6話:ジュースよりビールがいい
「香織、スプーン借りていい?」
「ダメって言ったら?」
「その場合は……諦めて、手でいくかな」
「いくなバカ。獣か」
コンビニでつけてもらった木製のスプーンを一つ、京介に渡しながら、俺は隣のソファに座った。部屋のカーテンは、日が落ちてきたため閉め切って、蛍光灯が室内を明るく照らしている。俺的には、あまり部屋が明るいと、落ち着かないんだが、しかし京助と二人で室内にいて、明かりを俺のために暗くするのは申し訳ない。それに、なんだか照れる。
「それにしても」
京助は、アイスを食べながら、俺の方に身体ごと向き直る。その様子が、いつもと違うことを察して、俺もついつい姿勢を正してしまう。
「な、なんだよ」
「いや、大した話じゃないんだけど、なんで、急に登校するつもりになったのかなあって。今朝から気になってたんだけど、なかなか聞けなくてさ」
「それは……」
言い淀む俺を見て、しかし京助はすぐに顔の前で手を振った。
「ごめん、言いにくいことだったら、言わなくてもいいんだぞ。ただ、ちょっと気になっただけだし」
来てくれただけで、俺は嬉しいよ。そう言ってくれたのを聞いて、俺は安心した。もし、京助に問い正されていたら、俺はきっと上手く嘘がつけていなかっただろう。ただでさえ、長年の付き合いで、お互いの嘘なんかはバレやすい。かといって、まさか京助に「実はインキュバスの人違いで女の子になりました」なんて言えるわけもないし、そんなことを言ったらきっと、頭がどうかしたか、あるいはアニメに影響を受けたかと思われるのが関の山だろう。何せ、京助の中では俺が女であるということが常識として根付いてしまっているのだから。
「……ごめん、今はまだ、言えない」
しかし、京助に嘘をつくのは俺にとっても心苦しい。本当は、それこそ京助に全て打ち明けて、相談したい。それこそ誰にも相談できず、俺はこの先も、この体と心の性別の不一致を抱えて生きていくのだ。それがどんなに恐ろしく感じるか。勿論、かわいく生まれ変われたのはとても幸いで恵まれたことだと思うし、学校にいくきっかけにもなったのは、運がよかったと思う。良い転機が訪れたんだと。だが、それ以上に不安なことだってあるし、それを京助にすら相談できず、黙っていないといけない。挙句の果てに、京助に今みたいに気を遣わせてしまって。そう思うと、とても胸が苦しくなる。
いや、だめだ。
「京助」
ソファに座ったまま、自分のズボンを固く掴みながら、俺は次の言葉を一生懸命に探す。どうすれば京助に信じてもらえるか。
「そのきっかけについてなんだけど」
どうすれば京助にわかってもらえるか。肩を丸め、歯を食いしばる。言葉を途切れ途切れに紡ぐ度、信じてもらえなかったらどうしようという気持ちと、一番信頼のおける人に話さなくてどうなるんだと思う気持ちとがぶつかり合って、せめぎ合う。
「……実はっ!」
だが、言わなければならない。苦しくても、辛くても、黙っていたら、京助に対して失礼だと思ったから。
しかし。
「いい。もう何も言うな
俺が顔を上げると同時に、自分の元へと俺を抱き寄せた。暖かく、大きな手が背中を支えてくれる。咄嗟のことだったので、俺はなにか怒られるのか、それともなにか言われるのか、と少し身構えていたが、まさか抱き寄せられるとは想像だにしていなかった。呆気に取られたまま、京助の腕の中でしばらく過ごす。
そうしていると、京助は俺の頭に手をやり、そして優しく撫で始める。それと同時に、言葉も聞こえた。
「お前がどういった経緯で学校に来ようと思ったのかとか、俺は無理やり聞くつもりもないし、ましてや、話してくれないからって傷つくほど、やわな男じゃない。……だから、そんな顔するな」
言って、京助が俺を抱きしめる腕に力をこめる。俺はそこで初めて、自分が一筋の涙を流していることに気づいた。どうやら、俺はいつの間にか泣いてしまっていたらしい。正直、泣くほどのストレスなどは感じていないし、それほど追い詰められていたとも思わなかった。だが、こうして京助にやさしく抱きしめられている今この瞬間こそ、泣いてしまいそうだった。それが一体どうしてなのかは、俺自身にもわからない。だが、何も聞かずに許してくれる。これほどありがたいことはないと、この時痛感した。
話したいけど話せない。話さないのは、何も京助に対して、言っても信じてもらえないからとか、そういう不信感などではない。ただ、なぜ話したくないのか、その大きな理由は、俺自身もまだ、心の整理が付いていないからだろうか。よくわからなかった。ただ、今はこうして、いつまでも京助の腕の中で、過ごしたい。そう思うだけである。
「……ごめんなさい」
「ん、どうして謝るんだよ」
俺は下ろしていた腕を、京助の体に回す。京助の顔は見えなかったが、抱きしめられている腕に少し力がこもった。
「……わからない。でも、京助に、わたし、何も言えずに……幼馴染なのに、友達なのに……」
大好き、なのに。
何も伝えられない、自分の弱さが、嫌いだった。それをせめて、少しでも申し訳なく思う気持ちが伝わればと思ったからなのか、どうかはわからない。ただ、俺はもっと強く京助に抱きしめて欲しかった。さみしかった。
その気持ちが通じたのか、京助は腕を回しなおすと、今一度、強く抱きしめた。その力は、男の力で、それ以上に、京助の力だった。昔からあこがれている、優しくて、力強い、京助。俺はただ、しばらくの間、京助の肩で声を殺して泣いていた。
一体、どれくらいそうしていただろう。気が付くと、俺は疲れて眠ってしまっていたらしい。ソファに横向きに寝転がっていた。しかし、頭は何かに置かれている。腫れぼったい瞼を開けて、周りを見渡すと、京助が頭上から声をかけてきた。
「起きたか、おはよ」
「おは、よ……ごっ、ごめん!」
どうやら、膝枕をされていたらしい。重かっただろう。俺は咄嗟に飛び起きようと身体に力をかけたが、しかしすぐ、京助に肩をやさしく抑えられた。
「まだ寝ててもいいから」
「で、でも、重いし……」
「いや、別に重くは」
言いかけて、京助は口を閉ざした。
「い、いや、脳みそが詰まってるから、重くないって言ったら失礼になるな。うん、重い」
「じゃあ起きる」
「だから起きるなって」
「だめ、最近太ったから」
「頭が?!」
ついついふざけてしまったが、一番の理由は、ただ京助に膝枕をされているというのがあまりにも恥ずかしすぎる。これに尽きる。それこそ、男同士でも誰かに膝枕をしてもらうなんて、俺は恥ずかしすぎてとてもじゃないが、遠慮したいくらいだ。それが京助ともなれば尚更。そのため、何度か不意を突いて起き上がろうとしたのだが、しかしすべて京助によって阻止されてしまった。
「……いじわる」
「そんないちいち気遣わなくても、しんどい時くらい、膝枕させてくれよ」
そういって、京助は照れ臭そうに笑う。照れくさいのはこっちなんだがな。……我ながら変な感性だ。パンツを見られてもどうとも思わないが、こうして彼女みたいに扱われると、急に照れ臭くなる。一方の京助が、特に平気そうにこういうことをしてくるのも、なんだか癪に障るし。
「……わかった」
どうせ起き上がろうとしても、阻止されるんだ。逆らえないな。観念して、俺は京助の太ももに頭を預けた。上を見ると、京助と目が合う。そして、優しく微笑んできた。その顔に、思わず俺は顔をテレビの方へ背けてしまう。
「ちょ、なんでそっち向くんだよ」
「うるさい、知らない」
間違っても、こんな顔をしているところを、京助に見られるわけにはいかない。こんな、だらしなくにやけた顔なんて。
それからしばらくの間、京助は特に何かをするでもなく、強いて言えば俺の頭を撫でたりしながら、ひたすら膝枕をしていた。そうして、だいたい15分くらいしただろうか。京助は、頭を撫でる手を不意に退けた。
それが急だったので、俺は思わず、京助の方へと向き直る。どうやら、腕時計で時間を確認していたらしい。いつの間にか、時計の針は夜の9時20分。寝るまでにはまだまだ時間があるが、かといって、このまま部屋に居続けるのもどうにも居心地が悪い。特に、京助にあんな泣いている姿を見せたり、膝枕をされたり。そういった負い目から、俺は身体を起こした。流石に京助も、今度は抵抗せず、背中を支えて起こしてくれた。
そういえば、最近は行っていなかったが、たまに夜の散歩に興じるのも悪くない。一度、外の空気でも吸ってこよう。俺はそう思い、京助に伝えた。
「ちょっと、外出てくる」
そう何の気なしに伝えたのだが、しかし京助は目を剥いて驚いた。
「……信じられない、あの香織が、自分から外に出ようなんて……」
わざとらしい顔をする京助の太ももを、俺はつねる。
「いたたた! 冗談! 冗談だって!」
手を離した後も、京助はしばらく太ももを手で擦っていたが、やがて、本当に心配そうな顔でこちらを見つめてきた。
「でも、こんな夜に女の子が一人で外に出たら、なんかあったとき大変だよ?」
それを言われて、大丈夫と一蹴しようかと思った。それこそ、眠りについた悪魔も、夜行性ならそろそろ目覚める頃合いだろう。だが、今の俺はその悪魔が作った、本当にチート級の美少女である。……決して自画自賛ではない。客観的事実だ。そんなかわいい子が夜道を一人。俺が京助の立場だったとしても、確かに止めるだろう。
「……それもそうか」
「だから、俺もついて行きたいんですが、よろしいでしょうか?」
そういって、京助はソファから立ち上がる。どうやら、外の空気を吸いたいのは同じらしい。あるいは、ただ気を使ってくれているだけなのか。
「ま、まあ、それは構わないけど」
「よかった、ありがと!」
それから、二人で夜道を歩き始めた。……思ったんだけど、せっかく家を出たんだから、着替えくらい取りにに行けばいいのに。もしかして気を使ってくれてるのかな。……帰りに言ってみよう。
それと、いくら俺でも、さすがに夜道をだるだるの部屋着で歩く気にはなれなかったので、流石にジーンズと、大きめの白いシャツに着替える。これは元々、俺が男だった時、確か買っていたものだった。しかし、いくら大きめのシャツといえど、所詮は男物。
当然、胸囲が合うわけもなく、胸に生地が持っていかれ、少しでも腕を上げたりすれば、へそが見えかねないことになっていた。というか、結構白Tだけでもエッチな見た目になるな、これ。男であったときは気にしていなかったが、少々胸元が空きすぎかもしれない。……新しい服でも買わないとな。
ちょうど明日、学校も休みだし、洋服を買いに出かけるのも悪くないかもしれない。そんな話を、歩きながら京助にした。
「え、じゃあ俺も着いて行っていい? 俺も丁度、夏物が欲しくなってたんだよね」
「まあいいけど……そしたら案内役と荷物持ちでも頼もうかな」
「お、コキ使うつもり満々で潔いよね」
そう言って、京助は手をやや強く握ってきた。
「いたた、力強いなあもう。ほら、公園見えてきたよ。ブランコでもして遊んでく?」
散歩の目的地には、家から少し離れたところにある、公園を選択した。勿論、公園に言って何かをするわけでも、ましてやブランコをするわけでもない。そんな年じゃないし。ただ、公園にはベンチがあったのだ。気分を晴らすには丁度良い。二人で中へ入り、俺がベンチに座ろうとした時、、京助は思いついたように歩き出した。
「ちょっと待っててね」
「ん? うん」
どうしたんだろう。そんなことを考えながら、先に腰かけた。辺りの草花の匂いが、どこか懐かしさを感じさせる。俺は思わず、ベンチにもたれ掛かって、首を空に向けた。風が、泣き腫らした目を、少し撫でて吹いていく。そのまま深呼吸をして、目を閉じていると、すぐに京助の足音が返ってきた。身体を起こすと、ちょうど隣に座って、俺に缶ジュースを差し出してくる。
「水分、取っといたほうがいいよ」
泣いてたから。とは言わない辺り、気を使ってくれているのだろうか。俺はありがたく、受け取った。
「ジュースよりビールのほうがいい」
「おっさんかよ。つべこべ言わずに飲め」
その口調は、かつて毎日のように遊んでいた時の京助のそれへと、徐々に戻りつつあった。
それから、明日の集合時間と行き先を決め、約束を取り付けた。
今年の夏は、夜も蒸し暑く、歩いているだけで体にじんわりと纏わりつく湿気と熱気のせいで、汗ばむほどだった。それは、はぐれないように、との苦しい言い訳で繋いだ二人の手にも、じっとりとにじんでいた。