌも少し青褪めていた。
シーナが駆け寄って来たが、カトリーヌと赤子の姿に、胸を撫で下ろしている。シーナの目には涙が見えた。
「休む場所がいる。大きなベットで、皆で横になる。シーナは、ナリアを呼んでくれ」
「ナリア様が――」
言い淀んだシーナを、赤子の泣き声が押し遣る。慌てたようにシーナが立ち去った。
カトリーヌを二階に招く。人がおらず、寝室は静まり返っていた。誰も使っていない大きなベットに、赤子を寝かせるとカトリーヌも心穏やかに目を閉じた。
一緒にベットに入り、デミアンは赤子に手を伸ばしそっと背を撫でた。カトリーヌの赤髪を撫でる。
「忙しかったな」
抗えず、デミアンも手足をベットに投げ出した。
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真水から引き揚げた石に、上から水を垂らして包丁の刃を当てた。
「砥石です。キキッシュ王国から持って参りました。これで刃物を研ぎます」
料理人の包丁は、六日間で百を超える数を研いだ。
「そんなに目の細かい石があるんだね。感心する。一度研いでもらったら、忘れられない切れ味だぜ。良い腕を持ってるな」
鳥のガラのように痩せた肉屋の店主は、二日と開けずにナリアの元に通っていた。
砥石は、堆積した石や砂が固まった石を伐り出して使う。キキッシュ王国の特産品だ。目の粗い砂岩からできた砥石で荒く刃を整える。仕上げは、粒子の細かい泥岩や粘板岩からできた砥石を使う。
火山が多いキキッシュ王国には、良質の泥岩と粘板岩があった。
「包丁には、さらりとした泥岩の砥石が合います」
華やかなドレスは着ていない。キキッシュ王国でも好んだドレープの少ないスカートとブラウス。汚れ防止のためにエプロンを身につけていた。腰まである銀髪を結い上げて、帽子の中に押し込んだ。
「公爵夫人とは気づかれない装いです。シーナも見逃していました」
小さく独り言を零した。
毎日、お昼前の一時間に、砥石を持って裏庭にある四阿へナリアは通っていた。公爵家の料理人たちの通路に近く、真水の泉も近かった。
「一日目は、この四阿に桶で水を運びましたが、翌日には樋が設えられて、水場が四阿にできました。公爵家の使用人は、仕事が早いです」
誰も、ナリアを詮索しなかった。公爵夫人とは疑われずに、キキッシュ王国からやって来た使用人だと理解されていた。
「もしかしたら、正体は露見しているのかも? でも、きっと使用人の皆さんは私をそっと、触れないでいるのね。ほったらかされた妻です」
一週間も、夫となったデミアンが帰って来ない。最初は朗らかだったシーナも、段々と気まずそうになっていた。
ナリアは極めて明るく振舞い、デミアンの不在を嘆かなかった。
「赤子が最優先です」
答えたナリアに、シーナが向けた目が痛ましそうで辛かった。
包丁を研ぎ終わり、ナリアは満足そうに砥石を陽に翳した。砥石を使いこなすには、澄んだ真水が必要だ。砥石は水を含んで、柔軟さを得る。油で研ぐ砥石もあるが、キキッシュ王国の砥石は真水に浸して水分を内包させ、水を垂らしながら刃を研ぎ出す。
「今日は、まだ仕事ができるか? 包丁以外も研げると見たぞ」
一人の騎士が、ナリアの前に剣を差し出した。
闇色の髪と吊り上がった瞳が精悍だった。鍛え抜かれた肢体には、聖騎士の装いの下から盛り上がる筋肉が分かる。
「レイピアですね。刃毀れがあります。お疲れさまでした」
ブレイドは細身で、先端が鋭く尖った刺突をするための片手で持つ剣だ。グリップには手に馴染むように革が巻かれ、しっかりと使い込んである。ガードからボンメルにかけて弧を描く装飾が施され、唐草の彫刻があった。
「本当に疲れたよ。デミアンって名前は分からないかな? この邸の主のオースティン公爵様は人使いが荒い。婚礼の儀の直前に、辺境までの朝駆けを命じたんだ。君は見ない顔だね。公爵夫人と同じキキッシュ王国の人のようだ」
答えずに、ナリアはレイピアを研ぎ出した。
尖った先端が、潰れて丸くなっている。四方から砂岩の砥石を当てて刃を整える。ブレイド全体が、鍛えられた固いレイピアだ。砂岩に負けない硬度がある。
「やや先端の刃を長く出しても良いでしょうか?」
「そうだな。鋭く尖らせるには、もう少し刃が長いほうが良い。任せる。存分に研ぎ出してくれ。俺は聖騎士のアンドレだ。デミアンとは長い付き合いだ。婚姻を楽しみにしていたが、赤子も生まれた。辺境は騒がしい。俺も多忙を極めた」
まるで当事者のように話すアンドレは、デミアンと親しい様子だ。
「聖女様の出産は、慶事ですね」
目を細めて、アンドレが顔を染めた。
「祝ってくれると嬉しい。でも、デミアンの婚礼の儀の方が大事だろう。願っていた嫁取りだ」
「願っていたんでしょうか?」
拗ねたような声は、研ぐ音に隠した。アンドレには聞こえていない。
「使用人から、柔軟で穏やかな公爵夫人だって聞いた。石女の評判とは違うらしい。デミアンは落ち着きがないから、丁度、似合いだ。カトリーヌとも仲良くなって欲しいよ」
安寧とは言い難い心持で、ナリアはレイピアを研いでいく。
堅い石のようになって欲しいと思うほど、凍った胸の中が脆くなる。砥石はナリア自身だと合点がいった。
「砥石は、己の身を削ってレイピアを輝かせます」
公爵夫人として身を削ることで、他が輝きを増していく。デミアンとカトリーヌは赤子を中心に、充実した生活を送るだろう。陽を浴びず、水の中でじっと存在さえ忘れられて、ナリアは石のように一週間を過ごした
「ハバトムート王国では、誰もが聖女様の出産を御存じなのですね」
「当たり前だろう。王城から発表があったんだ」
アンドレは憤慨して、ナリアに顔を寄せた。
「カトリーヌの愛らしさは、誰にも譲れないぞ。お前だって、レイピアを研ぎ終わったらカトリーヌと会えよ。俺が許可する」
砂岩の砥石に刃を当てて、仕上げをする。手元に、灰色に濁った水が溜まる。砂を削って、刃が整っていく。煌めきを帯びて、レイピアが鋭さを増した。
丁寧に水気を払って、刃に触れないように気を付けて布で水を拭った。
「仕上がりました。お代は要りません。まだ、研ぎの駆け出しです」
アンドレは不思議そうな顔をして、レイピアを受け取り財布を懐に戻した。
「素晴らしい出来だ。聖騎士の皆に広める。それを研ぎ賃にしてくれ」
立ち上がったアンドレの背に、ナリアは頭を下げた。
砥石を持って、私室に戻った。エプロンを取って帽子を脱ぐ。緩く纏めた髪を解くと、砥石をバルコニーの泉の近くで干した。
同じ砥石ばかりを使うと、石の消耗が激しい。キキッシュ王国へ気軽に帰ることはできない。石を取り寄せるのも困難だ。
ナリアは泉に手を浸して考えた。
「婚姻をこのまま続けて行くのを、デミアン様は望んでいるようですね。まあ、真水を使って砥石を有効に活用するのが私の希望だったので、不満はないです」
世継ぎを生む必要もなく、デミアンと共に暮らす日もない。
私室のソファで、ナリアは目を閉じた。
「潮風と海鳴りが聞こえない夜は、静か過ぎます」
寝返りを何度も打っても、深く眠れなかった。階段下で輝いた赤髪が、瞼の裏に焼き付いていた。
「猩猩緋の髪が燃えていました。あれは、もう思い出になってしまった」
隣室から、騒がしい笑い声がした。陽は西に動いている。少し長く眠ってしまった。
シーナが夫婦の寝室から顔を出し、破顔した。
「ナリア様、此処にお出でだったんですね。探しました。さあ、こちらへお出で下さい」
シーナは陽の高いうちから、夫婦の寝室の扉を開け放った。
穴の開くほど寝室に繋がる扉を見詰めた後で、ナリアは夫婦の寝室に渡った。
ベットに横たわるデミアンが見えた。慈しむ笑みだ。笑み零れた猩猩緋の髪が、ナリアを手招いた。
「ああ、ナリア。待たせてしまったな。お出で」
明るい声でデミアンが呼びかける。
さっと髪を撫でつけて、ブラウスの皺を伸ばした。
デミアンは、愛おしい瞳で傍らを指し示す。
ベットには、赤髪の美しい若い女が寝ていた。胸に赤子を抱いている。
「カトリーヌと赤子だ。まだ、名前が決まっていないんだ」
足を止めて、ベットから距離を取った。顔を背ける。何も見たくなかった。
「早く決めてあげてください。この寝室は、自由に使う場所だったんですね」
「ああ、大きなベットが必要だったんだよ。赤子を寝かしたかったんだ。何も心配はいらない。大切なナリアは、真水の中でいてくれるだけで十分だ。眠れているかい? 疲れは取れただろうか? あれ、少し痩せたね」
この一週間、ナリアは食事も一人で食べていた。
「俺は、カトリーヌと一緒に食べているからね。ナリアも好きな物を何でも言ってくれ。シーナが必要な物を直ぐにそろえるよ。赤子がやっと寝たんだよ。ぐずってしまったから、大きなベットで寝かそうと思って連れて来たんだ。初めて会うよね」
羽根布団から出した頭をカトリーヌが傾げた。まん丸い顔を、猩猩緋の髪が輪のように髪が覆ている。眩しいほど弾ける丸さだ。
「初めましてナリア様。赤子もおりますの。まだ、名前が決まっていません。でも不思議です、初めてお会いするのに、全てが馴染んでおります。ナリア様がいなかった時を思い出さないほど、親しみを感じます」
「同感だよ。ナリアって、ずっと一緒に育ったかのようだよね。本当に物分かりが良いし、穏やかだし、一緒にいて疲れない」
「はあ」
間抜けな返事になった。一緒に居た時間は、長くない。
瞬いたデミアンが、ナリアに笑い掛ける。
「ナリアはね、しっとりしている。カトリーヌとは大違いだよ。ほら、カトリーヌは弾ける感じだろう? 早く戻ってくると良いのになあ。カトリーヌが寂しがっている。パパを持っているんだ。ばぶう、起きちゃうよ」
喃語を巧みに操って、デミアンが赤子の頬を突いた。
「ナリア様って美しい。石の王女様の神々しさがある。私は聖女って名乗っても、祈るだけだし、力がないんです」
デミアンの相手なら、できると言っているのだろう。
決意を固めて、嫣然とナリアは顔を上げた。
「御安心ください。これからも、カトリーヌ様の所に泊まって下さいますよ。デミアン様には、感謝しています」
「お優しい話です。ハバトムート王国の全土に広めましょう。デミアン様とナリア様の慈愛の逸話となります」
シーナは感極まってハンカチで目を押さえている。
悲惨で凄惨な出来事の間違いだと質したい。此処で、ナリアがカトリーヌを赤子を夫婦の寝室から蹴り出しても、非難はされない。
側室でも愛妾でも、踏み込んではいけない場所がある。夫婦の寝室は、間違っても他人に貸し出す場所ではないはずだ。ベットを他の女と共有する趣味は、ナリアにはない。
「真水を頂き、深謝申し上げます。でも今は潮を恋しく思います」
「ナリア、聞き捨てならないよ。もう里心が付いたと聞こえる」
デミアンの言葉を受け流して、ナリアは続けた。
「一週間ではございましたが、様々に配慮を頂きました。もう、十分です。私は受け入れても、石のように黙っていません。御しやすく、石女の私を公爵夫人に望んだんですよね?」
小声で赤子を起こさないように言葉を重ねた。早口になって、捲し立てるのは立ち去りたい思いが勝るからだろう。
「俺は、ナリアだって大切だ。石女っていう自分を卑下する言い方はやめなさい。問題はないと告げたはずだ」
「デミアン様が大切になさっているのは、其処にいるカトリーヌ様と赤子です。私ではない。デミアン様は私以外の女を、夫婦の寝室の、しかもベットで休ませています。それが事実です」
「カトリーヌは家族だ」
デミアンの声が苦々しい。踏み込んではいけない場所まで、ナリアの発言が迫ったのだろう。だが、引き返す心算はない。
「では、私が失礼いたします。真水の中で、石も柔らかくなります。必要なら、もちろん身を削ります。しかし、もう夫婦の寝室にはお伺いしません。赤子の名前も、お早く決めて差し上げれば宜しいですわ。お邪魔しました。どうぞ、末永く、そこのベットをお使い下しませ」
「ナリア? ベットは一緒に使うよね?」
「名前はパパと決めます。あれ、ナリア様? 何処に行くんですか?」
「お待ちくださいませ。ナリア様、如何なさいましたか?」
シーナが目を剥いた。
「帰ったぞ!」
男の声が、夫婦の寝室に轟いた。レイピアを腰に携えた、闇色の髪をした聖騎士だった。ナリアを見て瞠目し、ベットを見て破顔した。
赤子が泣き出す。
全ての声を後ろに追いやって、ナリアは夫婦寝室から出て私室に鍵を閉めた。
輿入れして一週間で、ナリアはハバトムート王国では常識が異なると身に滲みた。
―――☆彡☆彡☆彡―――
夫婦の寝室に、重苦しい声が続いていた。
デミアンはベットの上で頭を抱えた。全てが上手くいっているはずだった。
「何をしてしまったんでしょうか?」
赤子を抱き上げたカトリーヌは首を傾げる。
ナリアの様子を見てきたシーナの顔には、深く眉間にしわが刻まれていた。
「俺にも分からない。なあ、信じられないけど、ナリアは怒っている」
「私室に籠っております。お返事もありません。食事も、実は、あまり食べていないのです。連日、ナリア様は何処かに出かけているようです」
シーナの言葉に項垂れる。何事も受け入れてくれたナリアが、今は反応してくれない。石のように冷たく、閉じている。
「何処に行っているのかしら? 邸はが騒がしかったです。男たちが溢れていました」
「ナリアは貞淑だ」
ナリアを疑う気持ちは一切ないが、カトリーヌの言い方が妙に気に障った。
アンドレが人の悪そうな笑みを浮かべて、デミアンの肩に手を置いた。
「ナリアがしていることは、俺は分かっている。女を見る目は確かだ」
手を叩き落とす。
「何だと! シーナだって掴んでいないぞ。早く教えろ」
夫を差し置いて、自慢げに話すアンドレを苦々しく見詰めた。
アンドレがレイピアを掲げた。ブレイドから続く切っ先が照り輝き、常よりも尖っている。辺境から帰って来たとは思えないほどの美しさだ。
「素晴らしいな」
「俺の自慢の仕上がりだ。オースティン公爵家が新しい研師を雇ったと思った。帽子を被ってエプロンをした女で、素晴らしいキキッシュ王国の砥石を使いこなしていた。邸の北にある畦の四阿で、毎日研いでいる。四阿には真水が引いてあった」
「刃物を持った男たちは、料理人に肉屋に、八百屋もいた。納得ね」
シーナは唇を噛んでいる。ナリアを見つけられなかったのが、悔しいのだろう。
「ナリアは砥石を持って来たんだな。だから、真水が必要だった。でも、真水も用意したなら、何を考えているんだろうか? 夫婦の寝室に拘って、ベットは使わない。もっと、硬い所で寝るのだろうか? 石の上とか?」
高慢な様子はなかった。穏やかで、話をすぐに受け入れていた。浅はかでもなく、言葉は慎重さを感じさせる。
「ハバトムート王国とキキッシュ王国では、習俗も生活も異なります。戸惑っておいでなのでしょう。でも、さっぱり原因がわかりません」
「デミアンが起こらせたんだろう。可愛いカトリーヌは誰からも憎まれない。なあ、何があったのか思い出してみろよ」
カトリーヌを抱き寄せたアンドレが、デミアンを促した。
「婚礼の儀は、楽しかったって言ってましたよね。ナリア様が真水を望んで、デミアン様はバルコニーに真水を引いたんですよ」
楽しそうに告げるカトリーヌに頷く。
「婚礼の儀から帰って、ナリアはバルコニーを喜んだって聞いた」
頷いていたアンドレが、驚いたように顔を上げた。
「一緒に見なかったのか?」
「本当に残念だった。アンドレと約束しただろう? 辺境に行くお前の代わりに、婚礼の儀が終わったら、赤子の世話をして、産後のカトリーヌを大切にした」
「確かに頼んだ」
友人の頼みを、無下にはできない。幸せな場所から断腸の気持ちで辺境に向かったアンドレを思い、デミアンも幸せな場所から遠ざかった。階段を上がり切ったら、産後のカトリーヌの苦労も生まれたばかりの赤子の大変さも、いとも簡単に忘れ去っただろう。
「早く来てくださって、助かりました。婚礼の儀があったし、アンドレは辺境だし、使用人だけでは頼りなかった」
「早くって、おい、待てよ。初夜は過ごしたんだよな」
アンドレの声が上擦る。
「まだですよね?」
カトリーヌの問い掛けに、気まずさと照れを感じてデミアンは言い淀んだ。
「ああ、だって、無理だったんだよ。婚姻の儀が終わって、部屋に行く前に、ナリアとは別れた」
顎が落ちたアンドレが、浅い呼吸を繰り返す。
「今も俺たちは何故に、デミアンとナリアの夫婦の寝室にいるんだよ? 此処は、夫婦以外が入るのを憚る場所だろ。赤子を寝かす必要はあったが、場所は考慮すべきだろう」
「でもなあ、カトリーヌだぞ。家族だ」
何が問題なのか分からずに、デミアンとカトリーヌはベットの中で見つめ合って首を傾げた。
「カトリーヌのことは、御存じなのか? 正しく知っているのか?」
「年も聖女だってことも知っていた。ナリアは勉強家だよ。祭壇での所作も完璧だった。全てを把握して、輿入れしているはずだ。知らなかったら、ええ?」
デミアンは、ベットから飛び降りた。
「とんでもない話だ。ナリアはキキッシュ王国から来たんだ。ハバトムート王国の習俗には、慣れていない。アンブロシウス大陸で今は重婚を認めていない。だが二十年前は違う。婚外子が誰かを、分かっていない、嘘だろう」
三人は頷いた。
「時間がない。取り戻せよ。俺たちは出て行く。さあ、カトリーヌ」
「俺は、不実な夫で終わる心算はない」
デミアンはナリアの部屋に向かった。
―――☆彡☆彡☆彡―――
バルコニーの真水から、石を引き上げる。滑らかな断面をナリアは掌に押し当てた。火照った考えが冷やされていく。
「言い過ぎてしまったわ」
鍵が開いて、扉が開かれた。デミアンなら、ナリアの私室にの鍵も簡単に使える。この邸で閉じこもることはできない。
「誰が夫婦の寝室を使おうと、それがハバトムート王国の流儀なら従います。まだ無理ですが、そのうちに慣れると思います」
砥石が身を削るように、ナリアの心も形を変えるほど研いだら、慣れる時が訪れるかもしれない。
苦笑が零れた。赤子を石女が抱けないように、ナリアはあのベットに慣れる時は来ない。
デミアンが真水に手を浸す。
「冷たい水だ。ずっと浸していたら、ナリアも石も凍えてしまう。春もまだ風が冷たい。夫婦の寝室を使うのは、夫婦だけだ。ハバトムート王国でも常識だ。今、ベットを入れ替えている。部屋も掃除している。ナリアが望むなら、違う場所に部屋を用意する」
バルコニーは気に入っている。私室も居心地が良い。全てを明け渡すのは、辛いと思った。胸の中が凍りついていく。
「私はこの邸から出て行くのですか?」
デミアンは少しだけ笑った。濡れた手で、ナリアの頬を撫でた。雫が顎に滴る。
「泣くなよ。ナリアが全てを受け入れてくれるから、分かっていると思い込んだ。キキッシュ王国の水には、僅かな潮が混じる。ハバトムート王国の水は真水だ。互いの知っていることを擦り合わせる努力を、俺は怠った。ナリアに甘えていたんだ」
「祭壇の前で誓い合った夫婦ですから、甘えもあります」
夕陽がバルコニーに差し込んでいる。猩猩緋が燃え上がる。翠玉の瞳が描く弧が、切なげに歪んだ。デミアンは歩みを止めることなく、ナリアの手を引いていく。階段を下り切った。
デミアンが一段上がる。
「此処から、やり直す。カトリーヌは本当の家族だ」
「受け入れています」
引かれて、ナリアも階段を上がる。
「正しく知って欲しい。オースティン公爵家の婚外子だったんだ」
俯いたまま、応じた。
「赤子のことですね」
「違うよ。カトリーヌは異母妹で、赤子の父親はアンドレだ。俺の妻はナリア唯一人だ。俺たちにも赤子は来るかもしれない。来なかったら、その時に考える。俺は不実な夫になりたくない。正しく理解して欲しい」
立ち止まったナリアが蹲る前に、デミアンが強く肩を抱き締めた。
「すまなかった。初夜をすっぽかした。しなやかな肢体をまだ愛でていない」
耳朶に触れるデミアンの声が熱い。
「赤子を案じただけです」
デミアンの掌が、優しく髪を撫でる。
「新妻に一人寝を強いた。美しい銀髪にキスをしていないよ」
「産後のカトリーヌ様を一人にできません。大切な聖女様で、妹です」
横抱きに抱き上げて、デミアンが顔を寄せた。
「真水の他に、もっと欲しい物はないのかい?」
階段をゆっくりとした足取りで登る。
「穏やかに石を積み上げる結婚生活を望んでいます」
「長い間で、作っていく。もっと欲しがってくれ」
頷いた。
「激流を転げる恋もしてみたいです」
「相手は、俺だけだよ」
「揺蕩う水に溺れる愛も必要です」
「俺はナリアが砥石を使っている姿もしてない、悔しいなあ、アンドレは見たと自慢した。ナリアとも家族になるんだ。存外に身体も柔らかいね」
胸に顔を埋めて、ナリアは小さく息を吐いた。
「確かめてください」
息を飲んだデミアンが、階段を駆け上がった。
【了】
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