第8話 ディアボロの篝火
「はっ……ふざけろってんだよ……」
普段はそうでもないのに、今は右手に持つ朱剣がやけに重く感じる。
不細工な面を醜く歪ませながら、こちらへ迫るゴブリンたち。
俺の後ろにいるのは驚異的な脚力を持つエビだけ。
一難去ってまた一難。片目を潰してしまったのもかなりの足枷だ。
しかしまたもや、選択肢は一つしかない。
「シュリンプギュルゥ……」
情けないエビの鳴き声を聴きながら、俺は静かに闘志を燃やす。
せっかくあの化け物との戦いを生き延びたんだ。それなのにこんなザコの数に負けるなんて、俺の骨と皮のプライドにかけて許されない。
幸か不幸か、今回はまだ意識がある。
立ち上がることができない? 片目が見えない?
そんなことは関係ない。
剣はまだ俺の手の中にある。
それだけで十分だ。
「エビ、すまないが、もう一度だけ俺の足になってくれないか?」
「シュリンプギュル」
俺の言葉に合わせ、身体がぐっと持ち上げられる。
物わかりの良いエビだ。
今の俺は肩車のような体勢。
腕は辛うじて動く。
まだ、俺は戦える。
「この場所に留まっても、囲まれて袋叩きにされるだけだ」
「シュリンプギュ?」
「だから俺たちはこのゴブリンの荒波を掻き分け、真ん中を強行突破する。目指すは洞窟の外。一気に駆け抜けるぞ」
「……シュゥ、リンプギュル」
はぁ、仕方ないわね。そんなニュアンスを含んだ溜め息をエビが吐く。
それに対し俺も空気の出ていない荒い呼吸を整え、まだ見ぬ光に視線を向けた。
「キヒャッ!」
そしてついにゴブリンの群れの一匹が飛び出してくる。
動きは緩慢で、目で追うことはやはり可能。
問題なのは、この尋常ではなく重たい自分の腕だけだな。
「邪魔だ」
まずは挨拶がてらに軽く袈裟斬り。
斜めに一刀両断されたゴブリンの血膜を突き抜け、そして俺たちは走り出す。
「邪魔だ邪魔だ邪魔だ邪魔だぁぁっっっ!!!!!」
「シュリンプギュルゥゥゥゥッッッッッ!!!!!」
死角から飛び出してくる緑の顔面。それを素早く横一線に薙ぎ払う。
続いてエビの軽やかなステップ。ゴブリンの頭上を飛び越えながら、着地の度に俺が大輪の血花を咲かせる。
朱剣を振り回すと骨が軋み、身体が悲鳴を上げる。
だが、それでも。
この腕が砕け散ろうとも、剣を奮うことを止めるわけにはいかない。
「おらおらおらぁぁっっっ!!! どうしたどうしたそんなもんかぁっ!?!?」
「キヒャァッ!」
濃灰の霧に覆われた視界の中、動く影を反射で切り刻む。
もはや剣閃に手応えはなく、壊れた機械のように腕を動かすだけ。
段々と周囲の音も遠のいて行き、まだエビが走り続けていることが時折り感じる浮遊感でのみ確認できた。
感じる。感じるんだ。
混濁した意識の中、湧き上がる生への渇望だけを頼りに肉壁を斬り崩し続ける。
だけど少し不思議だ。
俺はこんな身体になる前、以前の世界にいた頃は、これほど必死で生きていただろうか。
死にたくない。生きたい。
生きたいなんて強く思ったこともなかったが、死にたくない、そんな感情を抱いたこともなかったはず。
骨と皮だけになって初めて、俺は自分の意志で生きているというのだろうか。
面白いこともあったものだな。いや、別に面白くはないか。
「俺は、俺は、俺は……」
気づけば全身が酷く濡れている。
俺の血か。いや、今の俺には血は流れてない。
そうか。ならきっと、ゴブリン共の返り血だろう。
実に気分の悪いもののはずだが、感覚が鈍く別に何とも思わない。
「――生きたい」
もはや自分がまだ剣を握っているのどうかもわからない。
真っ白な世界で一人宙に浮いているような、心地良い幻想に包まれ、そして俺はそのまま流れていく時に身を任せた。
――――――
「……んあ? ここは……俺はたしかゴブリンと……」
覚醒は唐突で、意識は宙を彷徨ったまま。
薄っぺらな頬に優しい風が当たる。
相変わらず半分が暗い視界には、幾何学模様があしらわれた天井が見えていた。
背中の感触からして、俺は今の今まで仰向けになって寝ていたらしい。
身体はまだ骨と皮のままだが、とりあえずは助かったのだろうか?
ミシミシと音のする身体を起き上がらせる。
記憶の最後は、エビに肩車されてゴブリンの大群を血塗れになりながら掻き分けていく光景。
しかしそこから先の記憶がまったくない。
あの後どうなったのか。いつ自分が気を失ったのか。まるで思い出せなかった。
「だいたいエビはどこ……って眩しっ!?」
するとその時、突然闇に慣れきっていた俺の瞳が光に焼かれる。
やたら久し振りに感じる強烈な光明。
次いで俺を照らす白光の方に視線を向けると、俺は驚きのあまり言葉を失う。
「あ、あれは、太陽?」
まだ淡く灰白を被ってはいるが、たしかな青さを覗かせる広大な景色。
その青の向こう側には、眩い光を燦々と放つ巨大な球体。
吹き込む風は、澄んだ空気を運んでいる。
これが、ディアボロ。今の俺が生きる世界。
光と反対側を見てみれば、そこは果てしない闇が続くのみ。
間違いない。
俺はついに洞窟内の出口に辿り着いたのだ。
「……シュリンプギュルゥ?」
「お! エビ! お前も無事だったのか!?」
ふいに聞き慣れた特徴的な鳴き声がするので、そちらを向けば絶世の美脚を持つエビが寝転がっていた。
どうやらエビも寝ていたらしい。
「ありがとな。エビ。お前が俺をここまで連れて来てくれたんだろ?」
「シュリンプ。ギュルル」
別にいいのよ。気にしないで。おそらくエビはそう言いたいのだろう。なんともクールでいかすシーフードだ。
俺がまだこうやって生きているということは、無事にあのゴブリンウォールを突破することができたのだろう。
注意を自分の身体に向けてみれば、たしかに麻色だった俺のローブも見事に真っ赤に染まっている。
ここまで綺麗に染まると、まるで元からこういう色だった気がしてくるな。
なるほな。あれが噂の篝火とやらか。たしかに俺が目覚めた場所にあったやつとは別物だ。
そして洞窟の暗路から風吹き込む外へ近づき、改めて新鮮過ぎる景色を見渡してみると、太陽らしき発光球体とは別に、天に立ち昇るものが見つかる。
血よりも赤く、時折り空より深い蒼を煌めかせる、超然的な炎。その焔は天を貫き、果ては見届けられない。
ディアボロの篝火。
火焔の数はちょうど三つで、湖の少女が言っていた通り。
理由はわからないが、自然と心惹かれ、火の輝きに見入ってしまう。
「篝火を辿れ、名もなきカガリビト……か」
少女の言葉が明瞭に思い出される。
あの炎に辿り着くことができれば、俺は元の世界に、生者に戻れる。
たしかにこれは迷いようがなさそうだ。
ここからだ。俺の生きるための旅は、ここから始まる。
足下に落ちていた朱色を刃に滲ませる剣を手に取る。
すいぶんとスタート地点に来るまで時間がかかってしまったが、それもまあいいだろう。
「待ってろよ、ディアボロの篝火。俺の名前と身体、返して貰うぞ」
俺はとうとう洞窟の外に、未知の世界へ足を踏み出す。
背後ではペタペタと俺に続く足音が聞こえる。
神々しいまでに燃え盛る三つの篝火を瞳に映したまま、知らない青空の下、そして俺は長い長い旅に出る。
***
【Level:18/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護/Weapon:不治のポイズンアッシュ,狂気のローブ】