第42話 名前ナキ革命―8
悪魔子爵ネクロシスは憤っていた。
悪魔族という魔物の中でも最上位種。しかもその内、闇の三王の一人であるゴーズィ・ファン・ルシフェルに最も近い、五幹部という地位についておきながら、たった一人の人間すら容易に排斥できない。
自らの力のなさに、ネクロシスは溢れる憤怒のままに絶叫する。
「アアアアアッ!」
「どうした? 不細工な金切り声を上げるのは止めてくれないか? 俺の鼓膜に相応しくない」
「小賢しいニンゲンめがぁ……!」
右の凶爪でその咽喉を突き破ろうとしても、細長い剣で軽くいなされてしまう。
身体能力では上回っているのに。
左の爪槍でその腕の関節を斬り落とそうとしても、最小限の動きで回避された。
身に纏う魔力でも劣ってはいないのに。
ネクロシスの目の前に立つ人間の男は、片手で剣を構えたまま傲慢に笑い続けるだけだ。
「私にはお前程度の人間に手を煩わせている時間はないのだ」
「お前程度の? 人間? はっはっはっ! これは傑作だ。俺ほどに価値のある人間は他に存在しないというのに、なんとも強欲な悪魔なことよ。俺はお前が羨ましく仕方がない。なぜならこの短き命の最後を、この美しき俺に見取って貰えるのだからな」
「減らない口め……!」
いまだ防戦一方で、反撃の糸口を見いだせていないように見える男。
しかしその男は挑発を頻繁に繰り返しては、力強い瞳に鋭さを上乗せするだけ。
追い詰めているのは自分の方。
ネクロシスは何度も己を鼓舞しながら、男の命を奪おうと両腕を振り続ける。
「攻撃がどんどん単調になっているぞ? 醜き悪魔よ。怠惰が過ぎるんじゃないか?」
「黙れ、ニンゲン。今その口を永久に閉じさせてやる」
「前から不思議に思っていたんだ。なぜ俺はこんなに美しいのに、俺以外のものたちはこれほど醜いのか」
「黙れ」
「だが聡明な俺はすぐに気づいたよ。俺は自らの美しさを比較対象なしに自覚できるが、醜物たちは違うのだと。俺の美しさを見て初めて、彼らはこの世界に醜さがあることを知るんだ」
「黙れと言っている!」
紡がれるのはネクロシスにとって理解不能な言葉。
挑発と交互に繰り返されるその意趣のわからない男の発言を、ネクロシスは咆哮で掻き消そうとする。
「はっはっはっ! ……だから単調になっていると言っているだろう? 人の話を聞かないのはお互いさまだな」
ネクロシスが叫び声ともに繰り出した大振りの一撃。
その瞬間、男は凄まじい速度でネクロシスの背後に回り込み、剣閃を奮う。
「ちっ! 小癪なぁ……!」
「ほう? いい反応速度だ。どこぞの紅髪よりはマシだな」
咄嗟に魔法を発動させ刃を防ぐが、そこから男はこれまでの防戦から一転して剣閃を畳みかけ始める。
(なぜだ。なぜ、私はまだこんな場所にいる……?)
男の猛攻を必死で受け止めながら、ネクロシスの思考は宙に剥離していく。
悪魔という種には六つの階級というものがある。
下から階級無し、男爵、子爵、伯爵、侯爵、公爵。その中でネクロシスは子爵の座につく。
しかし、ネクロシスは自らの階級に満足していなかった。
もっと力が欲しい。もっと上の階級が欲しい。もっと夜の王に近づきたい。
誰よりも夜の王に尽くしてきた。そんな自覚の中、ネクロシスは自問自答を繰り返す。
「私はっ……もっと……もっと先に行かなければならないのだ……!」
「そのお喋りな口にはこれをくれてやる。存分に食欲を満たすがいい。食事の時間だ。《アクアインゲニウム》」
「魔法だと……ぐっ!」
ここまで剣一つだけ戦ってきた男の突如発動させた水属性上級魔法。
完全に予想の範疇外からの攻撃に、ネクロシスは濁流を防げない。
身を押し潰すような痛みに耐えながら、それでも致命を狙う剣閃だけは捉え止める。
「おい悪魔。お前に最強の剣術がどんなものかわかるか?」
「ハァ……ハァ……」
傷だらけ身体を強靭な意志で立たせたまま、ネクロシスは男の剣を両手で掴んで離さない。
悪魔としての最高到達地点、公爵の地位に辿り着いたとき、自らに与えられる“罪”はなんだろうか。
ネクロシスはどこか頭の隅で、その想像が現実になることはないであろうことに気づいていた。
「最強の剣術とは、最も狡猾な剣術のことだ。どんな手を使ってでも勝利を手に入れ、最も多く勝利を手にした剣士が使う剣術こそ最も強く、最も美しい」
男がふいに剣を手から離す。
そしてこれまでずっと使っていなかった、空いている方の手を流れるような動作でネクロシスに近づける。
胸の突き刺さったのは冷たい感覚。
ネクロシスを貫いたのは見えない刃。
ゆっくりと視界に現れる光銀の刃を、ネクロシスはとても美しいと思った。
「これは“不視のアグアニ”。醜きお前の命を奪う、美しき死の鎌だ」
男の空いていた手に見える、これまでたしかに収まっていなかった銀刃の鎌。
両膝が地面に付く感触の中、ネクロシスは自らの罪をやっと知る。
「“嫉妬”……そうか。私は憧れていたのではなく、妬んでいたのか」
「俺に嫉妬か。心配するな。俺の美しさはお前に限らず、全てを曇らせる」
馬鹿が、お前にではない。
そうネクロシスは最後に言おうとしたが、微かに笑みをつくると瞳を閉じるだけにしておく。
音を立てずに倒れ込む、この世界で最も自らの主を敬愛した悪魔。
もうその瞳が開かれることはなく、静寂と勝者だけが残る。
「お前の死に様……醜くはなかったぞ、悪魔。俺が美し過ぎて目立たないがな」
そして男――トリニティは不視のアグアニを再び透明な状態にし隠すと、手放した剣を芝居がかった動きで拾う。
見上げた先にあるのは、王の住む城と、魔女の創り出した炎。
しかし彼は静かに背を向けると、城と炎とは反対方向に歩き始めた。
「……これで俺の役目は果たしたぞ、クロウリー。お前も自分の為すべきことをなせ」
小さく呟かれた声にはどこか寂し気な響きが含まれていたが、彼は大袈裟な靴音を立てるとそれを自分で打ち消す。
彼だけは知っていたのだ。
この名前なき革命には、大きな代償が支払われるであろうことを。
――――――
「がっ……はぁっ……!」
「このオレを騙したのか? 女ぁ?」
俺は慢心していた。
なにが戦うのが楽しみだ。馬鹿言うな。
闇の三王。それがどれほどの化け物なのか、予め聞いていたのに、それでもなお過小評価していたんだ。
ミヤとアルタイルを引き連れ、ソウルとも合流し、ついに王の間にまで辿り着いた俺たちを待っていたのは、まさに具現化した邪悪だった。
「やっと来ましたね……ミヤさん、アルタイルさん、ソウルさん、そして……カガリさん」
「んあ? なんだ、今日はやけに客が多い日だなァ。オレの部下どもは一体なにをしている?」
扉を開けた瞬間満ちる、吐き気を催すくらい濃密な魔力。
ただそこに立っているだけでわかる、規格外なんて言葉じゃ言い表せない力。
“夜の王”ゴーズィ・ファン・ルシフェル。
隣りにソウルがいてもなお、勝つイメージが全くわかない本物の怪物。
「お、おい、小さな魔女……あそこにいるのって……」
「はい……あれは、私の……」
そして夜の王は、王間の中心で一人の女の首を掴んで持ち上げている。
真っ白なマッシュルームカットで、誰かを思い出させるような顔づくりをした女。
床には見覚えのある鳥類を模した仮面が落ちているが、そんなことは気にならない。
片腕をすでに失った女は、いつ殺されてもおかしくない状況だった。
「黄金の瞳をしたカガリビトを……王に引き合わせる……これで、私の役目は終わりですね。なはは……」
「なーにが闇の魔法使いドネミネだぁ? このオレに嘘をつくとは、正気を疑うぜぇ?」
ミシミシ、と嫌な音が聞こえる。
真っ赤な血溜りが、女の真下にたまっていく。
どうやらあの女と、ミヤやアルタイルは知り合いらしい。
なら早く助けないと。でもどうやって?
少しでも近づけば、一瞬で殺されるイメージが頭をよぎり、俺は動けない。
「あとは……ちゃんと契約を……果たして下さいよ……めが……ら…」
「嘘つきの血は要らない」
――そして次の瞬間、女の頭部があり得ない方向に曲がる。
乾いた音が響き、次いで鈍い音が立つ。
前者は首の骨が折れた音で、後者は女の身体が床に落ちた音だ。
床に転がる女はもう動かない。俺たちもまだ動けない。
夜の王がこちらに顔を向ける。それでもまだ俺たちは動けないまま。
長い旅の果てで、俺は絶望と対峙している。
「名前をつける価値すらない革命ごっこの時間は終わりだ。ここから先はこのオレ、“夜の王”ゴーズィ・ファン・ルシフェル様の美食の時間さ」
***
【Level:165/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護,憂いの加護,狂気の呪い,混沌の呪い/Weapon:不治のポイズンアッシュ,ありふれたローブ,質の良い鞘】