第9話 ニンゲン
とある小川の畔。
木漏れ日が水面に反射され、輝々と煌めきを放つ。
人気のないそんな森奥の片隅で、少女が一人静かに呼吸を整えていた。
金色の髪は毛先が肩にかかる程度の長さだが、前髪が幾分伸びていて目の辺りを覆っている。
「……《魔力纏繞》」
そして凛とした声で一度呟く。
瞬間、見えない波動のようなものがくすんだ空気を伝播し、次に透明の膜が少女の身体を包み込む。
――魔法。
今しがた少女がやって見せたのは魔法の詠唱である。
魔力纏繞、それは身体的能力を底上げする効果を持つ魔法の一種で、世界では広く一般的に無属性魔法と呼ばれる類の魔法だった。
しかし無属性魔法は非常にポピュラーで、誰にでも使うことが可能な魔法で有名だが、少女が纏ってみせるソレは明らかに平凡とは一線を画している。
乱れの一切ない魔力の波長。
凄まじい密度で込められた魔力。
魔法の才、この世界で生き残る為に最も必要な才能の一つを、その細身の少女はたしかに有していた。
「……集中」
しばしの静寂の後、再び紡がれる言葉。
迸る魔力が少女がおもむろにかざした手に集まっていく。
やがて清流のような魔力は質量を持ち、圧倒的な力を具現化させる。
「《フレイムオペラ》」
――バチィッ。
しかし顕現したはずの暴力は凄まじい光と熱を放ちながら刹那に雲散してしまう。
穏やかに下っていく小川の水が弾け飛び、少女の不精な前髪も風に煽られる。
そして張り詰められていた無色の魔法も解か消えてしまった。
「……はぁ、また失敗か」
緊張を失った少女は、憂鬱そうに溜め息を吐く。
髪の裂け目から辛うじて覗く灰色の瞳には落胆が浮かんでいた。
フレイムオペラ。
その今しがた発動に失敗した火属性上級魔法こそが、少女の嘆息の理由に他ならない。
火属性魔法は無属性魔法とは違い、誰にでも使えるわけではなく、上級魔法に至っては使用できる者を探す方が困難だろう。
(思ったより難しいな……上級魔法ぐらいは使えるようになりたいんだけど)
上級魔法ぐらいは、そんな風に少女は考えるが、この思考は一般的なものでは決してない。
魔法には階級が六つあり、下から基礎、下級、中級、上級、轟級、絶級とある。
この中で基礎魔法は人間ならば使えない者はいないとされるが、一つ階級が上がるだけで、途端に使える者の数が減ってしまう。
轟級を扱える人間となると世界でも片手で足りてしまう程度しかいず、絶級に至っては現在使い手の存在が長く知られていなかった。
「よお、小さな魔女。今日もせいが出るな」
そしてふいに少女の背中へ声をかける者が一人。
木の影から姿を見せたのは背の高い紅髪の男で、人懐っこい笑みを浮かべながら少女へと近づいていく。
身体を男の方に向き直し、少女は口を開き彼に言葉を返す。
「ああ、どうもアルタイルさん。突然どうしたんですか? こんなところに来るなんて暇人なんですか? それともこの人気のない場所でか弱い乙女を襲いたくなるほど飢えているんですか?」
「ば、馬鹿野郎。そんなんじゃねぇよ。お前は俺を何だと思ってんだ?」
「冗談です。それで要件は?」
「お前…………」
小さな魔女、そう呼ばれた少女の捲し立てる早口に男――アルタイルは言葉を詰まらせる。
だがそれも彼にとっては初めではなく、慣れたことなのでそれ以上余計なことを喋る気にはならない。
「……まあいい。俺がお前を呼びに来る要件なんて一つしかない。そうだろ? 小さな魔女?」
「はぁ……またですか? 最近本当に多くなってきましたね。いよいよ人間という種の終わりも近そうです」
小さな魔女、アルタイルは少女のことをそう呼ぶが、魔女、それに魔法使いという呼称にはきちんとした意味がある。
魔女や魔法使いという呼び名は、そのまま魔法を使える者に対して使用されるものだが、魔法という現象そのものと、人間が通常魔法と呼ぶものは微妙に違う。
この世界で人間は一般的に魔法という言葉を、下級以上の魔法にのみ使うのだ。
それは基礎魔法は全ての人間に使えるが、下級以上になると使用できる者が一気に限られるのが理由であり、つまるところ魔女や魔法使いという呼称は下級以上の魔法を行使できる者にしか使用されない。
「その通り。村の近くにまた出たらしいぜ。“カガリビト”が」
「カガリビト…生命を喰らう者ですか。闇の三王なんていうふざけた力を持つ魔物に加えて、人間と魔物、生きるモノ全てを等しく憎む異形の怪物。まったく厄介な時代になったものです」
「同感だな。噂ではそろそろ闇の三王の一柱がカガリビトに落とされそうって話だ」
カガリビト、また一部では生命を喰らう者と呼ばれるモノ。それはある時、突如世界に出現した異形の怪物のことだ。
ディアボロの篝火なる三つの天穿つ炎を目指し彷徨い歩くとされるカガリビトは、現在人間にとって魔物より遥かに怖ろしい存在になっている。
魔物はたしかに危険だが、そのテリトリーを侵しさえしなければ人間に基本的に害をなすことはない。
しかし、カガリビトは違う。彼らはありとあらゆる場所に現れ、全ての生きとし生ける者を殺し尽くそうとするのだ。
「それで、今回のカガリビトは名付きですか?」
「ああ、辛うじて生き残った目撃者によれば“隻眼”のカガリビトだそうだ」
「うわ……最悪ですね。推定レベルはいくつでしったけ?」
「推定レベルは20。だがこれはちと古い情報だからな。下手をすれば20後半に差し掛かってるかもしれない」
「レベル20オーバーとか。これは死にましたね。さすがの私たちも今回は死にますよ。無理です。逃げましょう」
少女のあまりに率直な意見にアルタイルは思わず笑ってしまう。
レベル、これは人間にも魔物にもないカガリビト特有の概念だ。
その仕組みは不明だが、カガリビトは命を奪えば奪うほど力を増していく。
カガリビトの身体のどこかには必ず数字が刻まれていて、その数字を人間はレベルと呼び、数字が大きければ大きいほど、レベルが高ければ高いほど、カガリビトは強大な力を持つという。
少女がこれまで闘ったことのあるカガリビトで最も高いレベルが18であり、その時は共に戦った者の九割が死に、少女は両腕を複雑骨折をしてなんとか生きながらえていた。
「心配するなって。いざとなったら、お前だけでも逃がしてやるから。まあ、逃げた先の保証はできねぇけどな」
「逃がしてやるって、アルタイルさん大丈夫なんですか? たしか“隻眼”は剣を使うんですよね? アルタイルさんが一番苦手な相手じゃないですか」
「お前絶対俺のこと馬鹿にしてるだろ? 俺は剣士だぞ? 怪物ごときに剣の腕で負けてたまるかってんだよ」
「たしか“隻眼”は気性も荒いんですよね。はぁ、嫌だな。戦いたくないなぁ」
「おい、無視すんな」
アルタイルは剣士だ。しかもその腕は彼らの暮らすこの付近一帯でも一二を争うもので、彼の名前、アルタイル・クリングホッファーは剣を扱う者の中では知られた名でもある。
しかしそれでも少女は今回の闘いに不安以外を抱けない。
“隻眼”。それはカガリビトの中でも特に凶悪な個体として仇名を与えられるほど強力なモノ。
レベルも対峙したことのない高レベル。
安心できる要素は少女にとって自分の実力とアルタイルの腕を考えても、作り出すことができなかった。
「はぁ、では全然、まったくもって不本意ですが、村長のところに向かいましょう。ジャノも来るんですよね?」
「たりめぇだろ。他にもカルロスやザッピアーノにも招集がかかってる」
「ホグワイツ村フルメンバーですか。まあ、当然ですかね」
ホグワイツ村。自らが住む村の名だたる実力者たちも呼ばれていることを知り、ますます少女はやる気を下げる。
力ある者が集まれば集まるほど、激しい戦いを招き寄せることになると知っているからだ。
「骨と皮の化け物に見せてやろうぜ。ニンゲン様の力ってもんをよ」
「見せられる力があればですけど」
そして少女はアルタイルを連れ添って、森の暗がりの中へ消えていく。
ディアボロ、そう呼ばれるこの世界では今、人間、魔物、そしてカガリビトが入り乱れ、互いの血を流し合う時代が続いていた。
***
【Level:?/Ability:?/Gift:?/Weapon:?】