表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説新人賞に応募する話

作者: quiet


 どうしてこんなことになってしまったのかと考えてみても、決定的な事件なんて僕の人生には一度も発生したことがなくて、つまり僕は生まれながらにして無職になって早死にする運命だったのではないかと思ってしまう。




 別にまだ草木は眠っていないだろうけど、健康的な生活を送っている人はそろそろベッドに入っているだろう頃、深夜〇時。


 僕はベッドの上に寝転がりながら、動画サイトでバーチャルなキャラクターがゲームの配信をしているのを、かれこれ四時間くらい眺めていた。この配信を眺める前はベッドの上でSNSをぼんやり眺めていた。四時間くらい。さらにその前はベッドの上でスマホの無料アプリゲームをやっていた。三時間くらい。今日(昨日)起きたのは大体一三時くらいのことで、つまり僕は今日(昨日)目が覚めてから一度もベッドの上から起き上がらないままに、日付変更の瞬間を迎えてしまったのである。


 いい加減、なんとかしなくてはならない。

 と、心の中で呟く声は、残念ながらどこまでも他人事みたいな調子で聴こえてきてしまった。


 二五歳、無職。

 自分のことなのだけれど、まったく自分のこととは思えない。


「なんでかなあ」


 ひとりぐらしも長くなってくるとひとりごとも堂に入ったものになってくる。今の「なんでかなあ」には、なんで自分ってこんなに危機感ないのかなあ、という意味と、なんでこんなことになっちゃったかなあ、のふたつの意味が込められている。ダブルミーニングだ。


 ひとつめの意味でのなんでかなあには、残念ながらこれまで一度も明確な答えを出せたことがない。性格なんだろうか。単にそういう。それともオタクだからなんだろうか。ゲームやらアニメやら小説やらでキャラクターの人生を見過ぎたせいで、自分のそれについても相対化してしまってあまり大したこととして捉えられらなくなっているんだろうか。それとも普通に現実逃避しているんだろうか。無意識のうちに。


 ふたつめの意味でのなんでかなあに答えるには、まず自分の人生について見つめ直すことから始めるのが良いとされている(誰によって?)。二五年前、地球に生を受けました。普通の家庭で普通に育って(と、子どもの頃は考えていたけれど、友人知人の話を聴いたりしているとむしろ良い家庭で良く育ったのではないかと思い直すことも増えた。少なくとも僕は両親から物を投げつけられたり、人間の出来損ないだとか罵られたことはない)、小中高大に通って(よくドラマとかで語られがちなスクールカーストみたいなものを僕は結局最後まで見ることがなかった。たまたまそういうのが存在しない学校にばかり通っていたのか、それとも僕がそういうものを感知する能力に欠けているだけなのかと訊かれれば、おそらく後者の方が可能性が高いですねと言わざるを得ない)、なんとなく周りに流されて就職して、そしてなんとなく周りに流されるままに過ごすことができずにある日会社を辞めてしまった。そしてなんとなく転職活動をする気も起きなくてこんな風に過ごしている。以上のことを前提にしてなんでかなあという問いに答えるとするなら、いやどう考えても僕がダメ人間だからだろとしか答えようがない。生まれながらのダメ人間。ダメダメダメダメダメ人間。環境の良さや人生の難易度だけでは誤魔化しきれなかったナチュラルボーンのダメ人間。


 結論が出たところで考えるのをやめる。これからどれだけ考え込み続けたところで、無限に自分を責める言葉が湧いて出てくるだけだし、そういうことをしていると精神を病む。僕の周りにいた精神を病んだ人たちは、みんな共通して自分を責めがちだった。人の振り見て我が振り直せということで、僕は自分を責めない。甘やかす。甘やかし続けた結果がこれ。二五歳、ニート。それでいいのだ。いや、全然よくないが(一般的には)。


 イヤホンから聴こえてくる声と、暗い部屋(起きてから一歩も動いていないので当然部屋の電気も点いていないのだ!)の中でひとり輝くスマートフォンが表示するゲーム画面と、その右下に映るバーチャルキャラクターの姿に集中する。


『いけるいける……。僕はやれるできるゲームが上手でプロゲーマー絶対一発今度こそいける』


 僕が最近ずっと視聴している、僕っ子美少女バーチャル配信者(ちなみにバーチャル配信者というのは何かというと、動画サイトで配信を行うバーチャルなキャラクターのことだ。アニメみたいな。そのまんまだね)が必死に自己暗示をかけている。動画タイトルの頭には『【クリアするまで終われない!】』『【鬼畜2Dアクション耐久実況】』の文字が並んでいる。その文字が示すとおり鬼のような難易度の2D横スクロールアクションゲームをクリアするまで実況配信し続けるという企画で(割と定番企画で、他の配信者がやっているのを少なくとも五つは見た)、今はかれこれ二時間以上詰まり続けている難所の手前に来ていた。


『いくぞ!』


 と、彼女は目をカッと開いて、操作キャラを溶岩だらけのフィールドに突っ込ませていく。徐々に細くなっていく足場が三つ。一歩目、着地成功。『よし!』二歩目、着地成功。『いける!』三歩目、着地成功。『いった!』四歩目。


 ものすごい速度で突っ込んできた敵キャラクターに空中で衝突した。


「あはは」

『…………は?』


 普通に笑ってしまう。その一方で、配信者の彼女は呆然とした顔をしている(他のバーチャル配信者に比べても一層表情豊かなのがお気に入りポイントだ)。


『…………は? え? 何?』


 配信画面上に、視聴者からのコメントが怒涛のように流れてくる。『草』『絶対やると思った』『こんなに綺麗に引っかかるやつおる?』『かわいい』そして、


『もうやだーーーー!!!』


 彼女は叫んだ。この配信が始まってから三回目のもうやだ、だった。まだたった三回しか言ってないのですごく忍耐力があると思う。


『もうやなんだけど! なに!? このク……ゲーム!』


 コメントが流れる。『クソゲーって言うのこらえられてえらい』


『なんで僕は土曜の真夜中にこんなゲームしながらひとりっきりでパソコンに向かって話しかけなきゃいけないんだよ!』


 彼女はそう叫んだ。イヤホンの中で。


 僕はもう一度、あはは、と笑う。そして土曜の夜にゲームしながらひとりっきりでパソコンに向かって話しかけてる人(実際には四桁の視聴者がいる)よりも、その人の姿をインターネットを通して土曜だろうが平日だろうが関係なくスマホににやにや笑いかけながらただ見てるだけの僕の方が圧倒的に終わってるよ、と思う。心の中でマウントを取る。僕の圧勝だよ。


 何の勝ち負けだ。






 ぐう、とお腹が鳴った。


 僕の話ではなくバーチャル僕っ子配信者のことである。そして彼女は『コンビニ行ってくる』と配信画面を待機状態のそれに差し替えて、マイクをミュートにして小休憩に入った。


 ので僕も、そろそろお腹が減ってきたことにして近くのスーパーマーケットに向かうことにした。実際のところ、別にお腹は減っていない。動いていないからだ。しかし一般的に人間は物を食べないと死ぬのだろうなあと知っているので、時には意識してこのようにお腹が減っていることにする、そういう演技も生活の一助とするのであった。


 ちょっとそこまで出かける用に、とハンガーにかけてある服を手に取って、さっと着替える。財布とか定期とか家の鍵とかティッシュペーパーだとか諸々が入った小さなバッグをそのまま持つ。家の外に出る。


 春の初めのころの夜で、もう暖かかった。家の鍵を閉める。


 スーパーまでは大通りに出て徒歩五分。東京、それは便利な都市。代わりに夜空を見上げてもきったね、以外の感想が出てこない都市。何を食べようかな、と考えつつ、まだ冬の残り香がうっすら漂う三月の夜に息を生温く吐く。白くは濁らない。道にはほとんど人がいない。ガソリンスタンドの明かりだけがやけに白くて明るくて、そこを通り過ぎて信号を渡れば、スーパーに着く。二四時間営業。東京、それは便利な都市。代わりに昼間に出かけようとすると人が多すぎるだろ絶滅しろ、以外の感想が出てこない都市。


 だけど流石に、この時間になると人も少ない。まあこのくらいなら耐えられなくもないし、やっぱり買い物はこの時間に限るな、と思う。平日の昼間すら人混みができているのはどういうことなんだろうといつも思う。僕が言うのもなんだが、もっとみんな真面目に働いた方がいいと思う。僕は以前に、めちゃくちゃお腹が空いている状態でスーパーに来て、混雑具合を見て諦めて、泣きながら帰宅したことがある。泣いたのは嘘。帰ったのは本当。


 生鮮食品は賞味期限までに料理をする気が起こらなかった場合腐り落ちる。ので初めから除外。冷凍食品は普通に高いので除外。弁当と総菜はもうろくなのが残っていなかったので泣く泣く除外。残ったのはカップ麺と菓子パン。カップ麺の最安値は税込み九〇円の一方で、菓子パンは半額シールのついたメロンパン五〇円があった。というわけでメロンパンだけを引っ掴んでレジに並ぶ。


 シールだけを貼ってもらって、レシートだけを貰って、颯爽と店を後にしようとして、そのとき靴の横に何かが当たった。はてなマークを浮かべて足元を見てみると、みかんがあった。


 みかんがあった。


 みかん? と首を傾げようとしたとき、「すみません」と僕の方に飛んでくる声がひとつあり。声のもとを辿ってみれば、真っ黒な髪をした大学生くらいの青年が、クリーム色のエコバッグを手に持って立っていた。さらりと視線を動かしてみると、それ以外にも床にクッキーの箱が転がっているのが見える。青年がそれを拾った。そしてエコバッグに入れた。このことからどうもこの謎のみかんは青年のエコバッグから零れ落ちた部品のひとつらしいな、ということがわかる。


 みかんを落として転がす人を、アニメに出てくるおばあちゃん以外で、僕は生まれて初めて見た。


 屈む。拾う。渡す。「すみません」「いえいえ」優しさというのは生活の基本要素のひとつであり、これを発揮しているだけで自分が大した人間に思えてくる。実際にはそうじゃなかったとしても。おそらく実際にそうである人は優しさをあまり必要としない。


 大学生らしき青年は会釈をして僕より先に自動ドアをくぐっていった。僕の帰宅ルートと同じ方向に曲がっていったので、僕はスーパーの入口にあるごみ分別ボックスを無意味に眺めてちょっと時間を空けてから帰ることにする。そしてその間、一体大学生のひとりぐらしで何が起こればみかんが必要とされるのだろう、と考えていた。


 おそらく彼の家にはこたつがあるのだろう。そしてまだ、真冬が続いているのかもしれない。そんなことを、生温かく変わり始めた夜の風を浴びながら、思った。






 家に帰って玄関の扉を閉めながらスマホの画面を確認したところ、まだ例の僕っ子バーチャル配信者の休憩は終わっていないらしかった。『ちょっと待ってね』と書かれた画面が表示されたまま。大体あれから一五分くらいは経っているんじゃないかと思うんだけど、どうだろう。結構長めに休憩を取っているのだろうか。コメント欄には『寝た?』『大丈夫?』『コンビニ行くんだから往復一時間はかかるだろ』の文字が流れている。


 ぱち、と部屋の電気を点けて、パソコンを起動することにした。別にこれから何か生産的な行動をするつもりは一切ないのだけれど、なんだかんだ言って配信だってスマホで見ているよりもパソコンの画面で見た方が楽だ。就職と同時に買ったノートパソコンは、起動にそこそこの時間を要するようになっていて、その間に冷蔵庫を開けて豆乳飲料を取り出して、シンクの上に洗って置きっぱなしのマグカップに注ぐ。牛乳と違って消費期限が長いのがいいところ。


「ん?」


 それを片手にノートパソコンの前に座り直そうとすれば、見慣れない画面が目に入った。正確に言うなら、プライベートでは見慣れない画面。仕事しているときは散々見た画面。


 文書作成ソフトの画面。


「なんかやったっけ……?」


 記憶を辿る。最後にパソコンを使ったのはいつだった? 当然のように思い出せない。毎日似たような日々ばかり送っているのだからそれはそうだな、と自分で納得する。仕方ないので過去にこだわることはやめて、目の前のことから向き合ってみることにする。


 まあなんにせよ、いま自分が必要としているのは文書作成ソフトではなくインターネットの画面だ。もっと詳細に言うと僕っ子美少女配信者が配信しているインターネットの画面だ。ここ一週間くらいその画面しか見ていない気がする。最近はそれの見過ぎ・聴き過ぎで、ひとりごとの中に彼女の話し方が移り始めているのを自覚してしまうくらいには。どこだかよくわからない地方の方言の訛りがこの無職生活の中で身につきつつある。というわけで文書作成ソフトの右上×印をクリックする。


『変更を保存しますか?』


 とダイアログが表示されると、急に不安になるのが自分という生き物だ。仕事を辞める前に不要書類をシュレッダーしていたときにも異常な不安感があった。過去にはこだわらないと決めたはずなのに、また記憶を探り始めてしまう。最近、文書作成ソフトを起動したことなんてあったっけ。しかも本文を書いたことなんてあったっけ。


 なかったと思うのだけど。


 はじめ何も書かれていないものだと思っていたその文書ファイルは、よく見れば隅の方に『25/25ページ』と表示がある。ちょっとスクロールして上の方を見てみると、


「うわ」


 みっしりと縦書きの文章が詰まっていた。これではっきりとわかったのは、自分はこの文章に心当たりがないということだ。さすがに二〇ページ以上も自分の手で書いておいてすべてを忘却しているというのは考えづらい。どれだけぼんやり生きていたとしても。


「なんやろこれ」


 中身が気になって、一ページ目まで戻ってみる。すると、この文書ファイルはこんな風に始まっていた。




『世界が滅びることは初めから知っていたけど、まさかそれでも諦められなかったなんてことは、自分でも初めて知った。

「まだ、勇者がいます」

 ルピナスの口から、静かに言葉が紡がれた。その場にいた王国の重役たちは信じられない、というような目で彼女を見たし、ルピナス自身、自分で自分のことを見る目を持っていたとしたら、同じ目で自分自身を見ただろう。

――今、自分はなんと言った?

 勇者。魔王に滅ぼされていくよう定められた世界で、たったひとりその運命を打ち破ることができる人物。初めから神の手によって救われないよう創られた救いようのない世界に救いをもたらす救世主。

 自分たちとは違う神の手によって創られた人間。

 お伽噺だって、わかりきったことだろうに。

「恐れながら、姫様……。それは、本気で仰っているので?」

 本気なわけがない。そうルピナスは思う。こんなこと本気で言う人間は正気を失っている。自分は正気だ。生まれついて王族として教育を受けてきた。初めて預言の成された何百年も前から先人たちがどのように試行錯誤を重ねてきて、どのように徒労として終わってきたのかも熟知している。残り一年で魔王によって滅ぼされてしまうことが決定したこの世界で自分が果たすべき役割というのが、美味しいものを食べて、綺麗なドレスを着て、できるだけ美しく見えるよう、愛らしく見えるよう、安心感を与えられるよう、王国民たちににっこり笑って手を振ることだけだ、ということもこれ以上ないくらいにわかっている。

「本気です。探しましょう、勇者を」

 わかっているというのに、ルピナスは、いたって真剣な表情のままで、そんなことを言った。

 ひょっとすると正気を失った人間は、自分が正気を失っているということに気がつかないんじゃないか。

 そんな風に、自分で自分を訝しみながら。』




 んー? と自分の口から疑問の音が漏れ出るのを聴く。やっぱり、見覚えのない文章だった。


 小説。というかライトノベル? ジャンルはファンタジーだろうなと思う。ハイファンタジー? とかそんな区分を聴いたこともあるけれど、どちらかと言えば単に、異世界ファンタジー。勇者とか魔王とかそういう単語を見ると、いま結構流行っているRPGっぽい、ゲーム的な世界設定のファンタジー。WEB小説(インターネットで掲載されている小説のこと)なんかでそこそこの数を読んだ覚えがある。だいたい無料だから。あと、流行ってるから。


 だけど文書ファイルをダウンロードをした覚えはない。こういうのは普通ブラウザで見られる。何か変なサイトを踏んでダウンロードさせられてしまったのだろうか。とりあえずウイルスチェックのソフトを起動しながら、そろそろ再開するんじゃないかと思って僕っ子配信者のアカウントページを開く。


『ねえ、本当にやんなきゃダメ……? 雑談しない……?』


 いきなり弱気な声が聴こえてくる。『いいよ』『ダメ』『逃げるな』の文字が並ぶコメント欄を遡ってみると、つい数十秒前に再開されたらしいことがわかる。タイミングがよかった。


 インターネットブラウザの大きさを調節して、文書ファイルソフトと同時に見られるよう、画面上に並べる。一応中身が気になっていたので、最後まで読んでみようと思った。配信を追う傍ら、横目で小説の方も読み進めてみる。


 僕っ子配信者があー、とか、うー、とか。もはや声にならないようなうめき声を上げながら同じステージの同じギミックで死に続けている。


 その一方で、これから滅ぶ世界のこれから滅ぶ王国のお姫様は、魔王を倒せる勇者を捜索していた。王族としての権力を使って、人をあっちにやってこっちにやって、西へ東へ優秀な戦士や魔法使い、それから徳の高い僧侶や荒くれ者の盗賊まで、とにかく様々な人間に声をかけ続ける。


 そしてまったくの収穫なし。どんなに腕に自信のある人間も、どんなに頭脳に自信のある人間も、どんなに良い人間も、どんなに悪い人間も、神様が決めたことには逆らえやしないと、まるで取り合ってくれなかった。それでも諦めの悪いお姫様はもっともっとと捜索を指示し続け、ついには国の重役みんなから愛想を尽かされてしまう。


 こうなったら自分で魔王を倒すしかない。なんて思って剣を握っても、真っ白な細い手は今さら鍛えるには遅すぎる。魔法書を読み解いてみても、一朝一夕で世界の真理のその先になんて辿り着けそうにもない。神様なんて正直そんなに好きでもないし、かといって人間のこともそんなに嫌いじゃないから、何かひとつのことに縋りつけるような精神だって持てなかった。


 そして途方に暮れながら、それでもなぜか諦められず、彼女はこう呟く。『星が降ってくるみたいに、勇者だって降って湧いてくれればいいのに』そこで、二四ページ目は終わり。あとは白紙の二五ページ。


「テンポわる」


 ふたつの意味でそう呟いた。ひとつめの意味は、僕っ子配信者の脳の働きが鈍ってきて休憩前には楽々超えられていたポイントでもう十回くらい同じ死に方をしていることに対する感想。寝た方がいいと思う。ふたつめの意味は、読んでいた小説の導入部分が長すぎることに対しての感想。


 二五ページかけて勇者が出てきていない。なんかつかみが悪いよなあ、と思う。お姫様が絶望していくシーンを丁寧に描写することで勇者がすごいやつなんだよってことに説得力を持たせたいんだろうけど、なんというか鬱々としているし、冗長だし、そもそも面白くない。この手のファンタジーものって、基本的に勇者が登場するようなところから始めるものだと思っていたけれど。読む人が気になるのって、勇者がどんな風に魔王と戦うかであって、勇者のいない世界で人々がどんな風に苦しんでいたかじゃないだろうに。


 まあでも、僕自身が他人にケチをつけられるほど大層な人間かというとまったくもってそんなことはない。


「今のなし」


 ということで、言葉をなかったことにしておく。こういうひとりごとの積み重ねで、性格が日に日に悪くなっていきそうだから。僕は自分のことをどうしようもないダメ人間だとは自覚しているけれど、それを理由に性格の悪さについて開き直るような真似はしたくないなと思う程度の……慎み? そういうのは持っている。でも結局、


「なんなんかわからんかったな」


 読み終わっても、何の心当たりもなかった。思い出すようにしてウイルスチェックの結果がポップしてくる。ウイルスに感染したソフトは〇件。この小説はなんだったんだろう。寝ぼけてパソコンを操作しているときにでも間違ってダウンロードしてしまっていたのだろうか。


 別になんでもいいや。どうせもう消すし。


 右上の×印のボタンを押す。変更を保存しますか? の質問に、いいえ、と返す。


 そして何の変更もないまま、二五歳無職の一日は終わっていく。





 そのはずだったのに。


 どうもこの変更は、勝手に保存されてしまったらしい。


 僕はこれでもおおよそ毎晩のようにスーパーに出かけている(活発でえらいと思う)。雨の日を除けば(仕方のないことだと思う)。日記をつけているわけではないのであんまり記憶は定かではないけれど、たぶんきっと、初めて例の見覚えのない小説に遭遇してから一週間くらいが経って、家を留守にしてから帰宅すること五回目くらいのこと。


 いい加減、現実を直視する気になってきた。


 ノートパソコンを点けるたびに、例の小説が表示されるようになっていた。


 ファイルの場所を開いてみると、ダウンロードフォルダ。無題の文書が、いつの間にかに鎮座している。何度もゴミ箱に捨てて、何度もゴミ箱を空にしているっていうのに、いつ見ても、いつの間にかに現れている。捨てても捨てても家まで帰ってきてしまうという呪いの人形を彷彿とさせる光景だった。


 なんか厄介なウイルスを踏んでしまったんだろうか、と不安になっても、別にIT関係に明るいわけでもない僕ができることといえばパソコンに入れてるウイルスチェックソフトを起動して走らせることだけで、そして結果はいつも『ウイルスは発見されませんでした』。


 別にパソコンの中に見られて困るような個人情報を入れているわけでもないから、困ったりはしないんだけど。WEBカメラの部分もあらかじめマスキングテープで塞いであるし。


 現実を直視する気にはなったものの結局あんまり焦点は合わなくて、悠長な考えは変わらず、僕はへらへらしながらこれまでと同じように僕っ子配信者の追っかけをしていた。そして、このことも話のネタになるかもしれないと思って、彼女が使用している匿名メッセージ募集サービスを使って、こんなおたよりを送ったりしていた。


『最近帰宅してパソコンを開くたびに見覚えのない書きかけの小説が勝手に表示されるんですが、これは小説家になれという暗示でしょうか?(当方無職)』


 これに対する僕っ子配信者さんの回答(たまにこの手のメッセージを読み上げて、質問に対する回答だとか、意見や出来事に対するリアクションをする動画を上げてくれているのだ)が、こう。


『えっ!? ……これ真面目に危ないやつじゃない?』


 一瞬、言われた意味がよくわからなかった。そして次に、ああ、ウイルスについて心配してくれてるのかなと思った。心配ないのにと思った。そしてその直後、それすら悠長な考えだったということがわかる。


『これ、家に誰か入り込んでんじゃないの?』


 なんて恐ろしいことを考えるんだ、と戦慄した。


 さすがに杞憂だろう、と思ったのだけれど、コメントの流れも『屋根裏とかに住んでそう』『押し入れから出てきそう』『ベッドの下で斧持ってそう』『俺もよく生前の未完小説をほかの人に完成させてほしくて何度も見せつけてるゾ』『成仏して』とかそんなのばっかりで、不安になる。不安になって確認した。押し入れにはクリーニングから戻ってきてそのままのスーツがかかっていた。ベッドの下に埃が溜まっていたので掃除しようと思った。屋根裏はどうやって確認したらいいかわからなかったので、小声で「いますかー……?」と語りかけてみた。返事はなかったのでたぶんいないと思う。


『えー……、ちょっと僕怖くなってきちゃったよ……』


 こっちの台詞だった。どうして何気ない気持ちでメッセージを送っただけなのに恐怖させられなければいけないのだろう。さすがに誰かが僕のいない間に家の中に入り込んでるなんてこと、十中八九ないと思う。思うけど、十中一二で本当に入り込まれていた場合、彼女は僕の命の恩人になる。ありがとう。


「ありがとう~」


 と歌いながら、それから僕は、自分の家に侵入者がいないか確認するいくつかの方法をインターネットで調べて試してみた(玄関の扉にシャーペンの芯を貼り付けて、帰宅時に折れていないか確認するだとか。いちばんシンプルなのは部屋に小麦粉を撒き散らして足跡の有無を確認するとかなのだけれど、それはさすがにやらなかった。掃除が面倒だし、何よりそんなことをしたらむしろ僕の方がやばい人間みたいだから)。だけど結局、不審者が僕の部屋に侵入している痕跡は見当たらなかった。


 このようにして目下の安全を確認できたのはいいものの、一度恐怖を覚えてしまえばそれは中々抜けなかった。生身の人間による悪戯説が過ぎ去った場合、普通に考えて残るのはウイルス説のみなのだが。


 のみなのだが、幽霊説を信じかけている自分がいた。


 そんなこと、初めの時点では全く頭になかったのだけれど。僕っ子による例の配信で流れていたあのコメント。『俺もよく生前の未完小説をほかの人に完成させてほしくて何度も見せつけてるゾ』どう考えてもどうせ他人事だと思って適当なことを言っているだけのどうしようもなくふざけたコメントなのだが、これが頭に焼きついてしまった。焼きついてしまった上に、採用されてしまった。


 二四ページ目の最後。ルピナスという名前のお姫様は言う。



『星が降ってくるみたいに、勇者だって降って湧いてくれればいいのに』



 二五ページ目。

 降って湧かせた。



『そのとき、一際大きく瞬く光があった。

 目を瞑っていたルピナスは、それでも瞳に差し込んでくるような光に驚き、薄目を開ける。流れ星? それともどこかの星が爆ぜた光?

 どちらでもなかった。激しい光。それだけが彗星のように夜空から尾を引いて降りてくる。著しい速度。流れ星ではない。隕石? 答えが出る前にそれは地に墜ちた。

 轟音。

 にわかに王城が騒がしくなる。ルピナスは自室にいながら、その慌ただしい空気を感じ取り、そしてハッと。気付いたように飛び出した。

 普段は厳重にルピナスを閉じ込めていた衛兵たちも、このときばかりは油断があった。

「お待ちください!」

 待たない。

 迷いはなかった。廊下を走る。階段を駆け下りる。少しの間だけでも剣を振るために身体を鍛えてよかったと思う。真面目に王族としての教育を受けて、城の地図が頭の中に入っていてよかったと思う。はしたなさのことを頭の外に追いやれるくらいにはおてんばに育ってよかったと思う。

 誰にも捕まらずに外に出られた。ここまで来れば、王城の使用人も衛兵も、ルピナスの姿を見ればぎょっとするばかりで、誰も進んで止めようとはしてこない。

 城の庭に墜ちたらしい。人の流れる向きに従って、それを突き破って、ルピナスはずんずん進んでいく。そして人垣まで辿り着く。

「どいて」

 後ろから声をかけると、びくり、として兵士が振り向き、そしてルピナスの顔を認めるや、びくりっ、として道を開けた。

 妙な煙が立ち込めている。先ほどの鮮烈な光が墜ちたであろう場所がどうなっているのか、ここからはまるでわからない。それを恐れて、誰もその先へ足を踏み出せずにいた。

 ルピナスだけが、踏み出した。

 お待ちください、ともう一度声が聴こえて、やっぱり待たなかった。姫様、と呼びかける声が聴こえる。振り向かなかった。

 煙の中を、ルピナスは行く。意外にも燃え散るような匂いはない。霧のような無臭。

 恐れがなかったと言えば嘘になる。

 けれど、恐れに支配されていたとはとても言えないような足取りで彼女は進んだ。

 そして。

「…………勇者、さま?」

「え?」

 その夜。

 とうとう出遭った。

 滅びゆく世界で、たったひとりだけ諦めなかった少女と。

 間抜けた顔をした、別の世界から来た少年が。

 勇者と姫の、少年と少女の物語の幕が上がる。

 そして同時に、ひとつの物語の幕が下りる。

 誰もが諦める中、たったひとりだけ、最後まで諦めなかったがんばり屋の女の子の、願いが叶う。

 たったそれだけの些細な物語は、ハッピーエンドでひとまずおしまい。』






 結構上手く書けたと思ったのに。


「君さあ……、マジで言ってんの? ねえ」


 僕は深夜、安売りされていた食パン片手にノートパソコンに話しかけている。頭がおかしくなったわけじゃない。僕はパソコンの向こう側にいるはずの存在に向かって話しかけている。


 あれから一週間が経った。というのは、これまでメディアの消費者側に立っているだけだった僕が、想像上の幽霊を成仏させるために慣れない文章を積み上げて、物語を完結まで導いてから、一週間が経った、ということ。


 驚いたことに、その日を境にこの謎の小説は僕のパソコンから姿を消した。


 マジで霊だったんだろうか。そんなわけないとはわかっていても、心はそんなことあるの方に傾きつつあった。それでもなんにせよ消えてよかったはっぴーはっぴー。これで目下一番のお悩みは消えました。忘れましょう忘れましょう定期的にウイルスチェックソフトのアップデート状態を注意しておきましょう。そんな感じでるんるんで過ごしていたというのに。


 過ごしていたというのに。


「もー勘弁してよ……」


 また現れてしまった。


 例の謎の小説が。ノートパソコンを起動すると。勝手に。


 しかもただ現れたわけじゃない。進化していた。もっと直接的に言う。増えていた。ページ数が。


『31/31』


 案の定、ちゃんと文章が書かれているのは三〇ページ目まで。三一ページ目はまっさらで、ただどこまでも頼りのない空白だけが広がっている。


「ちゃんと終わらせたじゃん……」


 ちょっと強引だよなあと自分でも思ったけど。だけど文句を言われる筋合いはないと思う。だってあの場面から最後まで、何十ページも書き続けるのはダルすぎる。これまでろくに創作なんかしたことないっていうのに、記憶を辿って、見様見真似であれだけ書けただけで褒めてほしいものだと思う。自分で自分に花丸をあげたい。あげちゃう。よくがんばりました。


 がんばったのに。


 二五ページ。自分が書いたところ。そこが一部修正を加えられていた。具体的に言うと、『そして同時に、ひとつの物語の~』からの部分。そこがごっそり削られている。そしてさらっと改ページされて、二六ページ目が始まっている。


 こうなってしまっては、とりあえず目を通さないことには何も始まらない。豆乳と食パンを交互に口の中に運びながら、読み進める。


 またお姫様のルピナスの視点から始まる。僕が無理やり降って湧かせた少年は何やら取り調べだかなんだかで、王城の敷地の中にある塔に監禁されているらしい。なんてことをするんだ。折角降って湧かせたというのに。


 ルピナスは自分の父親である王様に抗議する。あの方こそどう見ても勇者です。なのにどうしてあんな扱いをするのですか。そうだそうだ言ってやれ。


 それに対して王様はこう言う。誰もがお前のように希望ばかりを信じて生きられるわけではないのだ。そしてルピナスを叱責する。夢を見せるのは簡単かもしれんな。しかしそれでダメだったとき、お前はどうやって責任を取る? みな緩やかに、穏やかに死ぬ準備はできている。希望を失うことこそが本当の絶望だと知っているゆえに、初めから希望を持たないよう、努めて生きてきたのだ。みだりに民の心を乱すな。自身の影響力を自覚しろ。夢を見るならひとりで見てろ。お前王族の資格ねーわ。部屋で寝てろ。死ぬまで出てくんな。


 なんてダメな王様だ。僕みたいな性格をしている。いや、僕はここまで攻撃的な物言いはしないけれど。なんか適当にそれらしい言い訳を並べて何も行動をしないところなんて僕にそっくりだ。腹立たしい、と言いたいところだけど親近感が湧いてしまってそれどころじゃない。


 実の父親からそんなことを言われてしまったルピナス姫は、前よりも厳重な警備(という名の監視兵たち)に囲まれて、自分の部屋に押し込められる。そしてしくしく泣く。かわいそう。


 そして窓から抜け出した。


「あ、アクティブだなあ……」


 高くて綺麗なカーテンを部屋の中の出っ張りに縛り付けて、窓からそろそろと夜中、逃げ出した。すごい。冒険小説の主人公みたいだ。


 そして僕が降って湧かせた少年の幽閉されている塔に向かおうとする。しかし警備兵たちはさすがに王城勤務。箱入りのお姫様の忍び歩きなんかすぐに発見してしまって、てんやわんやの大騒ぎ。ルピナスは右へ左へ大脱走。それでも結局追い詰められてしまって、とうとう屈強な兵士に手首を掴まれてしまう。


 そして一本背負いしてしまう。


 そこで終わっている。


「……書けってか」


 僕に書けってか。この続きを。


 ひとりごとに対して回答が返ってくるわけもなく(返ってきたら怖いよ)、そうすると疑問文は自分の内側に向いていく。


 書くのか、僕は。


 これの続きを。


「まあ、別にどうせやることもないしな……」


 よっこいしょ、と座る位置を直す。実際、毎日何をしているわけでもないのだ。退職してからというもの、バーチャルなキャラクターの動画配信を追っているだけで、あとはご飯を食べて風呂に入って寝るだけ。再就職に向けた活動すらしていないし、時間だけはあり余っているのだ(正確に言うとこれからの生活と引き換えに余らせているのだ)。


 確かに一週間前に文章を書いたときは結構がんばらないと書けなかったけれど、逆に言えばがんばれば書ける程度の話だ。


 僕っ子配信者は今日はこの時間帯に生放送をしていなかったので、パソコンを使って動画サイトのホーム画面を開き、おすすめされている動画の中から、文章作成のBGMにするためのものを探す。この間彼女とコラボ配信をしていたこの配信者の放送アーカイブでいいか。実は前から気になっていた。時間も三時間近くある。これだけあれば足りるだろう。再生。声が流れ出す。画面を小さくして、文書作成ソフトのウインドウと並べる。


 どんな風に続きを書こう。とりあえず話を終わらせたい、というのが自分の中で一番強い思いとして存在しているので、できるだけ早く終わらせられるように続きを書きたい。お姫様と勇者が出遭ったところで終わらせる案は、この謎の文章の作成元である死んだ小説家の霊(仮)によって却下されてしまったから、次の一番近いゴール点を探す必要がある。


「うーん……」


 ふたりの旅立ちかな、と安直に決める。お姫様がピンチ。その騒ぎに勇者が気付く。何が何やらわからずとりあえず人に言われるがまま閉じ込められていた彼も、可愛い女の子のピンチとあっては見逃せない。ビガーッ、ビガビガビガーッ、じゃきーん。勇者様……きゅん。そしてふたりは旅に出る。なんか朝焼けとかがふたりのこれからの旅の明るいことを暗示する。以上。


「あー、ええやんええやん」


 と、思って、口にも出して、そして書き始めようとして。


 本当にそれ、面白いか?


 と。


 自分の中に眠っていたオタクの自分が目を覚ました。覚ましてしまった。ので、寝てろ。一生部屋から出てくんな、と冷静な自分が追い返そうとする。


 なんかありきたりなんだよな、とオタクの自分が言った。ありきたりっていうことは物語の類型として優れてるってことだから、と冷静な自分が反論した。


 なんか僕の作りたい物語じゃないんだよな、とオタクの自分が言った。いや別にいいだろそもそもこれ僕の作った物語じゃないし、人のだし、と冷静な自分が反論した。


 そもそもなんか構成が微妙じゃない? 出遭いのシーンで最高潮に達してるのにそこからまたちょっと盛り下がってまたちょっと盛り上がっておしまい、じゃ構成が微妙だよ。没だよ、こんなのは没、とオタクの自分が言った。


 冷静な自分が、それはそうだな、と納得してしまった。


 別に自分がこの流れを没にせずに書き上げることはできる。普通にできると思う。だけど小説家の霊(仮)が納得するかといえば、話は別だ。この間の結構綺麗な終わりすらなかったことにして続きを要求してきているのである。となると、中途半端なエンディングだとまた突っ返されて続きを要求される可能性が高い。そうなると二度手間になる。できれば一度で終わらせたいよなあと思う。


 じゃあどうしよう。


「うーーーーん」


 普通に思いつかなくなってしまった。頭の中の引き出しにはよく見るものしか入っていないから当然の話で、よく見るものじゃダメだ、となったら何も出てこない。ていうかお姫様が兵士を一本背負いするってなんだよ。こんな場面からどうやって話を繋げればいいんだよ。強すぎるだろ、お姫様。


「あ、いや、待てよ」



『きょとん、と。

 それだけがその場の空気を支配していた。

 ルピナスが、追ってきた兵士を投げ捨てた。か弱い姫が、屈強な兵士を、背負い投げた。

 その光景を見ていたものはみなきょとん、と目を丸くしたし、投げられた兵士も、何が起こったのかわからない、という表情で夜空ばかりを見上げていたし、投げ飛ばした諜報人であるルピナスも、

――今、自分は、何をした?』



「こうしたら?」


 と、一瞬だけ呟いて、タイピングの手を止めて、そしてすぐに続きを書き出す。書き出せる。


 姫が兵士を投げる。それを単に物語の都合上入り込んだ突飛な描写として処理しない。理由があるものとして処理する。


 突然自分の中から力がみなぎってきたような感覚を覚えるルピナス。その場が固まっているうちに走り出す。我に返った兵士たちが追いかけてくる。けれど追いつかない。追いつけない。不思議なことに。


 塔が近づいてくる。最上階、格子の嵌められた窓から少年が顔を出す。「君は……」ルピナスはそれを見る。塔の中もまわりも警備の兵士だらけ。とても辿り着けたものじゃない。そのとき、ルピナスは自分の推測に賭ける。魔術書を読み解いたときにかろうじて覚えられた、風の魔術。頭の中にある呪文を唱える。木々を揺らすのがせいぜいの、緩やかな風起こしの魔法を。


 そして、彼女は賭けに勝つ。


 突風が吹いた。ルピナス自身を、空に飛ばすくらいの。


 慣れない魔法。制御できない出力。不格好に、それでも彼女は塔の中の少年に向かって手を伸ばす。少年は躊躇いがちに、それでもハッと、空中で必死の形相を浮かべるルミナスと目を合わせて。


 手を伸ばす。


 手が触れる。


 突風に、塔の壁が崩れる。


 少年は何も知らない。まだ何もわからない。だけどルピナスはもう確信していた。この、星のように降ってきた勇者の本当の力はきっと――。



『勝手に夢、見させてもらいます!』



 きっと、勇気に相応しいだけの力を与える。そんな力なのだと。


「この展開にするんだったら、もっとこっちを……。説明が長すぎ。もっと小出しに……、いや略して……」


 一度形が見えたら、後は余白を埋めるだけ。それもできるだけ、小説家の霊(仮)の目から見て、他人の目から見て、綺麗に、美しく見えるように。


 段々と、ただの文字だったそれが、頭の中にあるイメージと溶け合い始める。文章が文章として認識できなくなってくる。情報を表すための線になる。音になる。色になる。声になる。僕の頭の中にある抽象的なイメージを形に変えるための、ひとつのツールとして意識され始めて、そしてそのうち、その意識すらなくなっていく。想像と、脳と、指と、キーボードと、文字が、ひとつの部位になってしいまったみたいに、連結して動き始める。


 そして気がついたときには、イヤホンから声はひとつも聴こえなくなっていた。






「だろうね」


 と、つい言ってしまった。案の定だったから。


 今度はたった三日しか持たなかった。お湯をいれたカップ麺が三分経つのを待ちながら、僕はまたノートパソコンの前に座っている。一方で文章作成ソフトは立っている。立ち上がっている。


 三日前、『31/31』として現れた謎の小説を、『40/40』まで伸ばして完結させた。少年少女の出会いの物語を、ひとりの少女が力を手に入れて旅立つまでの成長譚として書き直して、それで完結させた。


 のに、やっぱり小説家の霊(仮)は、勇者と姫の物語が見たいらしかった。


 再び僕のパソコンのダウンロードフォルダに姿を見せた無題の小説は、『44/44』まで成長していた。それを見たときの僕の最初の反応が、だろうね。


 そして次の反応が、


「君、なんかちょっとサボってない……?」


 僕が書いた文量より、小説家の霊(仮)の書いている方が少なくなってきてないか、と。


 そこにまず不満が湧いた。完結させたいのは君とちゃうんか。なんで僕がこんなに書かなくちゃいかんのだ。


 まあしかし、投げられてしまったものはしゃーない、と。いつも通り四四ページ目は白紙なので、少しスクロールしてやって、小説家の霊(仮)が作った次の場面への導入を確認してみる。


 四天王、という文字が見えた。


「はあ!?」


 思わずド深夜だというのに普通に大きめの声を出してしまった。そして慌てて身を乗り出して、修正・加筆部分の確認に入る。


 四〇ページ目。僕がいい感じに物語を締めようとがんばって考えた地の文は無慈悲にも削除されていた。まあそこはいい。なんとなく予想していた。


 四一ページ目。姫と勇者がふたり旅に出ている。


「えー……。なんか唐突じゃない……?」


 こっちも修正をかけてやろうかと思った。でもすぐに呪われそうだな、と思ってやめてしまった。まあいいのだ。そこのところはまあいい。


 ルピナスと勇者の会話シーンが始まる。……そういえば勇者くんの名前を考えていなかった。あとで命名ランキングナンバーワンみたいなのから引っ張ってきてあげようか。まあそれも今はいい。


 会話シーンでは、姫から勇者にこの世界の説明をする、ということで現状の確認とこれからの目標が語られる。うんうん、いいじゃないか。結構自然な流れだし、会話の形式にすることで読んでいるときだるくなりがちな設定説明パートがさらっと流せるようになっている。最悪の場合地の文をぜんぶ読み飛ばしても鍵括弧の中身を読むだけでストーリーの流れが把握できるようになっている。


 把握してしまった。



『魔王を倒すには、まずは東西南北四方に散った配下の大魔獣をたおさなくちゃいけないの』

『大魔獣?』

『ええ。魔王よりは弱いと言われてるけど……。でも、どんな戦士もどんな魔術師も敵わなかった』

『えっ、えぇ!? それ、すっごい厳しいんじゃ……』

『そうね。だけど四天王がいる限り魔王が纏っているっていう強力な結界が解けないから……。結界を持った状態の魔王と一対一で勝負するよりも、その大魔獣たち……四天王を順番に撃破していく方が、まだ勝ち目があるの』



「あのさ~~~~~~~~~」


 思わずものすごく長い溜息みたいに言葉を吐き出してしまう。


「君、この話終わらせる気ある?」


 そして小説家の霊(仮)に恐れ知らずにも説教してしまう。しなきゃやってられない気分だったので、仕方ないと思う。


 四天王ってなんだよ。それ全部倒さなくちゃいけないのかよ。どんだけ風呂敷広げる気なんだよ。君それ畳めるのかよ。


 僕が畳むのかよ。


 そして小説家の霊(仮)が書いた最後のシーンはまずは東に向かいましょう、で終わっている。東に火の魔獣がいるのだそうだ。


「は~~~~~ん」


 息を吐く。頬杖を突く。とりあえず動画サイトでBGMに適したものを再生しようとする。


「……あれっ」


 僕っ子配信者がライブ放送をしている。しまった。今日は一日中だらだら別の配信者のアーカイブを消化していたので、配信告知をチェックしていなかった。とりあえずクリックする。と、いきなり。


『……はぁ。……は~~~~~~ん』


 向こうも溜息を吐いているのが聴こえてきた。完全に自分の気分とシンクロしていたので、一瞬運命かな、と思って、自分で自分にキモ、と暴言を吐いて、それから動画タイトルを見る。そこにはこうある。『【悪夢は二度刺す!】』『【鬼畜2Dアクション耐久実況】』


「またやるのか……」


 若干の畏怖が混じったひとりごとを発しながら、配信画面を確認してみる。この間泣き喚きながらなんとかクリアしていた横スクロール2Dアクションのタイトルが見える。ただし、末尾に『Ⅱ』の文字が追加された状態で。


『やればいいんでしょ、やればさあ! バズるんでしょ、これでさあ!』


 投げやりに、彼女はそんなことを言った。確かに前回の結局一〇時間近くまでに及んだ耐久実況は、リアクションの良さから人を呼び、最後には普段の視聴者数の二倍近くまで人を呼んでいた。


『なんとかしてやりますよ! 言っとくけど僕は無印クリアしてんだからな、舐めるなよ!』


 威勢のいい台詞が聴こえてきたが、コメント欄には『Ⅱの方がボリュームある上に難易度高いが』と無慈悲な情報が流れている。


「つらそう」


 素直な感想としてはこれだった。そして何を血迷ったか、次に僕の口はこんなことを言った。


「僕もつらいことするか」


 何を馬鹿なことを、と。

 自分で自分に突っ込む前に、もう心が据わってしまっていた。

 一体どうしたことか、僕はこの僕っ子美少女の配信を聴きながら。聴きながら、


 もうめんどくさいから、小説家の霊(仮)がぐうの音も出ないほど完璧に、物語を完結させてやろうと、決めてしまった。


 考え直せ、と冷静な僕が言った。けれど、それを聴く前にもう、思考は動き出していた。


 あまり長いのはダメだ。どう考えても完結させることができない。だけど撒いた伏線は回収されないとダメだ。今手元にあるパーツは何? 四天王。少なくともこれは全部倒さなくちゃいけない。だとしたらどんなふうに倒すのが一番すっきりしていて、一番魅力的になる? それぞれの設定を練って、それぞれを攻略するまでの冒険を丁寧に描写する? いやダメだ。それじゃあ長くなりすぎる。他に何か使えるものはないか?


「あ、最初の頃に……」


 東西南北いたるところに戦士・魔術師・僧侶・盗賊を探しに行ったエピソードがあった気がする。スクロールして遡る。やっぱりあった。これでいいや。これが使える。この四人を東西南北にひとりずつ配置しよう。そしてこいつらに四天王を倒させよう。結構名案じゃないか? この前、話をお姫様の成長譚にしようとした名残で、勇者それ自体は力があるわけじゃなくて、発揮した勇気に応じて力を与える能力を持ってるだけってことになっている。そうしたら、この東西南北に位置した四人を説得して四天王を撃破させる、みたいな筋書きにすればいいんだ。これなら動かす人間も最小限で済むし、元から強い人間がさらなる力を得るわけだから、戦闘シーンがあっさりめでも四天王の強さに説得力を失わせないまま、さくっと盛り上げることができる。


「いいじゃん。いいじゃんいいじゃん」

『はい余裕~。余裕ですわこれは。クリアしちゃうわさんじゅっおわーーーー!!!!』


 イヤホンから断末魔が聴こえてきたけれど、自分には関係のないことだと思いたい。


 なんとなく使うパーツは決まった。そうしたらざっくり構成を考えよう。戦士が東、魔術師が北、僧侶が南、盗賊が西でいいか。なんとなく。で、それぞれ力が強い・頭が良い・善性が強い・悪性が強い、って特徴があるわけだから、それを活かした形で戦わせるのがいい。四天王は……、東に火の魔獣がいるって言われてるし、ほかにも属性を振るか。西はなんとなく砂漠のイメージがあるから土。南は火山とかのイメージもあるけど、東と被るから水にしておく。北は完全に氷のイメージだけど、今度は南と被るから、ここは風。


「したら、同じこと四回やるのも芸がないから……。この四人にそれぞれ別の課題を与えて……、戦闘シーンにバリエーションが出るように……。あとあんまり主人公たちから離れたところで進行させすぎてもとっちらかるから、ふたりの成長と絡めつつ……」


 指はもう動き出している。ディテールまで書くには時間が足りなすぎる。粗い筋だけをメモするように、忘れないように一気に書いていく。ああ、こういうのをプロットっていうんだっけ? なんだかわからないけど、とにかくストーリーを固めていく。全体が調和するように。話の焦点がブレないように。ボリューム感がおかしくならないように。


 さあ四人の性格と課題が決まった。四天王の倒し方も決まった。それじゃあそれをどうやって主人公たちの活躍や成長に結び付ける? そもそも姫と勇者のどっちに重点を置いて物語を進めればいい? 視点はどのくらい動かす? お姫様の動機はわかったけれど、異世界から来た勇者に動機はある? 行動の必然性は? ふたりの関係はどんなふうで、これからどんなふうに変化する? ふたりは恋をするのか? するとしたら、しないとしたら、どんな心の動き方のためにそういう結果が生まれる?


 考えるべきことが、無限に湧いてくる。


 ひとつ決めれば、それに枝分かれして、連鎖するように、次々に。きっとこのことを考えればどんなふうにラストシーンを組み立てればいいかがわかる。でもそのラストシーンにするのだったら、きっとさっき決めたここはこんなふうに修正した方がよくて、それに別の箇所に係わっているここで、伏線やほのめかしをした方がいい。するとボリュームが膨らんでしまうから、描写の仕方を考えて。同じ感情や物事の動きをもっと短くするために、別の、もっと効果的なシーンに置き換えて。


「あーーーー、つらい」

『思い出してきたよ……。このゲーム、こんなつらかったんだ……』


 さっきから言葉がシンクロしすぎだな、と思ったりもするんだけど、笑うだけの余裕がない。考えていて苦しくなる、ってことを初めて体験した。ちょっとでも気を抜くと、頭の中からイメージが抜け落ちてしまいそうな感覚があって、脳に酸素を入れる暇すらないように思えてくる。無呼吸運動みたいだ。たぶん錯覚なんだろうけど、本当に胸が苦しくなってきたような感覚までしてきて、深呼吸したりしながら思考を進める。


 イヤホンから声が聴こえてくる。初めの頃は冷静で。失敗の原因をちゃんと分析して、これから先に活かそうという知性の働きが見えて。


 段々とそれは落ち着きを失くし始めて。大きく聴こえる『ああ、もう!』なんて言葉は、自分への落胆だとか苛立ちだとか、そういうものよりも、超えるべき課題に対する吠え声のように響き始めて。


 時間が流れるにつれて、今度はそのトーンが落ち始める。失敗したときは諦めるように。なのに諦めずに続けてしまうものだから、その先で成功してしまったりして、そういうときは信じられないように、噛みしめるように。


 『つらい』と嘆く声が聴こえてくる。じゃあどうして続けているんだろう、と不思議になる。途中で投げ出すのが嫌だから? それともそんな殊勝な気持ちはなくて、実際には何もやることがないから? それともそれとも、さらにどうしようもなくて、こんなふうに何かに没頭しているときは現実を直視しなくて済むような気がしてるから? 考えている間にも手は動く。自分の気持ちや考え方なんてものよりも、身体や行動の方がずっと自分自身に馴染んでしまっているみたいに。


 そのうち、色々なものが消え始める。自分とか、時間とか、そういうものが消え始める。勝手に視界に文字が増えるようになる。白紙面の上に植え付けられていた卵が一斉に孵って芋虫が這い出てくるように。そしてそれがどんどん文章という名前の、蛹として固まっていく。そしてその蛹と蛹の間に、透明な糸が張っていることに気付く。それをうっすら指でなぞって灰色に染めてやれば、蛹と蛹は蝶になって結ばれて、そして新たな卵を残す。


 戦士が、自分の力を信じる大切さを思い出す。火の魔獣が倒れる。

 魔術師が、自分の頭脳を信じられなくても戦うべきときがあると知る。風の魔獣が倒れる。

 僧侶が、正しいことを信じ抜く大切さを知る。水の魔獣が倒れる。

 盗賊が、間違っていると知っていても貫くべきものがあると思い出す。砂の魔獣が倒れる。


 四天王がすべて倒された。もう最終局面は見えている。テーマはもう、勝手にできている。


 姫と勇者は合わせ鏡に映ったようなふたりだった。姫は自分の信じたことを貫き通す勇気を持ちながら、それを成すための力を持っていなかった。一方で、勇者は力だけを持ちながら、実のところ誰よりもそれを振るうための勇気に欠けていた。


 ふたりは優れた戦士じゃない。魔術師じゃない。僧侶じゃない。盗賊じゃない。何より大人じゃない。


 だから、たったひとりで立ち上がることはできない。


 だけど、もう、支え合って立ち上がる方法は知っている。


 そして僕は、


「あれ?」


 僕は、


「……なんだっけ」


 今何か、引っかかった気がする。手が止まる。僕は、何? 少しだけ考えて、わからなくて、とりあえず指に訊いてみる。


 原稿に、こんな文字が浮かんでくる。



『僕だったら、どうする?』



 一瞬、あっけに取られて。

 気を取り直すようにパソコンから身体を離して。


「僕だったら、」


 ちょっとだけ、笑って。


「とりあえず、最後まで書く」


 そして、そのやり方も知っている。


 それで足りてるのか、それが正しいのかはまだ知らないけれど。

 とりあえず、進む方法だけは知っている。


『やったーーーー!!!』


 と、イヤホンから歓喜の叫びが聴こえてきて。


 負けたな、と思った。


 やっぱり何の勝負かはわからなかったけれど。

 なんとなく、清々しい気持ちで。





 四日目くらいで、気がつくと書き終わっていた。


 気がつくと、というのは無意識状態で書き続けてふと我に返ったら完成していた、とかそういうことじゃない。いや、もしかしたらそういうことなのかもしれないけれど。


 ほとんどぶっ通しで書いていて、異常な空腹感に襲われたと思った次の瞬間、僕はベッドに突っ伏すように顔を押し付けた状態で、ものすごく首を寝違えながら目を覚まして、朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。


 そして、『120/120』の文字がそこにあった。


 一二〇ページ目は、白紙じゃなかった。ちゃんと僕が考えたラストシーンが書き込まれていた。僕が書いたのか、それとも、それ以外の人が書いたのかは知らないけれど。


 右上にマウスカーソルを移動させる。赤い×印をクリックする。


『変更を保存しますか?』


 それに。


 初めて『はい』を押した。


 そして文書作成のウインドウが消えると、その下に隠れていたインターネットブラウザが現れた。


 小説新人賞、と書いてあった。


「……投稿しろってか」


 笑いながら、答えは待たずに。


 WEBから応募するためのアカウントを作る。アップロードするためのファイルを選択しようとする。だけどこれもまた不思議なことに、さっき保存したはずのそれは、いつものダウンロードフォルダの中には見つからない。


 その代わり、


「勝手に作るなよ」


 ドキュメントフォルダの中に、見覚えのない、新しいフォルダができているのを見つける。


『小説』


 と。

 そう書いてあった。






 夏が来ても買い物に行くのは深夜と決めている。


 いやむしろ、夏だからこそ深夜と言ってもいい。夏というのは人が生きられる季節ではない。深夜くらいしかまともに行動できる時間帯がない。


「あっつ……」


 思わず外に出てからもひとりごと。夜になったらできるだけ電気代を節約するためにと扇風機で過ごすようにしているから、部屋から出てもそれほど気温差があるわけじゃないんだけれど、それはそれとして暑いものは暑い。うっとおしい湿気が肌の表面にまとわりついてくるのを感じる。


 夜の空気から花の香りが消えて、七月。珍しく、スーパーマーケットまでの道にひとつだけある信号が、真っ赤に光っていた。


 たった一瞬の間にもスマホを取り出してしまうのは悲しいかなネット中毒。そろそろ眼精疲労の度合いが気になり始めて、次に薬局に行ったときには目薬も買おうと思う。


 SNSのアプリを起動して、例の僕っ子配信者の個人アカウントのページに飛ぶ。すると、


「お」


 すぐに配信告知が目に入った。気付けてよかった。時間帯は〇時から。この人の生活時間はどうなっているんだ、と、どの口が言うんだかよくわからないような心配の気持ちが心に浮かんでくる。


 なんの配信するんだろ。そう思ったのも束の間、すぐに目に入る『【仏の顔も三度まで】』の文字。


「またやるのか……」


 見慣れた2Dアクションゲームのタイトル。今度は『Ⅲ』が末尾についている。その配信告知にぶらさがっているコメントを見てみれば『味を占めるな』『公開からプレイまでが早すぎて草』『シュバるな』とのことで、なるほど最近新作が出たのか、とそれでわかる。


「またかあ……」


 信号が青に変わった。それが別に、信号を凝視していなくても、あたりの色が変わったのでわかる。スマホの画面を消して、ポケットに入れ直して歩き出す。歩きスマホはよくない。歩きながら考え事をするのは、まあ仕方ない。


 こんなことを考えた。


 またなんか書こうかなあ。


 味を占めたのか、というとまた違う。そんな気はする。

 結局あの小説新人賞に応募した小説は、特に何にもならなかった。普通に一次落ちした。まあそりゃあそうだろうと思う。ド素人が(いや、大体の応募者はみんなアマチュア=素人だと思うけど、小説を書いてきたキャリアとかに着目して)勢いで、しかも得体の知れない小説家の霊(仮)とちぐはぐな合作をしたものなんて、優れているわけがない。世の中そんなに甘くない。ていうか誰だったんだよあの謎の霊はよ。


 でもまあ、何かしてるときはそこそこ落ち着くよな。何もない日々の中でも。なんて、人並の感情も湧き起こってしまうわけで。でも、何も書くことが思いつかなかったりもするわけで。


 スーパーに着く。中を物色する。弁当と総菜を見る。それにしてもこのスーパーはほとんど値引きをしないなあ、と諦めて、いつもどおり菓子パンのコーナーに向かってしまう。そろそろ成人病とかになる気がする。いい加減食生活を見直さなくちゃな、と思っている。大体梅雨の初めの頃から、ずっと。だけど今日のところはひとまず勘弁してやろう、とメロンパンを掴む。五〇円。シールだけを貼ってもらって、レシートだけを貰って、颯爽と店を後にしようとして、そのとき靴の横に何かが当たった。


 あれ、こんなこと、前にもあったような。


 視線を落としてみると、案の定そこにはみかんが転がっていた。屈む、拾う。そしてたぶんいるであろう、春の記憶の中に立っている黒髪の青年を探す。


 いない。


 いや、やっぱいた。今ちょうど、自動ドアをくぐって出ていくところで、背中だけ見えた。


「あ、まっ、」


 て、と言ったところで扉が閉まる。みかんを握ったまま差し出した手は、所在なく宙をさまよう。まいったな。ここに置いていってしまおうか。どうせ忘れたことに気づけば取りに戻ってくるだろうし。それがいいかな。それがいいよな。


 そのとき、頭を過ったのは、自分で書いた、勇者のことで。


「……アホくさ」


 冷静な僕も、冷静じゃない僕も、一緒になって呆れた声を出す。こんなのは勇気でもなんでもない。ごくごくありふれた、


 とりあえず。


 彼の背中を追いかける。スーパーを出る。あの、と声をかけようとする。かける前に彼は大通りから逸れて、路地の方に曲がって行ってしまう。ええっ、そんな近くに住んでるのかよ。羨ましいよ。見失わないように少し走って、同じところで曲がって。



「にゃあ」



 猫がいた。



 そこに。クリーム色のエコバッグをくわえた。黒猫がいて、青年の姿はなかった。忽然と消えていた。

 呆然とする僕の前に、猫がとことこ近付いてくる。ん、とエコバッグを掲げて見せる。僕は呆然としながら、何も考えずにみかんをそのバッグの中に入れる。すると猫は、ぺこり、と頭を下げて、どこかに走り去っていった。


 夏の夜。


 二五歳。


 無職。


 こんなひとりごとを言うらしい。




「書けってか」





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ