第27話 小麦事件
第05節 小麦戦争 Round-2〔5/6〕
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カナン暦706年の夏。
この年は雨が少なく、酷暑と日照りが大地を襲った。
その影響は穀物の生育に顕れ、作付面積当たり収穫高対平年比は70%を下回った。
ビジアの四圃式農法実験農園とネオハティスの農園は畑地灌漑方式を取り入れていたおかげで平均87%程度であったが、農法指導をしていたサリアに言わせれば、対前年比125%を目論んでいたのだから、対予定収穫高比でみれば69.6%にしか達していない、ということらしい。
だが、この凶作被害が最も大きかったのは、他でもなくメーダラ領だった。
作付面積当たり収穫高対平年比、平均で約40%。農村によっては10%を下回ったところさえあったのである。
その上これまで穀物を買い漁られた結果、領内で備蓄・流通している穀物の量は、領民が生きる為に必要な量の8割に満たなかったのである。
しかも、そのうち半分以上は領主館が独占し、市場に流通(或いは個人が備蓄)する量は、残りの4割程度。
これにより、まず麦の値段が天井知らずに高騰した。平価の10倍、否20倍出してでも麦を入手したいという人もいれば、たとえ100倍の値を付けられても売ることは出来ないという商人もいた。それ以前に売りたくても麦の備蓄が無いという商人の方が大多数を占めていたのである。
中には麦が無いにもかかわらず空手形(売買約定書)を濫発し、受け取った金貨を持って領外に逃げようとした商人もいた。遠からず暴動が起こることを予見し、麦を抱えて領外に避難しようとした商人もいた。そして運よく販売出来るだけの備蓄があった為、平価の200倍という暴利で販売する商人もいた。
更には麦の値段が暴騰するに引き摺られて、ただでさえ高値を付けている領内の他の物資の値段も、軒並み春頃の10倍以上になっていた。つまり、領内の金貨の価値が相対的に低下していたのである。
それを見て、領内の金貨を商人ギルドの信用通貨『カーン』に換え、領外で再び金貨に換えれば実質的に大儲けが出来ると考える商人も出た。しかし商人ギルドは先手を打っていた。メーダラ金貨の、カーンへの換金に一定の制限を設けるとともに、その換金レートに補正を掛けた。一般の金貨であれば金貨一枚が1Cだが、メーダラ金貨に関しては0.05C程度としたのだ。
これにより、領外の商人はメーダラ領内でどんな商いをしても必ず損をするという状況に陥り、メーダラ領から離れて行ったのである。
ただでさえ少ない穀物・物資が、更に入手出来なくなった。
その為、一般領民は領外へ逃げ出すことを考え、それが出来ない農民を中心とした領民は、暴動を起こすことになる。まずは商人の商隊や備蓄倉庫を襲撃し、やがては領主の館を襲撃した。この暴動は、最初はあっさり鎮圧されたが、そのうち領兵たちも暴動に加わり、日を追うごとに騒ぎが大きくなっていったのである。
カナン暦706年の冬の二の月。
メーダラ領主は、ローズヴェルト公国に治安維持軍の派遣と物資の提供を依頼することになる。そして、メーダラ領内に駐屯したローズヴェルト公国軍は、そのまま占領軍となり、707年の春にはメーダラ領を公国に併合したのであった。
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「でも、凶作はどこの領でも同じなのに、なぜメーダラ領だけあそこまで悲惨なことになったのかしら?」
「それは、この世界の国家の年貢システムに問題があるんだ」
「……どういうこと?」
「年貢率は70%。良く言う話だけど、これは収穫高の7割を年貢として徴収するって話じゃない。翌年の作付けの為の種子の分を除いた、残りの7割っていう意味なんだ」
具体的な数字を出していうと、13の収穫があったのなら、そのうち3を翌年の作付けの為に除外し、残りの10のうちの7を年貢として納めなければならなくなる。
つまり、実際の収穫高に対する年貢率は53.8%なのである。
「ところが、豊作になるとどうか。たとえば、平年13の収穫があるところ20の収穫があった。この場合、作付けの為の3を除外した17のうち7割が年貢になる。つまり、年貢率は59.5%になる」
「……豊作になると、収穫高に対するの年貢率が上がっちゃうってこと?」
「その通り。また逆に凶作の時。平年13の収穫があるところ10の収穫しか無かったら?」
「作付けの為の3を除外した、残りの7の7割だから、年貢率は49%ってこと?」
「そこが問題。
収穫量を、実際より多く見せることは出来ないし、意味もない。だから豊作の時は実収穫量から年貢高を算出することになる。
けど、収穫量を実際より少なく見せかけることは出来る。収穫物を隠せば良いんだから。だから領主は、というより徴税官吏は、平年以下の年貢の量を認めない。つまり、出来不出来にかかわらず、最低7の年貢を農民に要求するんだ」
「え? でも、作付けに3必要だから、10の収穫しかない時に年貢に7取られたらあとは何も残らないじゃない」
「そう。そうなると、生活に必要な麦は、これまで何とか備蓄してきた分を切り崩すか、それが無ければ市場から買ってくるしかなくなる。けど、凶作だと麦の相場も高騰するからね。買う為には、場合によっては畑を売らなきゃならなくなる。或いは、自分の子供を奴隷商人に、ね」
「……どうにかならないの?」
「難しい問題じゃない。凶作の時、どの領でも10しか穫れていなかったということがわかっていれば、サリアが計算したような年貢率49%、っていう数字に落ち着く筈だ。
ところが、『作付面積当たり収穫高対平年比』という指標を使えるのは、今のところビジア領とネオハティスだけ」
「!」
「記録・統計の結果ではなく経験則だけで物事を測ると、こういう弊害が生じる。数学的素養が無ければ、これが当たり前になってしまうんだ」
収穫量が少ないのは、異常気象が原因か、肥料が足りないからか、農法が間違っているのか、抑々作付面積が小さいからか。或いは、収穫の一部を隠蔽しているからなのか。それがわからなければ、「いつもの通り」で済ませるしかない。そうすれば、少なくとも領主・貴族は困らないのだから。
「で、話は戻すけど、ここで俺の行った先物買いが効力を発揮するようになる」
「え?」
「たとえ凶作でも、今の例を取れば13の収穫高に相当する金貨が既に手に入っている。
凶作か豊作か問うまでも無く農民がさぼった結果で3の収穫量しかなくても、13の収穫高に相当する金貨を事前に受け取れるんだ。
豊作になっても実質の年貢率が高くなるから、領主様が喜ぶだけ。でも凶作になったとしても、7の年貢に相当する金貨を納めれば良いんだから、家族を人買いに売る必要が無い。
なら、誰が額に汗して作業すると思う? 13に相当する金貨を既に受け取っているんだから、あとは日がな一日遊んで、農地を荒れさせてても良いじゃないか」
遊んでいても金貨がもらえる。その結果、メーダラ領の農民は、麦を作らなくなってしまったのである。それが異常気象と重なり、40%という異常な低収穫量を実現してしまったのだ。
(2,992文字:2016/03/25初稿 2017/04/01投稿予約 2017/05/15 03:00掲載 2017/05/15誤字修正)
【注:畑地灌漑については、〔芦田敏文著『畑地における水利用の実態と畑地かんがいの効果に関する一考察 : 北海道北見市を事例として』1998、北海道大学農業経営学研究室〕(http://hdl.handle.net/2115/36527)を参照しています】
・ 畑地灌漑は、アディの入れ知恵です。サリアは西大陸時代、畑地灌漑を考えていませんでした。
・ メーダラ領の小麦を買い漁っていたのは、【ラザーランド商会】だけではありません。【ラザーランド商会】の行動から儲けの匂いを嗅ぎつけた同盟諸領の商人たちも、真似して予約買い付けを行っています。結果儲けることが出来た商人と、在庫を管理出来ずに時期が来る前に手放した商人、或いは参入が致命的に遅かった所為で、投下した資本(先払いした代金)が回収出来ずに身代を傾かせた商人とで、くっきり明暗が分かれています。
・ 中世ヨーロッパやファンタジー世界の税率は、「3割程度」「7割持っていかれた」と資料や設定によって様々です。現実の古代から近代までの税率で考えても、そもそも税制構造が未熟だった関係上、厳密な数字を出すことは出来ません。作中世界では、商人たちは利益ベースで課税され、それ以外は売上げベースで課税されます。なお農民の副業は無税です。
・ ちなみに、良心的な領主や徴税官吏は、凶作の時は年貢率引き下げ等の温情措置を取ります。が、領主がそれを決断しても徴税官吏が無視して差額をピンハネしたり、官吏が温情を掛けた結果その官吏が領主に処分されたりすることもあります。
・ 支援を要請されたローズヴェルト公国も、凶作ですから穀物の余剰はそんなに多くはありません。その為、ボルド市(より正確には【ラザーランド商会】など)から、平価の5倍近い値段で買い取って公国内の穀物の不足を補い、またメーダラへの支援に回すのです。
・ 第19話冒頭で語ったように、小麦戦争で戦死者は出ておりません。飢餓や疫病、〔星落し〕や内乱暴動の犠牲者や治安維持軍の活動の結果死亡した領民などは全て合わせると領民人口の三割に達しますが。
 




