第39話 名前ナキ革命―5
俺はミストサウナが嫌い。
そんなどうでもいいことは覚えているのに、自らの名前は思い出せないとはなんとも不思議なものだ。
蒸し暑い黒の霧のようなものは全て散開していて、厳かな街の景観が見事に崩れ去っているのが見て取れる。
ご丁寧にもケイル・ライプニッツと自己紹介をしてくれた少女は茫然自失の表情で、このお嬢さんとの勝負はこれであったといえるだろう。
しかし、この先どうする?
このお嬢さんはたしかに人間だが、夜の王の幹部、つまりは敵だ。
普通に考えればこのまま殺してしまうべき。だが心情的にはあまりか弱い女の子を殺したくはない。でも見逃せばこの先なにか問題が起こるかもしれない。
仕方ない。やっぱり殺すか。
「ふ、ふざけないで、アンタは何者なのよ……いきなり現れて、めちゃくちゃな力を見せつけて、一体なんなわけ?」
「悪いな。俺はお嬢さんとは違って自分の名前がわからないんだ。自己紹介のお返しはできない」
さっきまでの威勢もついに消え、少女は両膝をへなへなと地面につかせる。
俺が一体なんなのか。
それはこっちが知りたいくらいだよ。
「それで、どうだ? まだやるか? まだ俺に勝てる気がしてる?」
「……くそが。性格の悪いくそ骨やろう。でもアンタ、本気で夜の王に勝つつもりなの?」
「ああ、もちろん。そのために俺はここに来た」
「前から思ってたんだけど、なんでアンタらカガリビトはディアボロの篝火を目指すわけ? その先になにがあるの?」
「それは……」
しかしここで、今日一番のカウンターを少女は見舞ってくる。
篝火を辿れば、闇の三王を倒した先になにがあるのか。それを俺は知らない。
ドネミネ曰く、生者の喜びと朽ちることなき名をくれるらしいが、それがどんな意味を持つのはわからない。
知らないこと、わからないことだらけだ。
「まあ、別に答えてくれなくてもいいよ。そこまで興味があるわけじゃないし」
っておい。興味ないのかよ。ちょっとくらい気にしてよ。どうでもいいなら最初から訊かないで欲しい。
「はぁ……なんか疲れちゃった。アンタと戦うのも、アンタと話すのも、人間として魔物の側につくのも、人間が虐げられるのを見てみぬふりするのも、そして生きることそのものも全部疲れちゃった」
カガリビトという存在から興味を失った少女は、緋色の瞳を憂鬱気に伏せる。
さりげなく彼女の本心が覗きかけたような気がしたが、俺もケイル・ライプニッツという一人の人間にさほど興味があるわけではないので、詮索はしない。
「もう、終わりにしてよ。僕はもう、疲れちゃったから」
これは彼女の選択で、彼女の道だ。
偶然彼女が選び、進んだ先に俺がいただけのこと。
このまま交差した道を歩き続けても、彼女は俺を恨まないだろうし、俺も彼女のことを後悔などしないだろう。
呪われたように燃える篝火に照らされる中、俺は漆黒の刀を握り締めくたびれた顔の少女に歩み寄って行く。
「最後に何か言い残すことはあるか? 俺は案外こういう形式に憧れをもつタイプだからな、ちゃんと聞いてやるぞ」
「そうだね……できれば僕の代わりに――」
そして少女は俯かせていた顔を上げると、真っ直ぐと俺の瞳に視線を送る。
血のように赤い瞳を煌めかせて、彼女は自分の代わりなんて言葉を俺にのしかけた。
「――夜の王を殺して。僕は諦めたけど、アンタなら届くかもしれない。同じ半端者のよしみとして、叶えてよ。僕の諦めた夢を」
夜の王を殺す。
そんなことは頼まれなくたって、やるつもりだ。
そのために俺はここまで遠路はるばるやってきたのだから。
頷きを返さないまま、俺は剣を少女、ケイルの顔の横まで上げる。
遠巻きには数多の悪魔がまだ残っている。
俺の選択した道は、闇の三王を倒すためのもの。
その道を進むためには、どんなことだってしてみせる。
覚悟と考えをまとめた俺は、不壊のファゴットと呼ばれる黒刀を大きく振りかぶり――
「いいこと思いついた」
「……え?」
――強烈な斬撃を見物客になり果てている悪魔の群れに向かって飛ばした。
「お疲れのところ申し訳ないが、お嬢さんにやってもらいたいことができた」
「は? なに? なんなわけ? 早く僕を殺しなよ」
「どうしても殺して欲しいってなら、俺が夜の王を倒した後に聞く」
「全然意味わかんないんだけど」
俺が今ここで彼女を殺せば、今はただのオーディエンスとなっている悪魔どもがまた襲い掛かってくるだろう。
だが正直言って、こんな小物どもとの消耗戦をやるのはもうお断りしたい。
つまり、俺の代わりに悪魔を引き付ける役目を誰かにしてもらいたいということだ。
そして運のよいことに、適切な人材はすでに目の前にいる。
「お嬢さん、いやケイル。お前にはここらにいる悪魔の相手を俺の代わりにして欲しい」
「は? なにそれ?」
「俺がお前の代わりに夜の王をぶっ倒してやるんだ。妥当、というよりはむしろかなりお得な交換条件だろ?」
「……アンタ本気で言ってんの? 僕に寝返って、アンタの味方をしろって?」
「そうだが?」
「……馬鹿じゃん。狂かれてる」
言葉とは裏腹に、ケイルの疲労した表情に力が戻ってくる。
別に俺は善意とかそういう理由で彼女を殺すことを止めたわけじゃない。
ただ俺に都合の良いように、あくまで利用するためだ。
「アンタが失敗したら、絶対僕夜の王に殺されるじゃん」
「言っておくが、断るならここで今殺すぞ? 俺は悪いカガリビトなんだ」
「あははっ、性格くそ過ぎ。こんなか弱い少女を脅すとか」
「自分で言うなよ。まあ、たしかにか弱いけど」
「アンタ本当ムカつく」
ケイルは一度自分の髪をくしゃくしゃにすると、薄い笑みを浮かべて立ち上がる。
紅緋の瞳には鋭さが戻っていて、俺に向けて挑発的に顎をしゃくった。
「でもいいよ。乗ってあげる。その代わり僕の最後の願いを叶え損ねたら、絶対許さないから」
「それは助かる。まあ、怪物対峙は怪物に任せろってこった」
もしかしたら俺はケイルに、さらに過酷な道を選ばせているのかもしれない。
この際限なく増え続ける悪魔たちに、彼女一人で勝てるのか。
一思いに俺が殺してやった方が、楽になれる可能性だってある。
生きることに疲れたとまで言った少女に、これ以上戦いを強いるのは、本当に人間の所業ではないかもしれない。
もう俺は心まで、カガリビトになってしまったのか。
「……そうだな、一応、これを“やるよ”」
「は? なに? どういうつもり?」
俺に背を向け、いまだ困惑を続ける悪魔たちに睨みをきかせるケイルに、俺は一振りの剣を渡す。
漆黒の片刃をした剣、不壊のファゴット。
俺にとってこの剣はそこまで重要ではない。実際のところ、ここから先の戦いには余裕がなくなるはず。
不治のポイズンアッシュを出し惜しみする暇はなくなるだろうからな。
「もしかして僕が心配なの? 自分の剣をくれるなんてさ」
「別にそんなんじゃない」
俺から不壊のファゴットを受け取ったケイルは、馬鹿にしたような視線を送ってくる。
だけど俺はそれを鼻で笑ってやる。
ただこれで少しでも時間稼ぎになればいいと思っただけだ。親しくもなんともない異世界の少女の身を案じられるほど、俺は心が広くないし、余裕もない。
紅高く立ち昇る篝火に身体の向きを変え、俺は悪魔が焼け焦げ苦しみに呻く声を背中に聞いた。
「ただの憐みだよ。か弱い少女に送る、名もなきカガリビトからの憐み。それだけさ」
***
【Level:164/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護,憂いの加護,狂気の呪い,混沌の呪い/Weapon:不治のポイズンアッシュ,ありふれたローブ,質の良い鞘】