第11話 伝説のはじまり
第02節 カンタレラ戦争〔7/7〕
(今回はグロ注意です)
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夏の一の月、二十二日。夜明け前。
予言されたとおりに、風が吹いた。
海の湿った空気を大量に含んだ、強い風が、北西から南東へと。
その風は、何故かマキア軍の陣の直上で、上昇気流へと転じた。
一般に、暖かい空気は上に、冷たい空気は下に集まる。
その為、強い上昇気流の起こる場所では、急激に気温が低下する。
夏の一の月の下旬とはいえ、まだ肌寒い頃。この日早朝、マキア軍の陣中の気温は氷点下にまで下がっていた。
そんな時に、ルシル王女の氷雪魔法が発動した。
王女にとって今までで最大の魔力を込めた、氷雪魔法。
冬の竜の山を連想させる、極低温を顕現させた。
その温度は、氷点下十数度。防寒対策をしていなければ、たちまち凍死するレベルの寒さである。
だがそれさえも、その後に起こった出来事から見れば、児戯としか言いようがなかったかもしれない。
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風の流れを制御して、敵陣上空で西風を上昇気流に転じさせる。
これにより、空気が必要以上に圧縮されることはなく、その気圧は大凡1.2気圧(1,200hPa)程度に維持される。
そして、王女の氷結魔法を隠れ蓑にし、先日『ベスタ大迷宮』でスライムロードを屠った〔冷却〕を発動させた。
先日は気圧を高めた一方で気温そのものはマイナス56.6度Cまでしか下げなかった。液化炭酸ガスの気化熱で、必要温度まで自動的に下がることがわかっていたからだ。
だが今回は、一気にマイナス80度C以下まで冷却する。
氷点下80度C。
「吐息が凍るような寒さ」という表現があるが、それは正確には、吐息に含まれる水蒸気が凍る程度。だがこれは、呼気の中の二酸化炭素が直接ドライアイスになるほどの寒さである。
この空気を吸ったら、人間はどうなるか?
外気温が低い時、人間は意識してか無意識でか、肺を痛めることの無いように一旦口腔内で吸気を温める。しかしこれ程の低温だと、吸気が温まる前に口腔内の唾液が凍結する。すると呼吸が出来なくなるので、その前に酸素を求めて気管が開かれる。結果、極低温の空気は極低温のまま肺の中に流れ込む。
極低温の空気を肺の中に受け入れてしまえば、まず肺の中の水蒸気が凍結し、また肺細胞内液も同様に凍結する。凍結することで体積が膨張した細胞内液が細胞膜を破壊し、肺のガス交換機能が停止する。
そして、肺(気管)並びに皮膚表面に触れている体液が順次凍結し、破裂する。また、肺に隣接した内臓(心臓他)は、その機能維持に必要な体温(約20度C)を維持出来ず、働きを止める。
最後に循環が止まった血液は、皮膚直下で鬱血したまま凍結し、皮膚の内側から裂けることになる。
その極低温となった爆心地から少し離れた場所。そこもまた、安息の地とは言えない。
空気中の水蒸気が氷結しダイヤモンド・ダストとなり、それが人間の皮膚に触れると体温で融け、しかし外気に触れて再び凍結する。これが延々繰り返され、その人の体は真っ白な氷柱に包まれる。
ダイヤモンド・ダストが皮膚で融ける瞬間、気化熱が体温を奪う。次の瞬間また凍結し、それが皮膚で気化して更に体温を奪うのだ。それが際限なく繰り返されれば、当然生命活動に必要な体温を維持出来なくなり、意識を喪失する。
すると、(無意識で魔力その他を使い)生存の為に行っていた様々な活動が、意識の喪失と同時に途切れる。あとは凍死を待つばかり。とはいえ十秒程の時間も要しないだろうが。
更にそこから離れた場所なら、運が良ければ命は助かるだろう。が、末梢組織は凍傷で崩れ落ち、体幹の皮膚も裂けしかし表面が凍ることで出血さえせず、そして凍結している為治療魔法も受け付けない。
実際、その極低温の地獄が展開されたのは、ほんの二分足らず。
だが、その地に人間が足を踏み入れることが出来る程度に気温が回復するまで、大凡四時間かかった。
最初に吹いていた風は、俺の【気流操作】で加速させた。
しかし、この極低温の地獄を展開してからは、更に風を強める必要があった。何故なら、冷気の伝播が俺の想定以上に速く、フェルマール軍陣地の気温も下げ始めたからである。
自軍陣地の空気は〔加熱〕で温め、冷気の伝播に対抗した。
己の発動させた魔法の余波から身を守る為に、別の魔法を全力で展開しなければならないというのは、かなり間抜けだが、まぁ仕方がないだろう。
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一体、何が起こったのか。
ルシル王女は確信していた。これは、自分の行った魔法の結果ではない、と。
氷結魔法――冷却魔法――を使えば、モノが凍る。そんなことは誰でも知っている。
しかし、氷の柱になるのではなく、どす黒く変色した肉の塊になる。何故そうなるのか、想像さえ出来ない。
寧ろ、直撃を免れた敵兵の遺体の方が、純白の氷の柱になっていることから、氷結魔法の影響だと認識出来る。
魔法を終了した後に、背後から吹く風がいきなり暖かくなったことも、理解し難い。
総じて、これは自分の魔法の結果ではなく、何か別の要因が加わったに違いない。そう思えてならなかった。
だが、その他の兵や将軍たちにとってみれば、これはルシル王女が使った氷結魔法の結果と認識した。
氷結魔法最上位、〔酷寒地獄〕。
神話級魔法ではないものの、実現不可能とされる魔法。
フェルマールの王女は、氷結魔法を極めた神子だった!
太陽が中天に位置した頃、ようやく冷気が収まり、現場を検分出来るようになった。
だが、生存者の有無よりも、犠牲の規模よりも、ただ一発の魔法で戦争を終わらせた。
その事実だけで、充分だ。
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このヴィッシンズの戦いに参加したマキア王国軍の総数、正確には40,533名。
内、戦死者28,111名(第三王子含む)。
重傷者9,864名(凍傷に因る手足指切断等。予後不良による後日死亡者も含む)。
軽症者2,546名。但し寒さの為すぐに戦える者は皆無。それ以前に、この惨状を見てなお戦いたいと思う者はもっといない。
斥候の為現場を離れていた12名だけが、無事だったという。
対してフェルマール軍は、参加総数18,197名。被害なし。
参加兵の内訳は、ルシル王女麾下王国騎士団3,011名、リヒト王子麾下増援軍10,326名、ベルナンド辺境伯領軍3,025名、冒険者・傭兵混成部隊1,211名、輜重隊421名。
このヴィッシンズの戦い以前の段階で、ルシル王女麾下の騎士団は約25%が戦死または敵軍の捕虜になった。
辺境伯領軍は同じく約5%が戦死その他行方不明となり、45%程度が脱走したとのことだった。
そして傭兵部隊は約40%が戦死その他行方不明となっている。
(2,928文字:2015/12/10初稿 2016/09/01投稿予約 2016/10/13 03:00掲載 2016/10/13誤字修正)
【注:ちなみに、1気圧=1,013hPaで計算しています。また二酸化炭素の凝固点はマイナス79度Cです】
・ 外気温より体温の方が高ければ、皮膚に氷が付着して最終的に氷柱のようになりますが、内臓温度が外気温と同じ程度になれば、皮膚内外で温度差が生じないので(雪が降り積もることはあっても)皮膚表面が凍り付くことはありません。
・ 作中で「生命維持に必要な体温は約20度C」と表記しておりますが、30度Cを下回ると意識レベルが低下(血液の循環に支障を来す)し、更に25度Cを下回ると筋硬直が生じます。言い換えると、内臓温度が20度Cを下回ったら最早回復不能です。




