夏バテのセントラルパーク
同期の彼が僕より一つ上の役職に昇進したのは、もうずいぶんと前。自慢じゃないけど仕事は、僕だって同じくらい出来たし、結果だってその当時、寧ろ僕の方が出していて、おまけに僕の方が一つ年上であった。
だから彼が昇進した時は、とても悔しかったし、憎かった。だが、彼は僕の想像を遥かに越えて、更に更に僕の先へ登り詰めていく。もう背中に手が届かないくらい昇進した彼に、僕は部下として敬意を払うことにした。
人間とは成長するもので、嫉妬する自分が如何に醜いのかを考え、悔い改め、僕は改心し全力で彼のサポートに回ったのだ。
冷静になって考えてみれば、彼は僕と似ている。背格好から、顔から、過去の経歴、趣味特技。
強いて違いを述べるなら、彼は僕のような札付きの偽善者とは違い、部下に慕われ、上司に好かれ、敵を作るのが得意な僕とは、その一面でのみ正反対な人間であった。
初めから勝てる筈も無かった。
しかしだ。そんな僕だって捨てたものではなくて、今では立派に彼の右腕として、絶大な信頼を得ている。まあ逆に言えば成り下がって、甘んじている。
『夏バテのセントラルパーク』
夏真っ只中。ハリボテの大都会、名古屋市中区栄町。名古屋人のプライドと同じくらい高い超高層ビルが立ち並ぶハリボテの街である。
それを切り裂くように隔てる長細い公園が久屋大通公園。敷地内には、テレビ塔があり、百万ドルじゃ全然足りない夜景を一望出来る。
そのテレビ塔を中心にして、桜通りから、広小路通りまでの木々に囲まれたエリアをセントラルパークと呼ぶ。
会社の昼休憩、社内の食堂が嫌で、だけれど昼はどの店も混むので、朝コンビニで買ってきたパンを、よくそのセントラルパークのベンチに座って、もそもそと摂取するのが日課である。
明らかに仕事のしていない浮浪者、柄シャツを着たタチの悪そうな輩、人目も憚らず昼からイチャつくカップル。都会には田舎より幾らか色んな種類の人がいて、ちっぽけな僕など、誰の目にも映ることはない。
数年前までは弁当を作ってくれる彼女なんかいたりなんかして、「あれ? 今日弁当じゃないんですか?」って訊かれるのが嫌で、その頃から一人この公園に訪れ、ベンチに座って昼食を摂ることが多くなった。
孤独は寂しいもので、この頃からSNSなるものを始めてみたりした。
『最近、仲間が出来て嬉しいです』
僕が書いた高々一四〇文字足らずの投稿にコメントが来る。仲間ですか。そーいう暑苦しいの大好きですよ。本物の仲間には、言えないような秘密や苦しみを共有して、悪い気持ちはしない。だから現実がどんどん疎かになっていっても、ネットの『お仲間』ってやつが話し相手になってくれて、一人でも平気になった。
以前同棲していた元カノと別れてから、一人が兎にも角にも苦手になり、気が狂ったように人を求めた。可能なら役所も病院も、誰かに着いてきて貰いたいぐらいであった。しかし、いい歳した僕は、そんなことを人に強要してはいけないと解る程度には、大人であった。
そんな時のSNS。これはネットゲームを何百、何千時間とやる人の気持ちと同様なのかもしれない。僕はスマートフォン片手に一人昼休みを堪能することに、とても満足していた。
この時はまだスマートフォンに齧りついた僕の体力を、夏の暑さが、じりじり奪っていることに気が付かずにいた。
僕より先に昇進した彼のことを、便宜上“上司くん“と呼ぶことにするが、日々上司くんは、一個年上の僕にタメ口で話し、代わりに僕も業務が関係ない時はタメ口で話す。同期で長い付き合いなので、普段は敬語を使わない。
歳が近いので、わだかまりが無くなった今では、とても仲が良いと自分でも思う。
よく二人して飲みに行くし、仕事の愚痴だって言い合うし、社内のスタッフとカラオケでも行こうものなら、肩を組んで歌ってしまう。
とても良いやつである。僕より昇進したのも頷ける。
彼は僕を信頼していて、寧ろ友だと思っている節がある。だから色んなものを僕にくれる。去年行った新婚旅行の高価なお土産だとか、結婚して使わなくなった家財道具だとか。
だからそんな親切で、この日は彼の愛する妻が腕によりを掛けて作った愛妻弁当を僕に手渡してきた。
「いやぁ、夏バテでさぁ。食欲無いから妻に内緒で食べてくれない?」
僕のデスクに置かれるピンクのナフキンで包まれた可愛いお弁当箱。
「いつも、コンビニのパン食べてるっしょ。うちのが作ったから味の保証はしないけれども」
僕は凍りついた。この時、既に僕もまた、その噂の夏バテってやつを患っていたのである。食欲などあるはずもない。
しかしだ。彼は仮にも上司である。良かれと思って言ってくれているのである。愛妻家の彼が大事な妻の作ったお弁当を僕に譲ってくれるのだ。これを断っては信頼関係に傷が付くかもしれない。
炎天下の昼休み、いつものセントラルパーク、いつものベンチ。夏バテだからこそ、きちんとご飯食べなきゃな。と、意を決して、食欲も無いのに弁当の蓋を開ける。ご飯の上に現れる桜でんぶのハートマークにさっそく胃もたれする。吐きそうになる。
ーー夏なんだから保冷剤使えっつーの。あと傷み難いように梅干し入れるとかさ。
心の中で悪態を吐く。上司の奥方は僕もよく知っている。一昨年まで社内のマドンナであったアケミちゃんである。アケミちゃんは、去年上司くんとの社内恋愛の末、皆に祝福されるように寿退社した。
黒くなった唐揚げと、タコさんウインナーと、歪な卵焼き。見た目はよく無いが溢れんばかりの愛に、お腹がいっぱいになる。仕方なく唐揚げに箸を付ける。
「まっず。唐揚げ硬いし」
老化の始まりとも言うべき独り言が溢れる。周りには忙しなく行き交う人々。こんなにも人がいるのに、僕は一人である。一人はとても寂しい。
唐揚げは硬くて夏バテの胃では、消化が悪そうなので、よく咀嚼する。ゆっくりゆっくり味わう。
とても久し振りにこの味を食べた。懐かしいな。相変わらず料理は下手くそだな。浮かんでは消える過去の映像。一緒にテレビ塔から観た一大パノラマ。肩を組んで観た花火。三時間高速を走らせ観た、無限に広がるオーシャンビュー。
上司くんは僕に要らない物ばかりをくれて、大事なものばかりを奪っていく。
もしも上司くんが、僕とアケミちゃんが一年以上も、皆に内緒で付き合っていて、一緒に住んでいたことを知ったら、きっとこんな仕打ちはしないんだろうな。あいつは良いやつだから。
この夏バテが治れば、こんな気持ちも、僕の胃腸は消化してくれるのであろうか。いつになれば血となり肉となるのであろうか。
僕はこの何とも言えない気持ちを、早速SNSに投稿する。
『上司に愛妻弁当貰うなぅ。他人の愛妻弁当とか、まじないわ』
そしたら、
『きちんとお弁当箱洗って、ご馳走さまでしたと手紙を書きましょう』
と、ごくごく当たり前のアドバイスが来た。ああ、そうか。そんな当たり前のことが出来なかったから、僕は今一人なのか。
汗だくの顔。ハンカチで目元を重点的に拭い、僕はエアコンの効いた社内に戻る。手洗い場で入念に弁当箱を洗い、手を合わせ「ごちそうさま。美味しかったです。ありがとう」と、もう二度と会うことのないアケミちゃんに心の中で手を合わせた。
ひゃっふー。
前日談あります。
電信柱にくちづけを。
読んで(はーと)