第1話
「もうすぐ吹奏楽部の演奏会が始まるよ!」
活気にあふれる教室の中、柚月が明るい声で言った。
羽井柚月は、わたしにとって一番仲の良い友達だ。
柚月とわたしは同じ中学出身だけど、そのころはまだ親しい関係ではなかった。二人が仲良くなったのは、高校で同じクラスになってからだ。
「ほしの、早く早く。あんたが観たいって言ったんでしょ?」
柚月が笑いながらわたしの肩をたたいた。
彼女はわたしとは違い、明るくて活発だ。クラスの男の子とも平気で冗談を言い合ったりする。短く切りそろえられた黒髪がなめらかで、顔立ちも整っている。
はっきり言って、柚月がうらやましい。
「伊織ちゃんと花音ちゃんはもう体育館にいるの?」
わたしは廊下に目を向けたまま、柚月にたずねた。
「うん。あたしたちのぶんの席も確保してるって」
柚月が教室の引き戸を開けながら答えた。
わたしの通う市立東松原高校では毎年六月上旬、二日間にわたって文化祭が開催される。今日はその二日目。廊下はとてつもなく賑やかだ。二日目は一般客も来校してくるため、今日は一年を通してもっとも学校が騒がしくなる日になりそうだ。
体育館に向かう最中、廊下でいろんな人たちとすれ違う。他校の制服を着た高校生や中学生、在校生の家族、近隣の住民など、その種類は枚挙にいとまがない。
壁は折り紙チェーンや風船などの装飾品で彩られ、床には宣伝用の安っぽい看板が数メートルおきに立てかけられてある。いかにも高校の文化祭といった風景だ。
一年生の教室がある四階から二階まで下り、さらに歩いて体育館を目指す。
わたしと柚月は二階にある入り口から体育館の中へと入っていった。
窓全体が暗幕に覆われているため、昼間でも天井の照明がついている。それでも、いつもの体育館よりはいくらか暗く感じる。
ステージの舞台幕は限界まで下がっていた。きっとその奥で、吹奏楽部の人たちが演奏会の準備をしているのだろう。
わたしは黙って柚月の後ろをついていく。
「二人とも、こっちこっちー」
観客席に座っているサイドテールの女の子が、わたしたちに向かって手招きした。
体育館で待ち合わせをしていた友達の一人、高梨伊織だ。
伊織は背の高いオシャレな女の子だ。サバサバしてかっこいい雰囲気だけど、ジャニーズ系のアイドルが好きだという一面も持っている。そのギャップがとても可愛らしい。
「店番おつかれさま! 二人とも大変だったでしょ」
伊織の隣にいるショートボブの女の子が、笑顔で言った。
同じく待ち合わせをしていたもう一人の友達、湯浅花音だ。
花音は女の子にしては珍しくゲームが好きな子だ。本人曰く、兄から影響を受けたらしい。饒舌で盛り上げ上手なこともあってか、男女問わず人気がある。
「いやー、予想以上にフリマが人気出ちゃってさ。参るね、ほんと」
そう言って、柚月は花音の隣の席に座った。続いてわたしも柚月の隣に座る。
わたしたちは一年二組の仲良し四人組だ。昼休みも毎日一緒に過ごしている。部活に入っていないわたしにとって、同じクラスに友達がいるということはすごくありがたいことだ。
「吹奏楽部の演奏会、早く始まらないかな」
わたしの発言に、伊織がすかさず反応を示した。
「この学校の吹奏楽部、かなりレベル高いんだって。そうなんでしょ、柚月ー?」
「そうそう。あたしもつい最近まで先輩たちにしごかれてたんだけどさー、マジで練習キツかったな。あたしなんかの実力じゃ全然ついていけねーっすよ」
おどけた柚月の言い回しに、三人は声を上げて笑った。
柚月は中学三年間、吹奏楽部に所属していた。三年生のときにはサックスのパートリーダーを務めたほどの実力者だった。高校に入学してからも彼女は吹奏楽を続けていたけど、先週の休み明けに「これからはみんなともっと遊びたいから、部活辞めちゃった」といきなり言って、吹奏楽部を退部してしまった。
彼女に直接たずねてみたところ、部活動は疲れるうえに遊ぶ時間も減ってしまう、一度きりの高校生活は遊んでこそなんぼ、という言葉が返ってきた。
どういう心境の変化なのかはわからない。だけど、そのおかげで以前よりも柚月と一緒にいられる時間が増えたのだから、わたしにとっては喜ばしいことだ。
『続いてのプログラムは、市立東松原高校吹奏楽部による、文化祭特別演奏会です。どうぞ最後までお楽しみください』
放送部によるアナウンスと同時に客席の照明が消え、館内はたちまち闇に包まれた。
観客たちの話し声が途切れ、あたりがしんと静まる。
舞台幕が天井に吸いこまれ、ライトに照らされた吹奏楽部の部員たちがあらわになった。部員たちは各々楽器を構えながら、指揮者である顧問に顔を向ける。
いよいよ演奏が始まる――わたしはじっとステージを見つめていた。
大きなかけ声とともに、迫力のある打楽器の音が鳴り響く。
甲子園の応援中にもよく演奏されている『エル・クンバンチェロ』だ。柚月が好きな曲だから、わたしにもすぐにわかった。
伊織が言っていたとおり、吹奏楽部の演奏は素晴らしかった。素人のわたしでもはっきりわかるほど上手だ。部員たちはみな真剣な表情でさまざまな音色を奏でていた。
曲が終わると、観客たちによる盛大な拍手が巻き起こった。すぐには鳴り止まないほど長い拍手だった。
そのあとに演奏された校歌やJーPOPのアレンジも抜群の完成度を誇り、あらためてこの学校の吹奏楽部の実力を肌で感じ取った。
吹奏楽部の演奏会が終わり、観客席に照明がついたあと、わたしは隣の柚月に話しかけた。
「すごかったね、吹奏楽部のみんな」
「そうだね」柚月は前を向いたまま答えた。「……それより、次は軽音楽部のライブだってさ。ついでにそっちのほうも観ておこうよ」
「う、うん。……ねえ柚月、どうかしたの?」
なんだか冷めた口調だったので、つい気になってしまった。
「え? 別になんでもないよ」
柚月がにっこり笑った。
「そっか。ごめんね、柚月」
単なる気のせいみたいだ。
気を取り直し、わたしはプログラムが記載されたパンフレットに目を落とした。
吹奏楽部の次は軽音楽部か。ロックのことはあまり詳しくないけど、吹奏楽部とはまた違った魅力がありそうだ。
しばらくすると、先ほどと同じようにアナウンスが流れ、再び館内が真っ暗になった。
静寂の中、舞台幕が音もなく上がっていく。
ステージには、二人のギタリストと一人のドラマーがいた。
ギターは二人とも男子だ。一人は体格のいい男で、学校指定のシャツを着崩している。もう一人のほうはメガネをかけた細身の男で、黒いクラスTシャツを着ている。
ドラムは女子だった。ここからだと見えづらいが、普段と同じく制服を着ているようだ。
ステージの三人はそれぞれ楽器を構える。
そして、軽音楽部の演奏が始まった。
一曲目はわたしがよく知っている曲だった。ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』だ。両親がビートルズの大ファンで、わたしは幼いころからビートルズの曲を当たり前のように耳にしていた。だから、演奏が始まった瞬間にすぐわかったのだ。
ドラムのビートにギターの音色とボーカルの歌声が乗っかり、ポップなメロディーを形成していく。二分ちょっとの演奏はあっという間に終わった。
正直、吹奏楽部と比べて下手な演奏だと思った。まあビートルズにはそれなりに思い入れがあるので、彼らに少し親近感を覚えたけど。
まばらな拍手が鳴り止むと、ドラムをたたいていた女子がおもむろに立ち上がり、マイクを通してしゃべり始めた。
「はじめまして、私たちは軽音部のものです。時間がありませんので手短にお話しますが、現在、わが部は廃部の危機に瀕しています。どなたか軽音部に入部してくださると、おおいに助かります。よろしくお願いします」
短いMCのあと、今度はわたしの知らない曲の演奏が始まった。
一曲目のときもそうだったけど、ギターボーカルの人はほとんどギターを弾いていない。歌うことに集中しているようだ。間奏部分で弾くギターもたどたどしい。もう一人のギターやドラムの人も、決して演奏は上手くない。
けれど――かっこいい。
彼らの演奏を観て、なぜかそう思ってしまった。
吹奏楽部とは違って、たった三人だけで演奏していたからかもしれない。われながらずいぶん子供らしい理由だ。
叫ぶように歌うボーカル。
主旋律を奏でるギター。
力強くたたき続けるドラム。
わたしの目には、三人の荒々しい演奏がとても魅力的に映った。
なにも持っていないわたしにとって、彼らの姿はとても眩しく、自由で、キラキラと輝いているように見えるのだ。
軽音楽部の演奏はたった二曲で終わってしまった。舞台幕が下がり、観客席に照明がつく。
吹奏楽部の演奏と比べて、観客の反応は明らかに冷めていた。
それでも、わたしの身体の中には、軽音楽部による演奏の余韻が強く残っていた。
「あんまり上手くなかったね、軽音部の人たち」
「そ、そうだね」
柚月に返事をしながら、わたしは密かに胸の高鳴りを感じていた。