第3話
振り返ってみると、部室の入り口に一人の女子生徒が立っていた。
しまった、ドアを閉めるの忘れてた――いやいや、今はそれどころじゃない。
「相神さん、聞いてくださいよ!」背中越しに寺島の声が聞こえる。「その子、入部希望者なんです!」
「入部希望者……え、きみが!?」
おそらく部長であろう相神先輩は、わたしの顔を見てあぜんとした。
すごくきれいな人だ。
背中までまっすぐ伸びている黒髪。大人っぽい顔つき。ぷっくりと膨らんでいる胸。長身の伊織よりもさらに背が高い。まるで芸能人やモデルの人みたいだ。
相神先輩はわたしに向かってずかずかと歩み寄ってくる。
「……きみ、名前は?」
「え、く、栗沢、ほしのですけど――わきゃっ!?」
視界がぐらりと揺れた。
数秒遅れて、わたしは相神先輩に抱きつかれたのだと理解した。
「つーかーまーえーた! よろしくね、ほしのちゃん! あ、まだ名乗ってなかったね。私は三年の相神志穂。ここの部長をやってるよ。もう逃がさんぞ、可愛い後輩め!」
甘い匂いがする。彼女の身体が温かい。なぜ同じ女であるわたしがこんなにドキドキしているんだ。
「いいなー、栗沢さん。いきなり相神さんに抱きつかれるなんて」
「て、寺島くん、見てないで、助けて……」
予想外の展開に頭がパンクしてしまいそうだ。
「部長、そいつ嫌がってるっすよ」
緒方がそう言うと、相神先輩はわたしの身体をあっさり解放した。
「ごめんねほしのちゃん。私、可愛い女の子が好きだから、つい我慢できなくて」
フォローになってませんよ、先輩!
「でもさ、ほしのちゃんが軽音部に入ってくれて本当に助かるよ」
「助かるって、どういう意味ですか」
「軽音部は今年いっぱいで廃部になるかもしれないんだ。部員数が少ないのも理由の一つだから、ほしのちゃんにはぜひ入部してもらわなくちゃ」
思い出した。文化祭のとき、そのことについて話していたのはほかでもないこの人だ。
「それより、なんでほしのちゃんは軽音部に興味を持ったの? お姉さんに教えてほしいな」
「そ、それは――」少し迷ったけど、わたしは正直に答えることにした。「文化祭で軽音楽部の演奏を観て、かっこいいと思ったからです」
「ほんとにー? あーもう、めっちゃ嬉しいんですけど! それで自分もバンドをやりたいと思って、ここまで足を運んだってわけね」
いえ、違うんです。
わたしはただ、もう一度あなたたちの演奏を聴きたいと思っただけなんです。軽音楽部に入るためにここを訪れたわけではないんです。
そう言いたかったけど、嬉しそうに笑う相神先輩の前では、なかなか本当のことを告げることができない。
「私たちの演奏を観て興味を持ったってことはさ、ほしのちゃんは楽器未経験者ってことでいいんだよね?」
「あ、はい。そうですけど」
「それなら、ドラムやってみない?」
「ドラム、ですか」
ドラムなら文化祭のときに相神先輩がたたいていたはずだ。
「あ、私がドラムだろって思ってるでしょ」相神先輩が先回りして言う。「あのときはメンバーが足りなかったから、しかたなく私がたたいてただけなの。私の本来のパートはベース。だから、ほしのちゃんにはぜひドラムをやってほしいんだ」
「わたしなんかでも、ドラムをたたけるようになれるんですか。すごく難しそうですけど」
「頭で考えるより、実際にやってみたほうがいいよ」
そう言うと、相神先輩はドラムセットの脇から二本の細長いばちを手に取り、わたしに向けて差し出してきた。
「なんですか、それ」
「ドラムスティック。せっかくだから、たたいてみなよ」
相神先輩は不適な笑みを浮かべた。
「でもわたし、部外者ですよ?」
「なんで? ほしのちゃんはもう軽音部の一員だよ。だから全然問題ナッシング!」
いつの間にかわたしはここの部員になってしまったようだ。
「遠慮することないよ、栗沢さん」寺島がにこやかに話す。「どっちにしろ、今の軽音部にはドラマーがいないんだ。勝手にたたいたところで、誰も文句を言うやつなんていないよ」
ようするに、今日からわたしがドラマーになるのか?
目の前に差し出されたドラムスティックをじっと見ていると、
「いいからやってみろよ」
緒方が不機嫌そうに声を上げた。
「オガチン、もうちょいフレンドリーに!」
「寺島、おまえは黙ってろ」緒方はわたしの顔をにらみつける。「イメージだけで決めつけてんじゃねーよ。たたいてみたら楽しいかもしんねーだろ。部長が許可を出してるんだ。うじうじしてねーでやってみろ」
「は、はい!」
わたしはとてもいい声で返事をした。
なんておっかない人だ。とてもじゃないけど、同じ学年の生徒だとは思えない。
「こら、緒方くん。女の子を脅さないの」相神先輩が注意する。「貴重な新入部員が逃げ出したりしたら、きみはどう責任を取ってくれるのかな? ん?」
「…………すんませんでした、部長」
ええっ!?
相神先輩に謝る緒方を見て、わたしは素で驚いた。
どういうことだ? なにか弱みでも握られているのだろうか。
ともかく、わたしは相神先輩からドラムスティックを受け取り、おぼつかない足取りでドラムのイスに腰かけた。
「これがスネアドラムで、その隣にあるのがハイハットシンバル」相神先輩が一つずつ丁寧に教えてくれる。「――だいたいこんな感じね。これが基本的なドラムセットの形だよ」
わたしはあらためて、黄土色のドラムセットを眺めてみた。
身体の正面にあるのがスネアドラム。右隣がフロアタム。奥の二つがタムタム。左にある、上下に二枚のシンバルを重ねたものがハイハットシンバル。左右の端に、それぞれ二枚の大きなシンバル。そして、足元にある一番大きいのがバスドラム。
かっこいいな。まるでわたしを護る要塞みたいだ。
「好きなようにたたいてごらん!」
そう言って、相神先輩はステージから下りた。
部員の三人は教室のイスに腰かけ、わたしに視線を向けている。
そんなにこっちを見ないでほしい。ただでさえ注目されるのは苦手なのに。
とりあえず、スネアドラムの上からドラムスティックを振り下ろしてみた。
ダ、ダ、ダ、ダ。心地よい打撃音が鳴る。
続いて、シンバル、タムタム、バスドラムと、次々に打ち鳴らしてみる。
チッチッチッチッ、
ドコドコドコドコ、
ズンズンズンズン、
シャーンシャーン、
自分の両手両足の動きに合わせて、さまざまな音が鳴り響く。眠っていたドラムセットが息を吹き返したかのようだ。
数分間、わたしは思いのままにドラムセットを叩いた。
ドラムの音が鳴り止んだのを見計らい、相神先輩が話しかけてきた。
「どう、ほしのちゃん。ドラム楽しい?」
「あ、はい。思ってたよりは」
「ならよかった! ほしのちゃん、かなりセンスあるよ! 今から練習すれば、絶対すぐに上達するって!」
「ほ、本当ですか……?」
「うん。私が保証する。だからさ、私たちと一緒にバンドやろうよ!」
「は、はあ……」
褒められて悪い気はしない。ドラムをたたくのが楽しいのも嘘じゃない。
けれど、その誘いにはまだ乗ることができなかった。
「部長、ちょっといいっすか」
イスに座って黙っていた緒方が、ぼそりと声を上げた。
「なに、緒方くん。どうぞ」
「あいつはまだ迷ってるみたいですよ」緒方がわたしを指差す。「俺らが演奏して、その気にさせてみるっていうのはどうっすか」
「あ、それいいね。私たちの演奏で歓迎すれば、きっとほしのちゃんもバンドをやる決心がつくはずだよね」
「ちょうど僕もベースを弾きたいなって思ってたんだ」
緒方の提案に、相神先輩と寺島の二人も賛成した。
思いがけず、当初の目的だった三人の演奏を聴くことになった。わたしは心の中で緒方にそっと感謝した。
部員の三人がステージに上がったので、わたしは入れ替わるようにステージから下りた。
三人は近くに立てかけてある自分のギターやベースを手に取る。
「チューニングするから少し待っててね」相神先輩が言った。「ごめんね、さっき来たばかりだから」
「チューニングってなんですか?」
わたしがたずねると、相神先輩に代わって寺島が答えた。
「チューニングっていうのは、楽器の音程を正確に合わせる作業のことを指すんだ。弦楽器の場合は、弦の一本一本を調整する必要があるわけ。そうしないと、正しい音を鳴らして演奏することができなくなるからね」
「へえ、そうなんだ」
いまいち重要性がわからないけど、今は流しておこう。演奏準備の邪魔はしたくないし。
やがて、三人は楽器を構えて顔を見合わせた。
「文化祭と同じ曲順でいくよ」
相神先輩の言葉に、男子の二人が軽く頷く。
「1、2、3、4!」
相神先輩のかけ声とともに、三人による演奏が始まった。
二つのギターと一つのベース、そして緒方の歌声が重なり合い、軽快なロックンロールとなっていく。
ドラムがいないのにも関わらず、演奏は止まることなく続いている。
男子二人のギターはお世辞にも上手いとは思えない。どことなくぎこちない演奏だ。
しかし、相神先輩のベースはずば抜けていた。なめらかな重低音が途切れることなくスピーカーから流れている。
文化祭のときと同じく、ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』とわたしの知らない曲が立て続けに演奏された。
演奏終了後、相神先輩がわたしに目を向けた。
「私たちの演奏、ぶっちゃけ微妙だったよね」
「え、いえ、そんなことないですよ」
「変に気を遣わなくてもいいよ。あーあ、せめてドラマーさえいればなー」
相神先輩は思わせぶりな表情でこちらにちらちらと目配せをする。
たしかに、バンドのことをろくに知らない素人のわたしでさえ、三人の演奏は不完全だと思った。
まず第一に、ドラムそのものが欠けている。寺島のギターはところどころつっかかっているし、緒方のギターボーカルは両立していない。相神先輩のベースを差し引いても、まだまだ発展途上の段階だといえる。
それなのに――相変わらずわたしの目には、彼らの姿がかっこよく映っていた。
「三人の演奏、とってもかっこよかったです。観ててワクワクしました……!」
わたしは正直に感想を伝えた。
「ほんとに? ……それじゃあ、ほしのちゃんにもう一度聞くよ」相神先輩がわたしの顔を見つめる。「私たちと一緒に、バンドをやってみない? 高校生活は一度きりだ。どうせなら、新しいことにチャレンジしてみようぜ!」
その言葉に答えるため、わたしは三人の顔を見ながら口を開いた。
「――はい。よろしくお願いします」
こうしてわたしは、市立東松原高校の軽音楽部こと軽音部に入部することになった。
次回は明日の夜9時前後に更新します。