第10話 滅びの理由~不生~
第02節 王国炎上〔3/4〕
「何故、なの?
どうして周辺諸国は同時に我が国に宣戦布告したの?
どうして国内の貴族の多くが王家に離反したの?
我が国はそんなにも邪悪な国家だったの?
王家はそんなにも疎まれていたの?」
ルシル姫が衝撃を受けるのも、わからなくもない。しかし。
「逆でしょう。フェルマールの外交は寛大であり、王家は善良でした。
だからこそ、周辺国は付け込むことを考え、国内の貴族は逆に王家を疑ったんです」
「どういうこと? 善良だから疑う? 訳がわからないわ」
「誠意を以て接すれば、相手も誠意を以て返してくれる。
よく言われる言葉ですが、これを文字通り受け止めてはなりません。
こちらが誠意を以て接したからといって、相手も誠意を以て返さなければならないという理由は無いのですから。これは、『自分が腹に一物抱えているのなら、相手に誠意を求めるな』『相手に誠意を求めるのなら、まず自分が誠意を見せろ』という程度の言葉なんです」
「では貴族たちの一挙手一投足を疑ってかかった方がよかったというの?」
「全面的に信じるよりも、誠意を以て疑う方が良好な関係を築く足掛かりになります」
夫婦関係に例えればわかり易い。
配偶者の行動の全てを信じて疑わない人は、配偶者に裏切られることが多い。
これは『疑わない』ことが即ち『無関心である』と相手に認識されてしまうからである。
その場合次に来るのは、相手を『試す』ことだ。
小さな火遊びをし、それを見咎められて窘められれば、寧ろそれで安心する。
しかしその火遊びに気付かれなければ、それはどんどんエスカレートし、やがては取り返しのつかない絶望的な溝を掘ってしまうのだ。
「俺は、マキア王国が特殊な例だと思っていました。
300年前の屈辱を胸に秘め、フェルマールに一矢報いる為に忍辱の日々を過ごし、また善良な顔でルシル姫に近付いてその心を奪い、国を滅ぼさんと目論んでいた、と。
俺は、ベルナンド辺境伯が特殊な例だと思っていました。
ベルナンド辺境伯が王家の目を掻い潜り、蓄財し、享楽の限りを尽くしていたのだ、と。
だけど、違ったんです。
フェルマールは能天気な程に他国を信用し、だから全ての国に背を向けられていても気付かなかった。
王家は盲目的な信用を貴族たちに向けていたから、その不正も内応も察知し得なかったんです」
と、ここまで言った時、傍で聞いていたサリアが、場違いながらも手を挙げて発言した。
「ねぇアレク君。この場で言うのも何だけど、フェルマールって前世のあの国に似ていない?」
「似てない。
国民が平和ボケしていたあの国と、王家が平和ボケしているフェルマールは全く違う。
国民が平和ボケしていられるのは、政府が民の見えないところで血と汗を流しているからだ。けど王家が平和ボケしていれば、血を流すのは民になる。
サリアは、あの国の憲法の前文を覚えているか?」
「えっと、流石に全部は覚えてないわよ。『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』ってフレーズは覚えているけど」
「そのフレーズで充分。
多くの人は、そのフレーズを『他国の民も平和を愛しているんだから、その国の政府は公正と信義に基づく外交を行うと信頼している』と解釈する。だから現実無視の平和憲法と嗤われることになる。
だけど、『信じることは誠意を以て疑うこと』と考えると、その意味はまるで逆になる。
あの国は軍事に拠らず、外交と経済で国際社会を泳ぎ抜くことを決めた国だ。それは諸外国に対する盲目的な信用とは、真逆の方向性でありながら、憲法の精神そのままの在り様でもあるんだ」
「そんな考え方、初めて聞いた」
「仏教には『不生』っていう考え方がある。
これは『心に雑念妄想を生じさせない』っていう意味だ。般若心経に『不生不滅、不垢不浄、不増不減』ってフレーズがあるだろう? 『(心に)何も生じず何も減じず、垢もなく清浄なるもなく、増えもせず減りもせず』、それが悟りの境地だって言っている。
また、盤珪禅師っていう江戸時代の偉い和尚さんが説いた禅の道に、『不生禅』っていうのがある。悟りを開く為の方法の話としても解釈されるんだけど、これは『不生』を貫くのはまず無理だから、なら生じたものを一つずつ否定していけば良い、という教えなんだ」
たとえば『真実の自分を知りたい』と望むのなら、『自分とはどういう人物なのか?』と問い続ける。それで出た答えを、片端から否定していく。人間は色んな顔があるのだから、『俺はこういう人間だ』という答えには必ず否定出来る要素がある。これを無限回繰り返せば、本当の自分に行き当たる、ということである。
「仏教、それも盤珪和尚の属していた臨済宗は、幕府とも縁が深い。つまり、統治者に必要な心構えをも説いているんだ。
この『不生禅』の考え方で専制君主主義国家の統治を考えたとき。信用する貴族がいるというのなら、その“『信用出来る』という考え”(生じたもの)をまず否定する。そして誠意を以て疑う。その疑いも否定された時、漸くその相手を『信用出来る』。それを無限回繰り返すのが、君主に求められることなんだ」
「だが、配下の貴族を疑うのは、騒動の種にしかならないのではないか?」
いきなり始まった憲法論や仏教論に目を白黒させていたシルヴィアさんだったが、それでも話が君主論になり、理解出来る内容になったからか、言葉を挟んできた。
「仲良し倶楽部じゃないんだから、和やかな関係を維持する必要はないでしょう?
マキアに対し最友好国などという言葉に甘えず誠意を以て疑っていれば、もっと早くに『300年の毒』に気付けた筈。そうすれば、もっと穏便に解決することも出来たかもしれないし、少なくとも軍事衝突は避けられた。
ベルナンド辺境伯に対し誠意を以て疑っていれば、領軍の粉飾と国費の横領を見つけ出すことが出来た筈。そうすれば、開戦に至ったときに兵がいない、等というくだらない問題にはならなかった。否それ以前に充分な戦力を保持していれば、マキアだってそう簡単に開戦に踏み切れなかった筈なんだ。カナリア公国が20年以上もロージス地方に再侵攻出来なかったように。
疑って、それが宮廷での騒動の種になったとして、その結果戦禍を遠ざけることが出来るのなら。王家として取るべき道は、どちらが正しいかなど、問うまでもないでしょう?」
(2,887文字⇒2,550文字:2016/01/07初稿 2016/11/30投稿予約 2017/01/01 03:00掲載 2022/06/06複数の誤字衍字修正)
【注:日本国憲法(昭和二十一年十一月三日憲法)前文より引用。なおその解釈は筆者の独自見解です。
ここで使われる『忍辱』という言葉は、仏教の六波羅蜜に謂う『忍辱』ではありません。
般若心経は、正しくは「摩訶般若波羅蜜多心経」といいます。
盤珪永琢1622.4.18~1693.10.2、臨済宗妙心寺派の僧侶。諱は永琢。字は盤珪。諡号は仏智弘済禅師・大宝正眼国師。なお『盤珪禅師』という呼び方は正式なものではありません。また『不生禅』についての解説は、盤珪永琢の言葉そのままではなく、後世の解釈の一つです】
・ なお、同じく臨済宗の僧侶である至道無難禅師は、「殺せ殺せ 我が身を殺せ 殺し果てて 何もなき時 人の師となれ」と教えています。「信じる」という心さえも甘えの一つと喝破しているのですね。
・ サリア「般若心経の内容なんか、普通知らないわよ」




