タレソカレ
夕方の駅、
ベンチで項垂れる男。
そこは大きな世界のちいさな片隅。
そして、ただの日常。
何時からだろう、帰りたくないと思うようになったのは。このベンチで何本かの電車を見送り、それでもまだこの重い腰は上がらない。
「…はぁ…」
声とも音ともつかないものが、口から出ていく。太陽は傾き、オレンジ色に染まる。この光景は…あまり好きじゃない。色が、わからなくなるから。わからなくなっているのは、色だけなのか。もしかして自分も…。
「だぁっ!…」
衣を決して立ち上がると、気が付かなかった。一人分空いた隣に女性が座っていて、俺の出した声に驚いて目があった。帰宅ラッシュもとうに終わっていて、ホームにはまばらに人がいるだけだったから、まさかこんな近くに座ってるとは思わなかった。
「す…すいません…」
いちいち立ち上がるだけで、掛け声が必要なことが少し恥ずかしくなって逃げるように、電車に乗り込んだ。
また、なくなってる。これが俺が家に帰りたくない理由。部屋から物が少しずつなくなってる。ガキの頃から収集癖があったから、俺の部屋には絶対に必要なものというよりは趣味趣向で集めたものがそれなりにあった。それが一度、外出すると知らない間に処分されている。それについて問いただすことも、止めた。ただ早く出ていけというアピールなのだろう。同じ家に住んではいるが、もう何年もまともに会話すらしていない。しなくてもなんの不自由もないらかだ。
外出すれば仕事はあるし、帰ってこなくてもいいように一人暮らしができればいいのだか、なんの資格もない高卒の転職を繰り返す奴に貯蓄などあるわけもなく、寄生虫のような生活を続けている自分の先行きの不透明さにため息しか出なかった。
始発の電車で仕事に向かい、早ければ昼前には終わり底辺の金額で暮らす。友人もいない、恋人などできるはずもない。
「…何の為に、生きてんだろ…」
声に出てると思ってなかった。
「それ、口に出したらダメですよ?」
彼女はクスクスと笑いながら言った。
「あ、昨日の…」
清潔感のあるグレーのジャケットにタイトスカート、白いブラウス。長い髪は後ろで纏められていた。化粧は薄めだが、それなりの綺麗な人だ。
「もうお仕事終わりですか?」
「まあ…。」
せっかく話し掛けてもらってるのに、なんでこんな受け答えしか出来ないのか。
「楽しかったですか?」
仕事を楽しいと感じたことはない。ただの金を貰う手段。
「いえ、特には…」
「ここ、好きなんですか?」
ここ、とはこのベンチのことだろうか。別に、好きだから座ってるわけじゃない。というか、なんで、この人こんな質問攻めなんだ?
「好きとかじゃ、ないです」
俺が、ここにいるのは…。
「だって、ずっといるじゃないですか。なにか理由があるのかなって」
理由がなきゃ、いられないって訳じゃないだろう。
「別にいいじゃないですか、俺がどこにいようと」
ちょっとイライラしてきた。なんだこの人。少し美人だからって俺のことからかってんのか?
「いいわけ、ないじゃないですか」
彼女はニコニコしなから言った。
「だって、アナタ、死んでるのに」
ん?今なんて言った?
「いや、あの、はい?」
混乱してる。俺が死んでるってなんの冗談だよ。
「あーやっぱり覚えてないんだー。人のこと巻き添えにして電車に飛び込んだくせに」
彼女の顔が怒りで醜く歪む。死んだ?何時…。
話によると俺は帰宅ラッシュのなか滑り込んできた電車に飛び込んだ。その時、彼女も弾みで落ちてしまったとのことだった。
ここにいたいわけじゃなくて、ここに縛られていた。しょうもない人生の終わり、最期に見た景色、黄昏色の世界。
「ははは、笑える…」
絶望なんかしなくたって、簡単に終わらせることができるなら、もう少し、しがみついておけばよかった。
オレハ、モウダレデモナイ。
ソウ、アナタハ、ダレデスカ…。
当たり前の明日が、用意されていると思っていた日常のたった一手で覆る世界。緩慢と生きていた男の呆気ない幕切れ。
ただ、それだけの物語。