第37話 名前ナキ革命―3
血の魔法と呼ばれるものがある。
ディアボロ世界において魔法とは正確な知識、綻びのない論理、十分な魔力によって発動されるものであるが、血の魔法にはそのうち知識と論理の必要がない。
生まれながらの絶対なる才。遺伝という形でのみ、その選ばれし血族のみに使用することができる特異な魔法。
それこそが血の魔法と呼ばれるもので、彼女――ケイル・ライプニッツが夜の王の配下に人間ながらにして座することが許された唯一の理由だった。
「《悪魔の束縛》」
これまで人間、カガリビト、魔物、種族問わず幾多の命を奪ってきた黒炎を手繰りながら、ケイルは小さく舌打ちする。
地獄の唸り声のような音を放ちながら地面から出没する、鎖の形をした漆黒の炎。
しかし、その黒鎖を軽やかな動きで完璧に回避してみせる一体のカガリビトがケイルを苛立たせていた。
「おっと。危ない危ない」
「くそが。僕にはどうにも危ないと感じているように思えないんだけど」
「言葉遣いが悪いな、お嬢さん。そんなんじゃお嫁にいけないぞ?」
「死ね」
黒炎の鎖を鞭のようにしならせるが、軽口を叩く骨と皮の怪物は鮮やかな動きで全て躱しきる。
魔力をさらにつぎ込み燃え盛る黒い鎖の数を増やしてみても、カガリビトが着るヴィーナスの街で家畜と呼ばれる人間の女のローブに焼け跡一つ残せない。
(このカガリビト……強いな。レベルはいくつだ? 身体の露出した箇所に数字は見当たらない。面倒だな。見る限りの外見的特徴から、知ってる名付きのカガリビトにこいつはいないけど……はぁ、本当に面倒。というかアリスはまだ来ないの?)
黒い髪に黄金の瞳。背丈は普通の人間男性よりほんの少し高い程度。
右手に持つ黒い刃の剣にはどこか見覚えがあったような気がしたが、それも思い出せない。
実力があり、高いレベルを誇るカガリビトならば目の前の相手が無名なはずがない。
ケイルは眼先のカガリビトの強さと情報の少なさとのアンバランスさに、困惑を覚えた。
「ねぇ、ちょっと一つ訊いていい? 人間の言葉話せるみたいだしさ」
「なんだ。いいぞ。答えられる範囲の質問ならな」
気づかれないように振り回す黒炎の速度と密度をケイルは上げているが、いまだカガリビトは捉えられない。
周囲の悪魔たちはすでにケイルの勝利を信じ、傍観に徹するのみだ。
「アンタのレベルっていくつ?」
「俺のレベル? そうだな……だいたい100くらい?」
「嘘」
「えぇ!? や、やるな。まさかそんな一瞬でバレるとは思わなかったぞ」
「僕をあんまり馬鹿にしないでくれない? そんな嘘に騙されるわけないじゃん。まあ、最初から正直に話してくれるとは思ってなかったけど」
悠長な会話の間も、闇色の炎の勢いは増し続けている。だがそれでもカガリビトは焦り一つ見せず、鎖の猛攻を掻い潜っていた。
(レベル100とか……いくらなんでも盛り過ぎ。そこまで規格外の力を持つカガリビトが無名なわけないじゃん。たとえ名付きになる前に急成長したとしても……ううん、無理無理。そんな速さでレベルを上げることが可能なら、もうとっくのとうにこの世界はカガリビトに支配されてるっての)
カガリビトの中でも最高の力を持つと言われる“天災”のカガリビトでさえここ数十年は姿を見せず、レベルも百を少し超えた程度だと認識されている。
そしてその天災は、カガリビトの中でも圧倒的に突出した存在だ。世界で二番目に高いレベルのカガリビトとされる、“安寧”のカガリビトでさえ、レベルは六十後半と推定されている。
目の前にいるカガリビトが言った100という数字はブラフ。
騙されるわけがない、というより荒唐無稽過ぎて、はったりにすらならないような言葉にケイルの苛立ちが増幅させられた。
「まあでも、俺のレベルなんてどうでもよくないか?」
「どういう意味?」
「だってお前が俺に勝てないってことはもうわかっただろ?」
「……は?」
ケイルの思考が一瞬そこで凍り付く。
彼女は悪魔や他者に比べてプライドが高い方ではない。
しかし無名のカガリビトという存在にはっきりと侮られ、初めて彼女に苛立ちを超えた憤りが生まれた。
「言っておくけど、まだ僕は本気出してないよ?」
「いや、もうお前の実力はだいたいわかった。お前も気づいてるだろ? 俺があえて反撃をしてないってことくらい。今、お前がまだ生きていられてるのは俺の気まぐれ、というより俺の方にも訊いてみたいことがあるからだよ」
「へぇ、ずいぶんと上からな物言い方をするカガリビトじゃん。……いいよ。きいてあげる。答えられる質問の範囲ならね」
辺りを埋め尽くしていた炎の黒鎖を全て消失させ、ケイルは緋色の瞳で前方を睨みつける。
たしかにいまだにケイルの魔法は一切、黒髪のカガリビトを傷つけられていない。
だがそれでも彼女が全力を出していないのもまた事実で、それは街の建物や周りの悪魔に被害が及ばないよう配慮してのことだった。
「そうか? できれば正直に答えてくれよ? ……お前は人間のはずだ。それなのに、夜の王とかいうわけわからん悪魔の味方をしてるのはなぜなんだ? お前は人間にしては強い方だ。それにも関わらず、なぜお前は人間を裏切った?」
「……はっ、なにを言い出すかと思えば、そんな下らないこと。なぜ僕が夜の王につくかって? そんなの決まってるじゃん」
ケイルはもう一度大きな舌打ちをする。
身体中の魔力を集約させながら、彼女は心のかさぶたを無遠慮に剥がそうとする骨と皮の異形種に偽りの言葉を返す。
「生きたいから、理由はただそれだけ。人間は弱い。こんな劣等種の側についたって、ろくな生活もできずに毎日死に怯えながら過ごすことになるだけじゃん。だったら夜の王の配下になって、弱者の生き血をすすって贅沢な日々を過ごす方がいい。幸い、僕にはその道が選べるだけの力があったからね」
「……それが、お前の本心か?」
「は? なに? なんか文句でもあるの? 人間でもなく、魔物でもない半端者。ディアボロの篝火によって生み出されたただの怪物のくせに」
「……いや別に、非難するつもりはない。単純に本当かな、って疑問に思っただけだ。てっきり俺は、違う理由で悪魔側についたと思っていたんでな」
「あっそ。ちなみに興味ないから、その見当違いだった理由は話さなくていいよ」
「え? あ、はい」
顎に手を当て、さらに言葉を続けようとしたカガリビトをケイルは止める。
彼女は怯えていた。
所在なさげにうつろう黄金の瞳が、彼女の心内を見透かしているような感覚が酷く不愉快だったのだ。
「おかしいな。絶対ここで俺が本当のことを言い当てて、ほら、図星だろ、みたいな流れになると思ったのに」
「なんかまだまだ喋り足りないみたいだけど、一つ、残念なお知らせ。アンタはもうこれ以上その口を動かすことはできなくなるよ」
湯気のようにケイルの全身から漆黒の炎が薄く立ち昇る。
会話を交わす間に集中させていた魔力がついに、許容限界にまで達したのだ。
そしてついに絶大な魔力を一気に外部に放出し、ケイルは自らの持ちうる最大の魔法を躊躇なく顕現させる。
「だってアンタは、ここで消し炭にされるんだからさ。《悪魔の冒涜》」
爆散する明度の一切存在しない黒闇の霧。
夜よりも深い闇を携えた霧は、烈火の熱を孕んだまま光の速さで広がっていく。
その黒霧に触れた建物は溶けて原型を失い、その闇霧に触れた悪魔たちは断末魔さえ許されずに蒸発していった。
「悪いが、ミストサウナは趣味じゃないんだ」
――しかし、たった一つの斬撃がその黒く淀んだ霧を全て薙ぎ払い消し去る。
ケイルの呼吸を妨げるほどの風圧。
背後から聞こえる何かが破裂し、崩壊するような音。
炎の霧が散り散りになり、ひらけた視界で揺れるのは見覚えのある癖のない黒髪。
「嘘……でしょ?」
息を取り戻したケイルは戦慄する。
不自然に切断された自分の黒い前髪を手で触れながら後ろを振り向いてみると、そこには斜めに切断された建物が数区画分続いている景色が見て取れた。
「こっちは嘘じゃない。ミストサウナが嫌いなのは本当だよ」
***
【Level:164/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護,憐みの加護,憂いの加護,狂気の呪い,混沌の呪い/Weapon:不治のポイズンアッシュ,不壊のファゴット,ありふれたローブ,質の良い鞘】




