第1話
※次回は今夜更新します。
一学期が終わり、待望の夏休みに入った。
わたしはドラムをたたくため、毎日のように軽音部の部室に足を運んでいた。
弦楽器のように家に持ち帰って練習することができないのが不便だけど、タダでドラムをたたけることに感謝するべきなのだろう。
それに、部室にはほかの部員だって訪れる。気軽に音合わせできることを考えれば、長い坂を上ってここまで来るだけの価値は充分にある。
七月末の今日、部室にはわたしと緒方の二人がいた。
彼と部室で二人きりでいると、つい勉強会のことを頭に思い浮かべてしまう。
本人の話によれば、緒方は無事に赤点を回避することができたらしい。勉強を教えた甲斐があったというものだ(わたしも赤点はどうにか免れた)。
あのときと同じく、今日もわたしたちは無言のまま楽器の練習をしていた。緒方は元々口数が多いほうではないので、わたしが黙っていれば自然とその場が静かになる。
だからといって、別に悪い気はしない。
静かなほうが、ドラムの練習に集中できるからだ。
それはともかく――この部屋は暑い。
表の部屋にはクーラーが取りつけられているけど、非常に効き目が悪い。リモコンで操作しても反応しないことが多々あるし、冷風が室内全体にまで行き渡らない。扇風機を併用しなければ、たちまち汗が滲み出てしまう。防音のため、むやみに窓を開けることもできないのだから、この時期は特にきつい。
現在、時刻は午前十一時過ぎ。これから日中にかけて、ますます部屋の温度は上昇するだろう。
「おはよう、二人とも」
部室の入り口から、寺島と相神さんの二人が顔を覗かせた。
そして、扉の奥にもう一人、中年の男が立っていた。見覚えのある顔だ。
「おはよう。おつかれさん」
中年の男が挨拶をした。
鈴原先生だ。ふくよかな体型で、歳はおそらく五十前後。濃いあご髭が特徴的だ。担当科目は化学。わたしのクラスの授業も受け持っている。
一年生の間では、生徒に関心を示さない先生として有名な人だ。生徒からの評判は良くも悪くもない。
「おはようございます、先生」
なにが目的でこんな特別教室棟の端にあるこの部屋にまでやってきたのかは知らないけど、とりあえず挨拶はしておくべきだ。
鈴原先生は部室にずかずかと入りこみ、室内をざっと見渡した。
「あー、俺は鈴原というものだ」鈴原先生があごに手を当てながらしゃべる。「今日から一応、軽音楽部の顧問になった。よろしくな」
ああ、そういうことだったのか。
「そうなんですか」わたしはドラムのイスから立ち上がった。「これからよろしくお願いします、鈴原先生」
「おう、よろしく。まあ、短い付き合いになるかもしれないけどな」
微妙に失礼なことを言う人だ。
「どういう意味っすか、それ」
緒方がケンカを売るような口調で言った。
「悪い悪い、つい口が滑っちまった。まあ仲良くやろうや」
緒方の文句を軽く受け流し、鈴原先生は飄々とした態度で部室をうろつく。
この人、煙草とか似合いそうだなあ――そんなどうでもいいことを考えていると、鈴原先生がわたしたちにたずねてきた。
「あのよお。顧問は本来、おまえら部員の指導や非行の監視をするのが役目なんだが――」
そこでいったん言葉を切った。
軽音部の四人は黙って鈴原先生の言動に注目する。
「――正直、俺がいても邪魔だろ?」
顧問とは思えない発言だった。
「どうなんだ、相神。部長の意見を聞かせてくれよ」
相神さんは若干戸惑いながらも、鈴原先生に返答した。
「邪魔とは言いませんが……四六時中居座られるのは嫌です」
それはそれで失礼な言い方だ。
「ちょうどいい。俺だっておまえらを常に見張ってるのは疲れる。なるべく干渉しないようにしてやるよ。それにしても相神――俺に軽音楽部の顧問を頼むだなんて、可愛い顔してなかなか抜け目ねえな」
「あの、どういうことですか?」
よくわからなかったので、わたしは聞いてみた。
「簡単なことさ」鈴原先生が説明する。「軽音楽部の廃部に関する話はすでに聞いている。相神はただ俺の名前を借りたいだけってことだろ。顧問がいなければ廃部になるんだからな。俺としても、頼まれもしないのにおまえらの指導なんてする気はない。そこまで考えて、俺に顧問の話を持ちかけてきたんだ。ほかの教師じゃ話がつかないだろうしな」
「そのとおりです、鈴原先生」相神さんは涼しい顔で白状した。「先生のことを信頼しているからこそ、この話を持ちかけたんですよ」
正式な顧問を迎え入れること――軽音部の廃部を取り消しにする条件の一つだ。そのことをすっかり忘れていた。
その条件をクリアするために、相神さんは鈴原先生に顧問の話を持ちかけたんだ。
「俺にはなんの得もないけどな。ま、これも可愛い生徒のためだ」
なんだかんだ言いつつも、鈴原先生は軽音部の顧問になってくれた。
生徒に関心を示さないというのは、ただの噂に過ぎないのだろうか。
「なにかあったら呼んでもいいぞ。話くらいは聞いてやる」
そう言って、鈴原先生は小さく笑った。