第44話 亡き者の火―2
もう悠久の時は発動させていないのにも関わらず、なぜだか世界がやけにゆっくりに感じる。
視線の先では夜の王とかいう奴が、これはどうして好戦的な目で俺のことを見つめていた。
全身は霧のようなもので覆われていて、というより霧そのものみたいだ。
たしかドネミネはソウルに夜の王に傷をつけろと言ったらしい。
倒せではなく、傷をつけろ。
その少し変な言い回しが気になっていたが、理由がやっとわかった。
おそらくこの化け物は実体を持たない、幽霊みたいな存在なのだろう。
俺がいくら剣を振るってみても、まるで意味をなさない。
勝機は薄いを超えて、間違いなくゼロだった。
「おい、無視するなよ、カガリビトォ? お前がたった今壊したオレの身体は、ああ見えて頑丈にできてたんだ。それをお前如きが、どうやって壊した? 別に怒ってるわけじゃない。純粋に疑問なんだ。だから答えてくれよ、オレがお前を殺す前に」
もう夜の王に足はない。
ゆらゆらと朧げに漂う、濃密な死の気配が剥き出しのまま俺に近づいてくる。
ふと視線を動かしてみれば、胸を抉られたアルタイルにミヤが駆け寄り魔法で傷を癒していた。
よくあれだけの傷を受けて、あの阿呆はまだ生きてるな。
自分のことを棚に上げて、俺は暢気にそんなことを考える。
「なァ? 無視するなって、言ってるだろ?」
「がぁ……っ!?」
突然の痛みに、掻き消される俺の半ば現実逃避めいた思考。
まるで心臓に直接爪を立てられたような激痛に、俺は意識を飛ばしそうになってしまう。
すぐ目の前に見えたのは、温度を感じさせない美麗な男の顔。
縦に開いた瞳孔は血のように赤く染まり、病的に白い肌は微かに透けている。
夜の王の右腕の手首から先が俺の胸に埋まっていて、そこを中心に筆舌しがたい痛みが身体中に伝播していた。
「その手をどけろ、夜の王」
しかしその時、白い閃光が二つ走ると俺を支配していた痛みが一時的に消える。
霞む視界に見えるのは、黒い髪を床まで伸ばした細長いシルエット。
振り向かれた形相は骸骨の如く怖ろしかったが、その眼空で煌めく白銀の光に俺はなぜか安堵を覚えた。
「驚いたな。お前らにも同族として仲間意識があるとは思わなかった。心も知の欠片もない、ただ目障りなだけの死にぞこないだと思っていたぞ」
嘲るような言葉を吐く夜の王は、侮蔑の表情を隠そうともしない。
さっきの白い閃光は、きっと今俺の前にいるソウルが放った斬撃だったのだろう。
だがそれでも夜の王にはやはり傷を与えられなかった。
完全に詰みだ。
俺は自分を見つめるソウルの視線の意味に見当をつけられない。
「剣を持て、カガリ」
「え?」
そしてすでに右腕を失っているソウルは俺にもまだ戦えと言う。
まだそれほど長い付き合いではないが、ソウルが馬鹿ではないことはわかっている。
なのになぜ、ソウルはまだ夜の王に抗おうとしているのかわからない。
「ここまでは私の予想通りだ。貴様は私の期待通り、いや期待以上の力を見せ、夜の王の本体を引き摺りだした」
「褒めてくれてありがとよ。でも意味ないだろ、そんなの。俺が引き摺り出したあいつの本体には実体がない。傷はつけられない。戦う術がないんだから」
「いや、戦う術はある」
諦観に沈む俺に、しかしソウルは力強く言葉をかける。
ソウルの残っている方の細い手が俺の手を取り、一つの剣を掴むよう促した。
されるがままな俺の掌に乗せられたのは、刃のない剣。
その刃無しの剣を見ていると、俺とソウルが初めて出会った時のことを思い出してしまう。
「その剣の名は、“無刃のヴァニッシュ”。刃を持たない代わりに、実体なきものを斬り裂くと言われている剣だ」
「は? こ、これが?」
「ああ、そうだ。それを使え」
「……でもなんで俺なんだ? お前がこの剣を使えばいいだろ?」
「それはできない。私には資格がないからな」
骨と皮しかない枝きれみたいな手で、俺の手を上からしっかりと包み込むと、無刃のヴァニッシュを強く握り締めさせる。
その時に感じた温もりはきっと気のせい。
やがてソウルは俺に重ねた手を離すと、再び銀色の瞳を前に向けた。
「私の代わりに夜の王を倒せ、カガリ。隙なら私がつくってやる」
「隙って……無茶だろ。ソウル一人で、しかも腕を一本失っているのに!」
「……知っているだろ? 私はそう簡単に死なないさ」
たしかにソウルは俺が悠久の時を使っても死ななかった過去がある。
俺の言葉にそう返すソウルの声は、不思議といつもとは違うような気がして、それがなぜかたまらなく不安だった。
「カガリ、貴様の旅はまだ終わらせない。そのためにも、剣を握れ、立ち上がれ、夜の王に傷をつけろ」
それだけを言い残すと、ソウルは床を思い切り蹴りつける。
残された左手に剣を握り、真っ直ぐと夜の王に向かって行く。
このカガリビトはいつも説明不足で、荒唐無稽だ。まさに天災。そんなあだ名がぴったりだと思う。
どうしようもなく重い身体を無理くり起こし、俺は溜め息を一つ吐いた。
「愚かなカガリビトだぜ。この姿を見てなお、まだ剣を振るおうとするとはな」
ソウルが剛腕を振り回し剣を夜の王に叩きつけるが、やはりそれは空振りに終わってしまう。
闇の靄が鋭い刃物状になり、その数は十を軽く超えている。
白い歯を夜の王が見せると、浮かぶ闇の牙が全てソウルの身体に向く。
次の瞬間、飛び散る血飛沫。
一切の回避を許さず、ソウルの身体が串刺しにされたのがその理由。
しかしソウルは悲鳴の代わりに、一つ言葉を紡ぐ。
「……《光の向日葵》」
「あ? カガリビトが魔法だと? しかもこれは絶級魔――」
――眩い光が全てを照らす。
そして俺は走り出す。
真っ白な世界の中で、刃のない剣を振るう。
「【悠久の時】」
空中で静止していたソウルの血が顔にかかるがそんなものは気にならない。
身体に蓄積したダメージと能力の連続使用で意識が吹っ飛びそうだが、そんなもんは気にしてる場合じゃない。
「これがソウルの代わりだ」
つまらなそうにこちらを見やる夜の王に向かって、思い切り無刃のヴァニッシュを振り抜く。
一瞬、迸る蒼白光。
本来の速さを取り戻した世界で、黒い霧が血潮のように吹き出す。
「はァ? なんだこれ?」
膝から崩れ落ちる俺を眺めながら、夜の王の表情が困惑に歪んでいく。
完全な人型を保っていた闇の靄から、右腕の部分だけが霧散して消えていた。
次いで夜の王は今度は困惑から狂乱に表情を染め、絶叫を響き渡らせる。
「……あああああああ痛ってェェェェェッッッッッッッッ!?!?!?!?」
元に戻らない自分の腕を見ながら夜の王は顔を耳まで赤くさせる。
激憤に塗れた夜の王の瞳がこちらを睨みつけるが、俺はそれに笑みを返す。
これで俺の、いや俺たちの役目は果たした。
「《闇の終焉》 ……お疲れ様です、ソウルちゃん、カガリちゃん」
――どこからともなく聞こえる声に、夜の王の動揺がさらに拡大する。
そして夜の王の右腕から突如燃え上がる真っ青な火焔。
傷から溢れ出る炎の勢いは凄まじく、一瞬でその身全てを覆い込んでしまう。
「あああああァァァッッッッ!?!? なんだァこれは! この炎はなんだァッッ!?!?」
「闇の三王を倒すなんて、普通に考えたら無理ですからね。でも倒せないなら、封印してしまえばいいんですよ」
コツ、コツ、と聞こえる甲高い音。
視界の奥で揺れるのは、俺と同じ黒い髪に、これまた俺と同じ黄金の瞳をした一人の女。
混沌に歪んだ笑みを携えて、蒼い炎を手繰る魔女。
「どうも初めまして、ですかね? 夜の王、ゴーズィちゃん?」
「……お前か。お前が本物か。お前の仕業か闇の魔法使いドネミネェェェッッッッ!?!?!?」
呪詛のような声を喚く夜の王は必死で手を伸ばすが、それは決して届かない。
火焔の蒼が一際大きく一度光ると、凄まじい熱量を持った風が吹き荒れ、あれほど圧倒的だった気配が薄まっていく。
光の明滅。
風が止み、静寂が王間を満たす。
ぼんやりと宙に浮かんでいた火の玉を摘み、それを口に含むと黒髪の魔女は恍惚の顔を浮かべる。
そして王間の主であり、この異世界ディアボロで夜の王と呼ばれる吸血鬼の姿はもうどこにも存在しなかった。
***
【Level:165/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護,憂いの加護,狂気の呪い,混沌の呪い/Weapon:不治のポイズンアッシュ,無刃のヴァニッシュ,ありふれたローブ,質の良い鞘】




