第29話 狂える賢者
視界が白一色に覆われるほどの猛吹雪。
呼吸すら困難になる雪銀の世界で、一人の男が精神を研ぎ澄ましている。
赤の剛毛にも氷片が降り積もっているが、手に握った一振りの剣以外には意識をさく余裕はなさそうだ。
「――っ!?」
瞬間、男は突然大きく前傾姿勢をとる。
その直後、頭上を凄まじい速さの斬撃が通り過ぎ、男も素早く反転し剣を振るが、その刃は雪風をかすめるのみ。
短く舌打ちをした紅髪の男は再び周囲に目を配るが、彼の探す影はどこにも見えない。
握りを直し、姿勢を正し、男は呼吸を整える。
「……!」
そして男はもう一度反転。すると全く同じタイミングで斬撃がまたもや飛んでくる。
しかし今度は男は動揺の表情は見せず、口角を上げると高らかに笑い腕を振り抜いた。
「ついに見切ったぜっ!」
正面に見えた斬撃を斬り裂き、男は一歩踏み出そうとする。
だがその刹那、男の笑顔がピキリと凍り付き、踏み出した足はそこで止まり動かない。
「醜い顔のわりにはマシな反応だな、アルタイル」
「げ」
背後からふいに聞こえる声に男――アルタイル・クリングホッファーは戦慄する。
咄嗟に自らの身を剣で守るように受け身を取るが、小爆発のような衝撃にアルタイルは剣をごと吹き飛ばされてしまう。
「痛ってぇっ!?」
「おいおい。なんだその醜い顔は? 俺の吐き気を誘い隙を窺う作戦か? 醜い顔のくせに考えたな?」
「うるせぇよっ! つか醜い顔連呼すんな!」
雪原を転がるアルタイルに容赦なく降りかかる斬撃の雨。
器用に身体をくねくねと動かして致命傷を避け、声を張り上げて自らの健在を主張する。
「なんでお前はいつも背後からばっかり攻撃してくんだよ! トリニティ! 卑怯だぞ!」
「卑怯? 俺がか? 相変わらずお前の思考回路は愚鈍過ぎて、余計に俺の素晴らしさが際立つな。俺はただ無防備な背中を問答無用で切り捨てるのが個人的に好きなだけだ。あと俺のことは聖トリニティ様と呼べと言ったはずだが?」
「呼べるか! 恥ずかしい!」
傲慢な嘲りの色を隠さない一人の男が、いきり立つアルタイルへ優雅な足取りで近づいていく。
“剣聖”トリニティ・アナスタシア・ヴィヴァルディ。
ディアボロという世界の中で剣士として傑出した男が、アルタイルの視線の先で銀色の長髪を暴風に靡かせていた。
「しかしお前はまだ無傷か? 凡才の分際で生意気だな」
「ったく……今更だがなんで俺がこんな奴に剣術を教わることになったんだか……」
「教わる? まさかお前が? 俺にか? 勘違いするな。これは俺がお前をいたぶっているだけだ。だがそれでも感謝をするべきだろう。この俺と剣を合わせられる幸運にな」
「本当に腹立つぜ。だけど今日こそ一泡吹かせてやる」
アルタイルは小刻みにステップを踏み出す。
不安定で落ち着きがない、しかしどこか規則的な動きで、剣先を定める。
「行くぜ! トリニティ!」
「お前はいつも真正面から剣を向ける。なにか理由があるのか?」
「そんなもん! 男はいつでも真っ向勝負だろうがっ!」
「あまりに愚かで美しさに欠ける理由だな。ある意味お前らしいぞ。むろん褒めてはいない」
横薙ぎ。上段斬り落とし。正面突き。
ありとあらゆる角度から飛び出すアルタイルの剣を涼しい顔でトリニティは躱していく。
しかしそれでもアルタイルの勢いは増していくばかり。
段々と剣戟の速度は加速していき、あまりの剣圧によって雪氷が二人から遠ざかっていった。
「……相変わらず無駄なフェイントが多い。戯けるのも大概にしろ、アルタイル」
「なっ!?」
だがアルタイルの猛攻は唐突に遮られる。
完全に注意がおろそかになっていた足下を蹴り払いされ、アルタイルは宙に放り出された。
致命的な隙。
嬉しそうに笑うトリニティの顔を見て、アルタイルはここしばらくの間で何度目かわからない死の覚悟をした。
「死ぬなよ? アルタイル」
「ちょ、手加減――」
超速で繰り出された鮮烈な一撃。
反射的に剣を前に放り出したが、足が地面についていないために踏ん張りが効かず、アルタイルは自前の剣が粉々に砕け散る感覚と共に弾き飛ばされた。
またもや白雪の絨毯を派手に転げまわるアルタイルは、脳天の揺さぶりのあまり気を失う。
「流石俺。まさに圧倒的。いつになく唯一無二の存在だ。さて、あの愚か者をもう一度起こして……ん?」
手応えからアルタイルの失神を確信していたトリニティは、気絶から目覚めさせようとするが、その寸前で動きを止める。
感じたのはアルタイルとは比べものにならない存在感。
だがその気配に馴染みのあったトリニティは剣を仕舞うと、いつもと同じように予告のない来訪者へと身体を向き直した。
「なはは♪ そっちもそっちでずいぶん楽しんでるみたいですね♪ トリニティさん♪」
「クロウリーか。何の用だ? まさか俺の美麗な顔を見に来たのか?」
吹き荒れる雪と同じ真っ白なマッシュルームカットを揺らす一人の女。
“狂える賢者”クロウリー・ハイゼンベルグ。
強大な力を持つ謎多き魔女が、いつからそこにいたのか、トリニティの後方で目を細めている。
「そんなわけないじゃないですか。さすがにそこまで愚かな理由でトリニティさんに会いには来ませんよ」
「そうだな。俺を網膜に焼きつけたところで、その瞳の輝きが俺に比類するわけでもない。さすがにそこまで愚かではないか」
「ええ、そこまで愚かではありません」
クロウリーは口と腹部を抑えて湧き上がるおかしさを押し留めることに苦労する。
そんなクロウリーの様子には気づかず、トリニティはというと辺りの雪景色はさぞ自らを映えさせているだろうなどと考えていた。
「それで結局、お前は何の用でここに来たんだ? ……ん? 待て、お前の後ろにもう一人誰かいるな? あまりにも気配が小さすぎて気づかなかったぞ?」
「なはっ♪ 私の可愛い弟子に気づかないなんて、無神経な人ですね、トリニティさんは」
「それは聞き捨てならないな? 俺は全てにおいて完璧。無神経なわけがないだろう」
トリニティのその言葉を聞いたためか、クロウリーの背後から一人の少女が顔を出す。
前髪が幾分か長い金色の髪の隙間からのぞく、感情の読み取りづらい灰色の瞳。
その少女は軽くトリニティに頭を下げるが、彼女の予想通りそれは無視された。
「まあ、それはいい。要件を話せ、クロウリー」
「はい。今日はお誘いに来たんですよ。……夜の王討伐の」
「なんだと? 話が違うぞ、クロウリー。俺の役目はあの醜い愚か者を鍛えるだけではなかったのか?」
「今日が期限日ですけど、鍛え終わりましたか?」
「……お前、最初からそのつもりだったな? 期限日があるなど聞いてないぞ」
「訊かれませんでしたので♪」
あからさまに不機嫌な顔をつくるトリニティに対し、クロウリーは笑みを崩さない。
先に折れたのはトリニティで、瞳を閉じると前髪を指で弄り始める。
「……勝算はあるのか? 俺はたしかに完璧な存在だが、最強ではない」
「もちろん♪ むしろ今ほど夜の王を滅ぼすチャンスはありません。まだ詳しくは言えませんが、強力な助っ人がいますので」
「……ふん。ならいいだろう。見返りは“ヴィーナス城”。忘れていないな?」
「当然♪ 私はめったに嘘はつきませんよ」
クロウリーの黄金の瞳が大きく見開かれ、トリニティは大袈裟な動作で外套を翻す。
猛尽の吹雪は止まず、視界は不明瞭なまま。
「あの醜い愚か者の面倒をみるだけで、見返りはヴィーナス。むしのいい話だとは思っていたが、まさかこの俺を夜の王との戦いに巻き込むつもりだったとはな」
「ちなみにそっちのお弟子さんはどこですか? 見当たりませんけど?」
「そこらへんで寝ている。あいつは一日の半分は寝ているからな」
「そうなんですか。あまりに気配が小さくて気づきませんでしたよ」
「だろうな。あいつの気配に気づける奴の方が少ないだろう」
はっはっはっ、と何が琴線に触れたのかトリニティは突如高笑いする。
そしてそんなトリニティを見たクロウリーも、理解不能な男の言動にまた笑みを堪えることになった。
二人の圧倒的実力者がそれぞれ腹を抱える姿に、一人に取り残された少女だけが気落ちしている。
「……さて、それでは善は急げ。私たちも行きましょう。ヴィーナス。夜の王が支配する地へ。私は転移系の魔法も使えるので、皆さんをお連れしますよ」
「相変わらずその魔法は便利だな。完璧な俺に使用できないのが不思議でしょうがない」
「完璧の意味わかってますか? トリニティさん?」
「当たり前だ。完璧とは俺の同義語だろう?」
クロウリーは腹を抱えてうずくまる。トリニティは不思議そうな顔をするが、そこに自分が関わる理由はないと判断し、すぐに髪型を整えることに意識を向ける。
その横で少女だけが達観したような表情で、事態が進むのを待っていた。
「……ふう。本当にトリニティさんはさすがですね。それでは今度こそ、本当に行きましょうか」
「俺を褒めるのは一向に構わないが、一つ気になったのは、お前の言う強力な助っ人とは誰の事だ?」
「なはは♪ トリニティさんはせっかちですね。それはついてからのお楽しみでいいじゃないですか。でも、そうですね、ヒントくらいなら教えてあげてもいいですかね」
白銀の世界で、いまだ微笑み顔に張り付けたまま、クロウリーは黄金の瞳の中に混沌を煌めかせる。
近づく変革の時に、心を躍らせるのは、無邪気な狂気が理由だった。
「ちょっとばかしお茶目が過ぎる、私のお姉ちゃんですよ。あ、これじゃあヒント出し過ぎですかね?」
【Level:?/Ability:?/Gift:?/Weapon:?】




